第80話 ヒロイン不在!? 少年の旅立ち
――またあの夢を見ていた。
灼熱の大地が雪原に変わる。
吹きすさぶブリザード。
皮膚を刺す冷気。
視界は白く霞み、呼吸すら凍りついた。
足元が崩れる。
膝が雪に沈む。
遠くで誰かが叫んでいる。
カインの声か、ミリアの声か、それとも。
(結衣――!)
声にならない叫びが喉を突く。
だが返事はない。
白い嵐の中、結衣の姿はどこにも見えなかった。
目が覚めた。
天井の木組みが視界に入る。
額に冷たい汗がにじんでいた。
心臓が激しく脈打っている。
荒い息を吐きながら、ジークはベッドから身を起こした。
窓の外、朝焼けに染まる抵抗勢力のアジトの広場が見える。
復興作業の掛け声、荷車の軋む音、鍛冶場の金槌の響き。
全てがどこか遠い世界のようだった。
壁のカレンダーに目をやる。
鱗王グラドラスとの戦いから、もう一ヶ月が経っていた。
ジークはそっとベッドを抜け出し、窓を開けた。
冷たい空気が頬を打つ。
雪解けの匂い。
だが、あの灼熱地帯が一夜にして雪原になった光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。
(あれは、結衣の『魔法』だったのか?)
思い出すのは、あの日のことだ。
地鳴り。
天から降り注ぐ光。
グラドラスの絶叫。
すべてを飲み込む吹雪。
ジークは倒れていた。
竜の間はすでに崩壊して、影も形もない。
カインも、ミリアも、皆が雪に埋もれていく。
その時現れたのは、カーライルとガレスが率いる抵抗勢力のメンバーだった。
「生存者を探せ!」
「こっちに人がいる!」
誰かがジークの肩を揺すった。
意識がふたたび闇に沈む寸前、結衣の顔が浮かんだ。
(結衣……)
――目覚めた時には、アジトの病室だった。
白い天井。
消毒薬の匂い。
「ジーク、目が覚めたか」
ドワーフの戦士長ジノカリアが顔を覗き込む。
エルフの薬師マーレーンも心配そうに立っていた。
「……結衣は……結衣はどこだ?」
ジークは声を振り絞った。
ジノカリアとマーレーンは顔を曇らせた。
「あの娘だけ、見つからなかったんだ……」
「救助隊が何度も捜索しましたが、痕跡すらありませんでした。誰かに連れ去られた可能性が高いです」
ジークは言葉を失った。
胸の奥が焼けるように痛い。
拳を握りしめ、ベッドの上で震えた。
「オレが……オレがもっとしっかりしてりゃ……」
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それからの日々は、混乱の連続だった。
血紅公ヴァルターと鱗王グラドラスの死が明らかになり、ブラッドヘイブンとドラゴンズスケイルは崩壊。
解放された元奴隷や難民が、抵抗勢力のアジトやヴァルディアにまで押し寄せた。
アジトの広場にはテントが立ち並び、泣き叫ぶ子供たち、疲れ切った大人たちが溢れていた。
水も食糧も医薬品も、何もかもが足りない。
ガレスをはじめ各種族の首領たちが奔走し、ミリアは昼夜を問わず病人の手当てに追われた。
「ミリア、少しは休め」
「大丈夫です。今は私が頑張らなきゃ……」
ミリアの目の下には深い隈ができていた。
それでも彼女は笑顔を絶やさなかった。
カインもまた、同盟交渉に奔走していた。
急ごしらえの司令本部には各方面からの使者が集まり、報告が飛び交う。
「アルヴァニス王国、ヴァルディア軍、抵抗勢力の三者同盟は今夜にも成立の見込みです」
「難民と元奴隷の受け入れ体制を強化」
「魔王軍残党の動向を把握せよ!」
カインはアルヴァニス王国の第二王子として、また同盟の発起人として、各所での調整役を担っていた。
毎日書類の山に埋もれ、徹夜で協議に出席した。
「カインも、ちゃんと寝ろよ」
「……ありがとう、ジーク。でも今は、俺がやらなきゃならないことが山ほどある」
カインは疲れた顔で笑った。
そしてまた、書類に向かう。
ジークはひとり、自室にこもることが増えた。
机の上には、結衣が残した赤石と青石が並んでいる。
手に取ると、冷たい感触が指先に伝わった。
(結衣……)
窓の外では、子供たちが雪解けの泥に足を取られながら遊んでいた。
遠くで鍛冶場の金槌が鳴る。
世界は動き続けている。
ジークの時間だけが止まっていた。
結衣は『魔王』を倒しに異世界から来たと言っていた。
ならば、結衣の失踪には、おそらくその『魔王』が関わっている――
ジークはそう直感していた。
だが、誰も『魔王』について知らない。
噂話すらなかった。
残る手掛かりは、三将軍の残りのひとり。
冥将軍アルドベリヒ――
ジークは食堂や広場、仮設テントを巡り、元奴隷や難民に声をかけていった。
「冥将軍アルドベリヒを知っているか?」
だが、誰もが首を横に振る。
「あいつは三将軍の中でも一番謎に包まれている。顔を見た者はいないって話だ」
「冥将軍領は今も健在らしい。近づきたくもないね」
元傭兵であるベリンダやカーライルたち獣人も、冥将軍についての情報はほとんど持ち合わせていなかった。
「アタシたち傭兵は血紅公か鱗王に雇われることがほとんどだった。冥将軍には雇われたことも、戦ったこともないね。噂じゃ北の僻地に領土を構えてるらしいが……」
しかしジークの地道な努力は功を奏し、少しずつ、断片的な情報が集まりはじめた。
ジークは地図を広げ、冥将軍領の位置を何度も想定する。
新しい情報を得るたびに念入りに吟味し、その場所を絞り込んでいく。
そしてついに、おおよその場所を特定するに至った。
(冥将軍領はおそらくこのあたり……そこに結衣の手がかりがきっとあるはずだ)
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その夜、ジークは誰にも告げずに旅立ちの装備を整えた。
よく研いだスクラマサクスを腰に差し、食料と水をリュックに詰める。
結衣の小石も、そっと懐に忍ばせた。
カインやミリアには負担をかけたくなかった。
自分の手で、結衣を取り戻す。
それが、ジークの決意だった。
アジトの裏門に向かう。
月明かりが雪解けの地面を照らしている。
誰もいない。
静寂だけが支配していた。
(結衣、必ず迎えに行く。そして今度こそ、お前に……)
ドアノブに手をかけた、その時だった。
「……おい、ひとりでどこ行くつもりだ?」
背後から声がした。
振り向くと、カインが腕を組んで立っていた。
隣にはミリアもいる。
ふたりとも、旅支度を整えていた。
「まさか、俺たちを置いていくつもりじゃないだろうな?」
カインがニヤリと笑う。
「ジークさんだけを行かせるわけにはいきません。結衣さんは、私たちにとっても大切な仲間ですから」
ミリアが優しく微笑む。
「お前たち……」
ジークは言葉を失った。
胸が熱くなる。
「俺たちは仲間だろ? 結衣を助けに行くのに、理由なんていらないさ」
「そうです。結衣さんも、ジークさんも、どちらも私たちの大切な人です」
ミリアがジークの手を握り、カインが肩を叩く。
「……ああ、ありがとう」
ジークは珍しく素直に礼を言った。
三人は顔を見合わせ、静かにうなずいた。
夜明け前の薄闇の中、三人の影がアジトを離れていく。
冷たい風が頬を撫でる。
遠くで鳥が鳴いた。
ジークは歩き出す。
カインとミリアがその後に続く。
面影の中の結衣が、微かに微笑んだ気がした。