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第85話 壁の向こうに、君がいる

 森を抜けた瞬間、世界が一変した。


 地平線まで続く乾いた大地。

 わずかに残る背の低い草が、風に揺れてささやく。

 空は高く、雲は薄く伸び、日差しがじりじりと肌を焼く。

 乾いた空気が喉にまとわりつき、息を吸うたびに肺の奥がじりじりと焼けるようだった。


「……道らしきものはないな」


 ジークが額の汗を拭い、遠くを見やる。


「水の残りも、あまりありません……」


 ミリアが水筒を振る。


「とりあえず、陽が高いうちは無理に歩かない方がいい。朝と夕方に進んで、昼は日陰で休もう」


 カインが的確に指示を出す。

 ジークは無言で頷き、先頭に立った。


 足元の土は乾ききって、踏みしめるたびに細かい砂埃が舞い上がる。

 靴の中に砂が入り、歩くたびにじゃりじゃりと音がした。

 遠くで何かの影が動いた。


「……なんだ?」


 ジークが目を細める。

 荒野の向こう、低い丘の上に、獣のようなシルエットが見えた。

 だが、すぐに姿を消す。


「魔物か……? いや、あれは……」


「多分、レオパードだろう。夜行性の群れだ。昼間はあまり動かないはず」


 カインが辺りを確認する。

 その側ではミリアが足元の草を一本摘み、葉の裏をじっと観察した。


「この草、葉の色が少し変ですね……枯れているわけでもないのに、灰色っぽいです」


「何かの影響か?」


「……わかりません。でも、慎重に進んだ方がいいです」


 ジークは足元の石を蹴飛ばした。

 石の裏には、干からびた虫の死骸があった。


「生き物が少なすぎる……普通、もっと虫とかトカゲとかいるだろ」


「確かに……ここは、俺たちの常識が通用しない場所なのかも知れない」


 カインが地面にしゃがみ込み、土をすくって指先で揉む。

 さらさらとした感触。

 土というより砂に近い。


「この土……水分が抜けすぎてる。まるで、何かに吸い取られてるみたいだ」


「フン、気味が悪いな」


 ジークは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


---


 太陽が高く昇る。

 三人は大きな岩陰に身を寄せて休憩を取った。


 風が吹き抜け、乾いた草の匂いが鼻をくすぐる。

 遠くで、カラスに似た黒い鳥が飛び立つのが見えた。


「……この辺り、音の聞こえ方が少し変な気がしませんか?」


 ミリアがぽつりと言った。


「風の音だけが妙に大きくて、他の物音はほとんど聞こえません」


「確かに……」


 カインが周囲を見回す。

 ジークも耳を澄ませた。


 風が吹き抜ける音だけが、やけに大きく響く。

 それ以外は、まるで世界が息を潜めているかのような静寂だった。


---


 陽が傾き、一行は再び歩き出す。

 太陽の位置を頼りに進むが、目印になるものは何もない。

 地平線はどこまでも平坦で、遠くの丘も、近づくほどに霞んで消えていく。


 足元の土はガラス質に変化し、歩くたびに砕ける音が鳴る。

 太陽光が反射して虹色に輝く地面は、まるで巨大な生物の鱗のようだ。


 だが、三人は進むべき方向を見失わない。

 カインが太陽と風向きを読み、ジークが地形のわずかな変化を見逃さず、ミリアが植物の異変や、動物の気配の有無を敏感に察知する。


「この辺り、草の背が急に低くなってますね」


 ミリアが指差す。


「しかも、全部同じ方向に倒れてるな」


 ジークも首を傾げた。


「強風で薙ぎ倒されたのか?」


 カインは、宙に指を立てて風の流れを読んだ。


「……いや、風が、ここで止まってる」


「風が止まってる?」


「ここから先は風が全く吹いていない。まるで風が折り返しているみたいだ」


 ジークはその場に立ってみた。

 本当に、風がぴたりと止まっている。


 ミリアが一歩進み出る。

 空気が重い。


「……なんでしょう。息が詰まりそうです」


 彼女の声が、妙に遠く響いた。


---


 無風の中、三人はさらに歩みを進める。

 空が茜色に染まり始めていた。


 西に傾く太陽の輪郭が滲み、二重三重に重なって見える。

 夕焼け雲が渦を巻き、竜の瞳のように中央に空洞が開いていた。


「……見てください」


 ミリアが指さす。

 荒野の先、地面がわずかに盛り上がっている。

 その向こう側、空気が歪んで見える。


「……まるで、空間が揺れてるみたいだ」


 カインが呟く。


 ジークがゆっくりと歩み寄る。

 足元の砂が、ざらりと音を立てた。


 一歩、二歩。

 突然、何かにぶつかった感覚があった。


「…………!!」


 ジークが立ち止まる。

 目の前には何もない。

 だが、進もうとすると、見えない壁に押し返されるような圧を感じた。


「……おい、ここ、何かあるぞ」


 二人も慎重に近づく。

 カインが手を伸ばすと、空気が波打つような感触が指先に伝わった。


「……壁?」


「でも、何も見えないです……」


「透明な壁、ということか?」


 その時、不意に背後で何かが動いた。

 三人は素早く振り返る。


 荒野の向こう、低い岩陰から、獣の群れが顔を覗かせていた。

 レオパード――夜行性の肉食獣だ。

 ミリアを背に、ジークとカインは身構えた。


 だが、獣たちは三人に向かってくることなく、壁を警戒するように歩き回る。

 壁の手前で立ち止まったレオパードの一頭が、突然首を激しく振り始める。

 その口から零れた唾液が地面に落ちると、砂が沸騰するように泡立った。

 一頭、二頭と後ずさり、やがて、レオパードの群れは三人を残して去っていった。

 

「……動物も、ここから先には近づかないんだな」


 カインが呟く。


「この壁の向こうに、何があるんでしょうか……」


 ミリアが不安を口に出す。

 だが、ジークは全く別の確信を抱いた。


「ここだ……」


 ジークが呟く。


「この先に、結衣がいる」


---


 その夜、三人は壁の手前に小さな焚き火を起こした。

 薪がぱちぱちと音を立て、炎が闇を照らす。


 焚き火の炎が、ミリアの頬を赤く染める。

 薪が弾けるたびに、三人の影が地面に揺れた。

 空にはふたつの月が寄り添うように並び、星々が瞬いている。


「……これからどうする?」


 カインが静かに問いかけた。


「壁の向こうに行く方法を探す」


 ジークが迷いなく答える。


「そんなこと、私たちにできるでしょうか?」


 ミリアが心配そうに言う。


「……できるできないは関係ねぇ、やるだけだ」


 ジークはきっぱりと言い切った。

 その言葉に、カインもミリアも頷いた。


「……結衣さん、待っててくださいね。必ず迎えに行きますから」


 ミリアが焚き火の炎を見つめながら呟く。


「ジーク、無茶はするなよ。お前が倒れたら、誰が結衣を守るんだ」


 カインがジークを心配する。


「……ああ、わかってる」


 ジークは焚き火に手をかざし、静かに目を閉じた。

 夜が更けていく。

 風は止み、世界は不思議な静寂に包まれていた。


 壁の向こうに、結衣がいる。

 必ず、彼女を取り戻す。

 今度こそ、絶対に守ってみせる。


 脳裏に結衣の面影を抱き、ジークは手のひらの中の赤石と青石を握りしめた。

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