第67話 魚釣りの午後
午後の陽射しが中庭に暖かく差し込んでいる。
結衣は中庭のベンチに座り、空を見上げていた。
青い空に白い雲がゆっくりと流れている。
平和な光景だった。
「よお」
ジークの声が聞こえた。
振り返ると、いつものように無愛想な表情で立っている。
「あ、ジーク!」
結衣が微笑む。
ジークは隣に座った。
「何してるんだ?」
「んー、特に何も。なんか、久しぶりに平和だなーって思って……」
ふたりは並んで空を見上げる。
風が頬を撫でていく。
「ジーク、何かすることない? せっかくの自由時間だし」
結衣が提案する。
ジークは少し考え込んでから言った。
「そうだな……釣りでもするか」
意外な提案に、結衣の目が輝く。
「釣り? いいね!」
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二人はジノカリアの工房を訪れた。
ドワーフの戦士長は金属を叩いていたが、ふたりを見つけると手を止めた。
「おお、お前たちか。どうした?」
「釣り道具を借りたいんだが」
ジークが説明する。
ジノカリアの目がにやりと光った。
「ほほう、若いふたりが釣りとはな」
結衣の顔が真っ赤になる。
「ち、違います!」
「違う!」
ジークも慌てて否定するが、その頬も微かに赤い。
ジノカリアは大笑いした。
「はっはっは! 若いのう。竿と糸と針、それに餌も持っていけ」
ドワーフ製の頑丈な釣り道具を受け取るふたり。
ジノカリアは意味深に微笑んでいた。
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アジトから少し歩いた所に、美しい小川が流れていた。
水は透明で、川底の小石がよく見える。
両岸には緑豊かな木々が茂り、鳥たちのさえずりが響いている。
「綺麗……」
結衣が感嘆の声を上げた。
陽光が水面に踊り、キラキラと輝いている。
ふたりは川岸に腰を下ろした。
ジークが釣り竿を組み立てる。
「お前、釣りは初めてか?」
「うん! 教えてくれる?」
ジークは結衣に竿を渡した。
手が触れ合う瞬間、結衣の胸は少しドキッとする。
「こうやって糸を垂らすんだ」
ジークが背後から抱きしめるように結衣の手を取り、竿の振り方を教える。
結衣の髪から、ほのかに花の香りがした。
(え、近い……)
結衣の心臓が早鐘を打つ。
「こ、こう?」
結衣の声が少し震えている。
「ああ、そうだ」
ジークは手を離した。
蒼がはやしたてる。
(ヒューヒュー! 結衣、いまめっちゃイイ感じだったじゃん!)
(変なこと言わないでよバカ鳥!)
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ふたりはしばらく無言で釣り糸を垂らしていた。
川のせせらぎと鳥のさえずりだけが聞こえる。
平和な時間だった。
「あの時、怖かった……」
結衣が突然口を開いた。
「あの時?」
ジークが振り返る。
「ブラッドヘイブンで、ミリアが攫われて、カインを連れて逃げた時」
結衣の声が小さくなる。
「ジークと離ればなれになって……すごく怖かった」
ジークの表情が曇る。
「そうか……悪かったな」
そして素直に謝った。
「あの時はお前たちを逃すことで頭がいっぱいだった。でもずっと考えてた。結衣は、カインは無事かって」
「うん。だからまた会えた時は本当に嬉しくて……」
結衣はジークを見つめた。
その目に涙が光る。
ジークは照れ隠しのように視線をそらした。
「……オレも、安心した。お前が生きてて」
結衣は嬉しくなった。
「でもその後カインがいなくなって、すごく慌てたよね」
「ああ、勝手に無茶しやがった。アイツらしくもねぇ」
「それだけ大事だったんだよ、ミリアのことが」
「まあ、そうなんだろうな」
ジークは遠くを見つめる。
そして、低い声でボソッと呟いた。
「……きっと、オレでも同じことをする」
その小さな声は、結衣には届かなかった。
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その時、結衣の竿がぐいっと引かれた。
「あ! 何か掛かった!」
結衣が慌てる。
ジークが駆け寄る。
「落ち着け! ゆっくり引き上げるんだ!」
ジークの助言に従い、結衣は竿を引く。
「やった!」
銀色の美しい魚が釣り上げられた。
手のひらほどの大きさで、陽光に鱗が輝いている。
「良かったな。ビギナーズラックってヤツか」
「ひとこと多い! でも、すごいよ! 嬉しい!」
ジークの言葉に、結衣の顔が嬉しさで輝いた。
「ジークが教えてくれたおかげだよ」
その笑顔に、ジークの胸も温かくなった。
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夕陽が川面を金色に染め始めた。
ふたりは並んで座り、釣った魚を眺める。
「綺麗だな」
ジークが呟く。
結衣も頷いた。
「うん。こんな綺麗な夕陽、久しぶり」
風がふたりの髪を揺らす。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのにな……)
そんな想いが結衣の胸に湧く。
ジークはその横顔を見つめていた。
「結衣」
ジークが口を開く。
その真剣な眼差しに、結衣が振り向いた。
「何? ジーク」
ジークは言いかけて、口をつぐんだ。
うまく言葉が出てこない。
「いや……」
彼は視線を逸らす。
「隣にお前がいてくれて、本当に良かった……」
それが精一杯だった。
本当は、もっと違うことを言いたかった――
結衣も微笑んだ。
「私も。ジークがいてくれて、心強かったよ」
そして、何かを言いかけて止まった。
「ジークは……」
だが、その先の言葉は出てこない。
お互い最後まで言えないふたりの間に、甘い沈黙が流れる。
やがて日が暮れ始めた。
ふたりは釣った魚を持ってアジトに戻る。
「また一緒に来よう」
「うん! 約束だよ!」
ジークの言葉に、結衣は嬉しそうに頷いた。
ふたりの影が、夕焼けに長く伸びていた。
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アジトの食堂で、ふたりは釣果を見せた。
カインとミリアも驚いている。
「立派な魚だな」
カインが感心する。
「結衣が釣ったんだ」
ジークが誇らしげに言う。
結衣は照れていた。
「ジークのおかげだよ!」
その夜の夕食は、釣りたての魚料理で賑わった。
久しぶりに、皆の笑顔が揃った。
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夜、結衣はベッドに寝転がる。
蒼はその脇で羽繕いをしていた。
(今日は久しぶりにのんびりできたよね)
(それよりさ! ジーク、絶対に結衣にラブラブだよ! 告白しちゃえ!)
蒼が結衣を冷やかす。
結衣の顔が赤くなった。
(もう! 蒼のバカ! からかわないでよ!)
結衣は枕を蒼に投げつけた。
もちろん、蒼には当たらない。
(僕には当たらないよー!)
蒼が楽しそうに飛び回る。
結衣は顔を真っ赤にして、布団に潜り込んだ。
でも、その表情は幸せだった。
小川のほとりでの、美しい夕陽を思い出しながら。
長い戦いの合間の、束の間の平和。
ふたりの心は、静かに寄り添っていた。