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第58話 血紅公の美学

 夕暮れ時、ミリアの部屋に一通の招待状が届いた。

 羊皮紙に美しい文字で書かれている。

 血のような赤いインクが、蝋燭の光に揺らめいていた。


『今宵、私と共に晩餐を。

        血紅公(けっこうこう)ヴァルター』


 侍女たちが無言で部屋に入ってきた。

 手には豪華な衣装を抱えている。

 深い青の絹のドレス。

 袖や裾には銀糸の刺繍が施されていた。


「着替えをお手伝いします」


 侍女の一人が言った。


「やめて! 自分でできますから……」


 ミリアは悲鳴をあげて抵抗しようとしたが、彼女たちは有無を言わさず着替えを始めた。

 手慣れた動作で、ミリアの服を脱がせ、新しいドレスを着せていく。

 ミリアは抵抗を諦め、されるがままになった。


(逆らっても無駄。今は情報を集めなければ……)


 ミリアは自分に言い聞かせた。

 恐怖に支配されていては何もできない。

 それよりも偵察任務を優先し、この城の実態を知る必要がある。


 髪を結い上げられ、化粧を施される。

 鏡に映る美しい自分が、まるで生贄のように見えた。


「お迎えに参りました」


 扉の前に立つ執事が深く頭を下げる。

 ミリアは導かれるまま、廊下を歩いた。


 廊下の壁には絵画が並んでいる。

 戦場の場面、貴族の肖像画、そして不気味な儀式の絵。

 どれも信じがたいほどの技巧で描かれていた。

 天井の装飾も見事で、金箔が施された彫刻が輝いている。


---


 晩餐会場は圧倒的だった。

 天井から下がる巨大なシャンデリアが、無数の蝋燭で部屋を照らしている。


 壁には血紅公の戦勝を描いた絵画が掛けられていた。

 敵を打ち破る場面、民衆が跪く場面。

 全て血紅公の威光を讃えるものばかり。


 部屋の中央には長いテーブルが置かれている。

 だが、席はふたつだけ。

 白いテーブルクロスの上には、金の食器が美しく並べられていた。

 赤いバラが花瓶に活けられ、甘い香りを漂わせている。


「ようこそ」


 ヴァルターが立ち上がった。

 彼は既に席に着いており、ミリアを待っていたのだ。

 今夜の彼は、昼間よりもさらに優雅に見えた。

 黒いベルベットの上着に、赤いシャツ。

 胸元には例の紋章が金で刺繍されている。


「君は美しい」


 彼はミリアを見つめて言った。

 その視線が彼女を賞賛している。


「君によく似合うドレスだ」


 ミリアは頬が熱くなるのを感じた。

 ヴァルターの声には、ヴァンパイア特有の色香と魅力があった。

 低く、響くような声。

 聞いているだけで心が落ち着く。


(いけない、ヴァンパイアに惑わされてはダメ)


 ミリアは自分を戒めた。


 ヴァルターは椅子を引いてくれる。

 完璧な紳士の振る舞い。

 ミリアが座ると、彼も向かいの席に着いた。


 高価な皿に美しく盛り付けられた料理が運ばれてくる。

 スープ、魚料理、肉料理。

 どれも見たことのない豪華なものばかり。

 香辛料の香りが食欲をそそる。


 ヴァルターの前には、ワインのような赤い液体が注がれたグラスが置かれていた。

 彼はそれを優雅に口に運ぶ。


 だがその瞬間、ミリアは気づいた。

 あれは紛れもない、人間の血液だ。


「君は食事を楽しんでいるか?」


 ヴァルターが尋ねる。

 彼の口元には、かすかに赤い液体が付いていた。


「は、はい……」


 ミリアは震え声で答えた。

 食事は確かに美味しかったが、目の前の光景に食欲が失せていた。


「私は君に興味がある」


 ヴァルターが言った。

 その視線は、ミリアの顔から離れない。


「確かにプライム級の血液を持つ者は稀だ。だが、それ以上に君自身が興味深い」


 彼は微笑んだ。

 その笑顔は美しく、どこか危険な香りがした。


---


 食事が終わると、ヴァルターは立ち上がった。


「城を案内しよう。君に見せたいものがある」


 ミリアは従うしかなかった。

 彼に逆らえる状況ではない。


 最初に案内されたのは、美術品のコレクション室だった。

 部屋いっぱいに絵画や彫刻が並んでいる。

 どれも息を呑むような美しさ。


「これは500年前の作品だ」


 ヴァルターが一枚の絵画を指差す。

 美しい女性の肖像画だった。


「画家は私の友人だった。天才だったが、短い生涯だった」


 彼の声には、かすかな寂しさが込められていた。


「これは300年前のもの。この彫刻家も素晴らしい才能を持っていた」


 次々と作品を紹介していくヴァルター。

 その知識の深さに、ミリアは驚いた。

 彼は本当に芸術を愛しているのだ。


「美とは永遠なものだ」


 ヴァルターが振り返る。

 その瞳には、深い情熱が宿っていた。


「人間の短い命では、真の美を理解することはできない。だがヴァンパイアは違う。永い時を生きる我々だからこそ、美の本質を知ることができる」


 ミリアは一瞬、彼の言葉に感心した。

 確かにこれほどの芸術品を集め、理解できるのは驚くべきことだ。

 だが、すぐに警戒心を取り戻す。

 彼は人間を家畜のように扱う男なのだ。


---


 次に案内されたのは音楽室だった。

 部屋の奥には、巨大なパイプオルガンが置かれている。

 無数のパイプが天井まで伸び、圧倒的な存在感を放っていた。


「私の趣味のひとつだ」


 ヴァルターがオルガンの前に座る。

 指が鍵盤に触れると、荘厳な音色が響いた。


 それは美しい音楽だった。

 神聖で、心を洗うような響き。

 ミリアは思わず聞き入ってしまう。


 ヴァルターの指は鍵盤の上を舞うように動く。

 数百年の経験が生み出す、極上の演奏。

 音楽を通じて、彼の内面の一部が垣間見えるようだった。


 曲が終わると、静寂が戻る。

 ミリアは思わず拍手をしそうになり、慌てて手を止めた。


「美しい演奏でした」


 素直な感想が口から出る。

 ヴァルターは満足そうに微笑んだ。


「音楽とは魂の言葉だ。言葉では表現できないものを、音楽は語ることができる」


 彼の声には、深い感情が込められていた。

 ミリアは複雑な気持ちになる。

 この男は確かに魅力的だ。

 だが、それが余計に恐ろしい。


---


 最後に案内されたのは、ヴァルターの書斎だった。

 壁一面に本が並び、机の上には古い書物が積まれている。

 部屋の隅には、見たことのない標本が置かれていた。


「座ってくれ」


 ヴァルターが椅子を勧める。

 彼は自分のグラスに赤い液体を注いだ。

 血液の甘い香りが漂う。


「君は薬師として、医療に携わっていると聞いた」


 ヴァルターが言う。


「はい……」


 ミリアは警戒しながら答えた。


「素晴らしいことだ。生命を扱う仕事は尊い」


 彼は血液を一口飲む。

 その仕草さえ優雅だった。


「私も生命に深い関心を持っている。ただし、君とは少し違った観点からだが」


 ヴァルターの目が鋭くなる。


「秩序と効率こそが、理想的な社会を作る。無駄な争いや混乱は、生命の浪費でしかない」


 彼は立ち上がり、窓の外を見つめた。


「私の統治下では、全てが計画的に管理されている。人間は適切に分類され、それぞれの役割を果たす。血液という貴重な資源も、科学的に管理されている」


 ミリアの背筋に冷たいものが走る。

 彼はいま、人間の血を『資源』と呼んだのだ。


「品質管理、定期検査、最適な採血量の計算。全てが美しく効率的に行われている」


 ヴァルターは振り返る。

 その瞳には、冷たい光が宿っていた。


「恐怖やストレスは特に血液の質を下げる。だから私は、できるだけ人道的な方法を取っている」


 ミリアは震えた。

 全く知らない用語のはずなのに、彼の言わんとすることが理解できてしまうのだ。

 この男は、人間を完全に物として扱っている。


「持続可能性も重要だ。一度に大量の血液を採れば、供給源は枯渇する。適度な量を定期的に採取することで、長期間の安定供給が可能になる」


 ヴァルターの説明は続く。

 まるで家畜の管理について語るように。


---


 夜は更けていく。

 ヴァルターの話は止まらなかった。

 科学、哲学、美学。

 様々な話題が次々と語られる。


 ミリアは疲労を感じていた。

 恐怖と緊張で、顔色も悪くなっている。

 だが、ヴァルターは気にする様子もない。


「君は疲れているようだな」


 ようやく彼が気づく。


「今夜はこのくらいにしよう」


 ヴァルターは立ち上がった。

 そして、ミリアの前に来る。


「君はやはり、特別だ」


 彼はミリアの頬に手を触れた。

 その手は冷たく、大理石のようだった。


「明日は、もっと興味深いものを見せよう」


 その言葉に、ミリアは身震いした。

 何を見せられるのか。

 考えただけで恐ろしい。


---


 部屋に戻ると、ミリアは崩れるようにベッドに倒れ込んだ。

 涙が頬を伝う。

 恐怖、絶望、そして混乱。

 様々な感情が渦巻いていた。


 ヴァルターは確かに魅力的だった。

 知的で洗練されており、芸術への深い理解を持っている。

 だが美しい外見の下に、冷酷な心を隠しているのだ。


「カインさん……」


 ミリアは小さく呟いた。

 彼の顔を思い浮かべる。

 きっと今頃、必死に自分を探してくれているだろう。

 彼が迎えに来てくれるまで、何としても耐えなければならない。


 明日、ヴァルターが何を見せるつもりなのか。

 考えただけでも恐ろしい。

 だが、偵察任務として情報を集めることを忘れてはいけない。


 この城の秘密を知り、必ず外の世界に伝える。

 それが今の自分に課せられた使命だと、ミリアは確信していた。

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