第66話 林檎と約束
使者が発った後、ミリアはカインに伴われて自室に戻った。
これまでの冒険の疲れが、体の奥深くまで染み込んでいる。
ベッドに横になると、ふわふわの枕が頬を包んだ。
「少し休んでいてくれ」
カインの優しい声が響く。
ミリアは微笑んで頷いた。
「はい……」
カインは静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、小さく響いた。
窓から柔らかな日差しが差し込んでいる。
午後の光が、部屋を暖かく包んでいた。
ミリアは天井を見上げる。
胸の奥で、何かが静かに鼓動していた。
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しばらくして、扉をノックする音が聞こえた。
カインが林檎の入った籠を持って戻ってくる。
ミリアが慌てて起き上がろうとすると、カインが手で制した。
「そのままで大丈夫。少し何か食べた方がいい」
カインは窓辺の椅子に座る。
籠から赤い林檎を取り出した。
小さなナイフで、器用に皮をむき始める。
くるくると回る林檎。
薄い皮が、一続きの赤い螺旋となって落ちていく。
ミリアはその様子をぼんやりと眺めていた。
カインの手つきは慣れたものだった。
王子でありながら、こんな日常的なことも自然にこなす。
そんな彼の姿が、ミリアには愛おしく思えた。
「上手ですね」
ミリアが呟く。
カインは笑った。
「王都ではよく難民キャンプの子供たちにせがまれたものだよ。今ではすっかりお手のものさ」
彼の表情が、少し懐かしそうになる。
皮をむき終えた林檎を、一口大に切っていく。
甘い香りが部屋に漂った。
ミリアの胃が、小さく鳴る。
「はい、口を開けて」
カインが切った林檎を、フォークに刺して差し出す。
ミリアは恥ずかしそうに口を開けた。
甘くて、みずみずしい。
林檎の味が口いっぱいに広がる。
「美味しい……」
ミリアが微笑む。
カインも穏やかに微笑み返した。
「良かった」
静かな時間が流れる。
林檎の甘い香りと、窓から聞こえる鳥の鳴き声。
平和な午後のひととき。
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林檎を食べ終えると、ミリアはベッドに起き上がった。
わずかにシーツを握りしめる。
カインが心配そうに見つめる。
「どうした? まだ具合が悪いのか?」
ミリアは首を振った。
そして、勇気を出してカインに向き合う。
「カインさん……」
声が震える。
シーツを握る手に、力が入った。
「あの時、ヴァンパイアの城で……」
ミリアの瞳に、あの日の記憶が蘇る。
恐怖と絶望の中で、ただ一つ信じていたもの。
「私はずっと、カインさんが迎えに来てくれると信じていました」
カインの表情が変わる。
真剣な眼差しで、ミリアを見つめた。
「再会できた時、本当に幸せで、安心して……」
ミリアは視線を落とす。
頬が熱くなっていた。
「だから……ずっと保留にしていたあの時の返事を、今したいんです」
カインが息を呑む。
部屋の空気が、張り詰めた。
ミリアは深く息を吸い込んだ。
そして、カインの目を見つめて、はっきりと口にした。
「私もずっと、カインさんの側にいたいです」
ミリアの声は小さかったが、そこには確かな意志が存在した。
カインは立ち上がり、ミリアの手をそっと握る。
温かい手だった。
「ミリア……」
カインの声がわずかに震える。
「これからの旅は、今までよりももっと険しく危険なものになるだろう。それでも……俺は絶対に君を手放したくないんだ、片時も」
彼の瞳には、深い愛情が宿っていた。
と同時に、不安も見え隠れしている。
ミリアはカインの手を、両手で包み込んだ。
「カインさんのいない安寧な日々よりも、カインさんと共に苦難を乗り越えることを、私は選びます」
その言葉に、カインの瞳が潤む。
「君は……本当に強い……」
ふたりは見つめ合った。
静かな沈黙が流れる。
互いの想いが、言葉なしに伝わり合う。
カインがミリアを優しく抱きしめた。
ミリアの頭が、カインの胸に触れる。
力強い心臓の音が聞こえた。
「今までも、これからも、俺は君をずっと愛し続ける」
カインの声が、ミリアの耳元で響く。
ミリアもカインをしっかりと抱き返した。
「私も、カインさんのことを、誰よりも想い続けます」
小さな声で呟く。
カインの腕の中が、こんなにも暖かいなんて。
カインはミリアの艶やかな緑の髪を、指でそっと梳いた。
絹のような感触。
彼の手が、わずかに震えている。
ミリアが顔を上げる。
ふたりの視線が交わった。
カインの瞳が、ゆっくりと近づいてくる。
一瞬のためらい。
そして、ゆっくりと顔を近づけ、ふたりは唇を重ねた。
柔らかく、温かい。
時間が止まったような感覚。
長い長いキス。
窓の外では鳥が鳴き、午後の日差しがふたりを包んでいる。
ただ幸せだけが、静かに心を満たしていく。
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キスの後、ミリアはカインの胸に顔を埋めた。
恥ずかしくて、顔を上げられない。
何より、この温もりから離れたくなかった。
「これからも、一緒に……」
ミリアの声が、カインの胸に響く。
「ああ。必ず、君を幸せにする」
カインが優しく答える。
真実の決意、その響きが声の中にあった。
ふたりは寄り添い、静かな時間を過ごす。
窓から差し込む日差しが、少しずつ傾いていく。
だが、ふたりにとって時間など関係なかった。
今、この瞬間が永遠に続けばいい。
そんな想いで、心が満たされる。
床に落ちた林檎の皮が、赤い螺旋を描く。
それは、ブラッドヘイブンの赤い光とは全く違う、温かな赤だった。
愛の赤。
約束の赤。
ふたりの未来を彩る、希望の色。
カインとミリアの物語は、新たな章を迎えようとしている。
どんな困難が待ち受けていても、ふたりなら乗り越えられる。
そんな確信が、静かに心に宿っていた。
愛とは、最も強い力なのだから。