第87話 少年、牙を剥く
風のない、夕暮れの荒野。
見えない壁の前、ジーク、カイン、ミリアの三人は焚き火を囲み、体を休めていた。
昼間の疲れが、彼らを苛む。
---
ジークは壁の前に立ち、何度も拳で叩き、脚で蹴った。
透明な壁はびくともしない。
カインは石を空に投げ上げる。
石は遥か上空で壁にぶつかり、跳ね返って地面に落ちた。
「相当な高さがあるな……」
壁を登って超えるのは難しそうだ。
ミリアが音の流れを探る。
「どこかから音が漏れ聞こえる場所があればいいんですが……」
だが、どこにも『入り口』はなかった。
「……このままじゃ、どうにもならないな」
カインが苦い声で呟く。
ミリアは壁にそっと手を当てる。
「まるで、空気が固まってるみたいです……」
ジークは一歩も引かない。
血走った目で壁を睨みつけ、何度も何度もスクラマサクスで叩きつける。
鈍い音が響くたび、手が痺れる。
だが、ここで諦める気は毛頭ない。
「……絶対に、ここを越える。そして結衣を救い出す」
ジークの声は獣の唸りのように低かった。
カインがその肩を叩く。
「ジーク、無茶はやめろ。力押しじゃどうにもならない」
「…………」
ジークはカインの手を振り払う。
何度も壁と格闘した彼の拳からは血が滴り、砂に赤い染みが広がっていた。
痛みすら感じていないようで、ジークは今度は壁に体当たりを繰り返す。
まるでやり場のない思いを壁にぶちまけるかのように。
壁の向こうに、必ず結衣がいるはずだ。
あの時守れなかった結衣を、今度は絶対に救い出してみせる。
その執念だけが、彼を突き動かしていた。
「ジークさん……」
ミリアが心配そうに声をかけるが、その思いがジークに届くことはなかった。
そして、壁を打ち崩すことも。
---
焚き火の薪が爆ぜた、その時。
空気がかすかに震えた。
壁の中から、何かが滲み出すような気配が広がる。
焚き火の炎が不自然に揺らめいた。
次の瞬間、壁が水面のように歪み、ひとりの青年の姿が浮かび上がった。
銀髪に灰色の瞳。
黒いロングコート。
グレーのシャツに黒い細身のパンツ。
フードを目深に被っている。
三人がどれだけ束になってかかってもびくともしなかった壁を、青年は内側からいとも簡単にすり抜けてきた。
コートのポケットに無造作に手を突っ込み、青年はゆっくりと、こちらに歩いてくる。
その瞳には生気がなく、その顔には一切の表情がない。
三人は息を呑んだ。
カインが問いかける。
「君は……いったい……?」
目の前の出来事が信じられない。
ミリアも驚きに目を見開く。
だが、ジークの反応は違った。
彼は一歩前に出て、青年の進路をふさぐ。
「……アルドベリヒが言ってた『魔王』ってのは、お前か?」
威嚇するような低い声。
腰のスクラマサクスを抜き、その刃をレイに向ける。
青年はジークを見やる。
その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
そして、初めて口を開いた。
「『魔王』って僕のこと? まあ、どうでもいいけど」
淡々とした声は、まるで何もかもが他人事のようだ。
カインが戸惑う。
「……君は本当に『魔王』なのか? いや、しかし……」
ミリアが呟く。
「信じられません、この方が……?」
ジークは二人の言葉を無視した。
その眼は血走り、呼吸は荒い。
まるで野生の狼のようだ。
「……お前が『魔王』かどうかはどうでもいい。結衣を返せ」
ジークの瞳に宿る数多の怒りが、吐け口を求めて彷徨っている。
結衣を守れなかった怒り、結衣をみすみす敵の手に渡した怒り――
スクラマサクスをきつく握りしめたその手は血行が止まり、白くなっていた。
「……ジーク、どうもアルドベリヒから聞いた話と違う。少し様子を見よう」
カインが制止する。
「そうです、ジークさん! 結衣さんの無事を確かめるのが先です!」
ミリアも必死に訴える。
だが、ジークの昏い眼は青年だけを見据えていた。
青年は面倒そうにジークを一瞥した。
「君に敵意を向けられる覚え、僕にはないんだけど」
「……そうかよ。じゃあ力ずくで結衣の居場所を吐かせるまでだ」
「へぇ、やってみなよ」
青年の挑発は効果てきめんだった。
ジークの顔色がみるみる変わる。
「……ちょうどいい、どのみちお前は倒す予定だったんだ。今ここでやってやるよ!!」
ジークの激昂に、カインが叫ぶ。
「待つんだジーク! 冷静になれ!」
ミリアも悲鳴を上げる。
「お願いジークさん! やめてください!」
だが、ジークはふたりを無視して青年に飛びかかり、二刀流の刃で斬りつけた。
思わずミリアが両手で顔を覆う。
――その瞬間、ジークの視界から青年の姿が消えた。
「何っ……!?」
そして次の瞬間。
青年はわずかに目を細め、心底面倒そうにため息をついた。
ポケットから手を出すことなく、片足を軽く振り上げる。
ドゴッ!
鈍い衝撃音。
青年の回し蹴りをまともに受けて、ジークの体が宙を舞う。
そのまま数十メートル先まで吹き飛ばされた。
「ジークさん!!」
ミリアが悲鳴を上げる。
ふたりはすぐに駆け寄り、ジークを助け起こそうとする。
だが、ジークは一撃で気を失っていた。
「…………」
カインとミリアは無言で青年を睨みつける。
だが青年は、ふたりの警戒をまるで意に介さない。
「そいつがいるとおちおち話もできないだろうからね、ちょっと寝てもらったよ」
淡々とした、無感情な声。
その態度に、ミリアは憤った。
「だからって、何もここまでしなくても……!」
青年は肩をすくめる。
「だったら君たちには、今の彼を抑えられた?」
「それは……」
ミリアは言葉を失う。
カインも鋭い目つきで青年を見上げた。
「……どうやら、君は見かけによらず、かなり危険な人物のようだ」
ふたりの反応とは対照的に、青年はまるで興味なさそうにあちらの方角を見やる。
「……で、君たちがわざわざここまでやってきたのは、僕に話があるからでしょ? いいよ、聞いてあげる」
どこまでも無気力で無関心な声。
その灰色の瞳に、光はない。
ジークの無事を確認し、カインとミリアは青年と対峙する。
青年はただ、面倒そうに彼らを見下ろしていた。
緊張が、その場を支配する。
風が止み、空気が張り詰める。
意識を失ったジークの手が、砂の上で微かに動いた。
まるで、まだ壁を叩こうとするかのように――