第57話 赤の大聖堂への招待
ミリアは頭の痛みで目を覚ました。
揺れる馬車の中、硬い座席に体を預けている。
記憶が戻ってきた。
市場での選別官、カインの必死の抵抗、そして自分が連れ去られたこと。
「カインさん……」
小さく呟いた瞬間、向かいに座る選別官の視線に気づく。
青白い肌の男は、ミリアをじっと観察していた。
「目覚めたか、人間」
選別官の声は氷のように冷たい。
「プライム級の血液……実に200年ぶりだ」
彼は独り言のように続ける。
「血紅公様がどれほどお喜びになるか」
「……!」
ミリアは無言で身震いした。
窓の外を見ると、風景が変わっていることに気づく。
灰色の貧しい建物から、少しずつ装飾の施された家々へ。
そして今、目の前には赤い光に彩られた豪華な建造物が立ち並んでいる。
(落ち着いて。今は冷静に状況を把握しないと)
ミリアは自分に言い聞かせた。
恐怖に支配されては何もできない。
カインたちが必ず助けに来てくれる。
それまで生き延びなければ。
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馬車が止まった。
目の前に聳える門は、想像を絶する威容だった。
黒い石で組まれた巨大な門。
その表面には赤い水晶が無数に埋め込まれ、血のような光を放っている。
門の中央には大きな紋章が刻まれていた。
棘に覆われた薔薇。
その周りには血の滴のような模様が踊っている。
「血紅公様の紋章だ」
選別官が説明する。
リザードマンの兵士たちが馬車に敬礼した。
その数は十人を超える。
全員が重装備で、槍と盾を構えている。
「降りなさい」
選別官に促され、ミリアは馬車から降りた。
足が震える。
目の前に広がる光景に、息を呑んだ。
内城はひとつの都市だった。
高く聳える黒い石造りの建物群。
壁面には赤い水晶が規則的に埋め込まれ、まるで血管のような模様を描いている。
中央には巨大な城が立ち、その尖塔は雲に届きそうなほど高い。
「さあ、血紅公様がお待ちです」
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選別官に連れられ、ミリアは巨大な建物に向かった。
「赤の大聖堂」と呼ばれるその建物は、かつて人間が建てたものだという。
だが今は、血紅公の権力の象徴として改造されていた。
重い扉が開かれる。
ミリアは思わず立ち止まった。
内部は圧倒的だった。
天井は遥か高く、赤い大理石の柱が林立している。
床も同じ赤い大理石で、磨き上げられて鏡のように光っている。
ステンドグラスは血のような赤で染められ、不気味な光を室内に投げかけていた。
天井に描かれたフレスコ画は、血紅公の『偉業』を讃えるものだった。
戦場で敵を打ち破る場面、人間が跪く場面、そして血を捧げる儀式の場面。
壁の彫刻には、人間を嘲笑うような小鬼の顔が無数に刻まれている。
中央には赤い絨毯が敷かれ、その先には黒い大理石の玉座があった。
周囲には十数人の人影が立っている。
ヴァンパイアの貴族たちだ。
全員がミリアを冷たい視線で見つめていた。
「進みなさい」
選別官に押され、ミリアは絨毯の上を歩く。
足音が大聖堂に響く。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
突然、オルガンの音が響いた。
荘厳で重厚な音色が大聖堂を満たす。
貴族たちが一斉に頭を垂れた。
大扉が再び開かれる。
そこから現れた人物に、ミリアは息を呑んだ。
『血紅公』ヴァルター・ノクティス・ブラッドローズ。
190センチを超える長身。
漆黒の長髪が、背中まで流れている。
30代半ばに見える端正な顔立ちだが、その実年齢は数百歳を数える。
赤褐色の瞳は鋭く、青白い肌は大理石のように美しい。
赤と黒を基調とした衣装は、最高級の絹で仕立てられている。
胸元には「棘のある薔薇」の紋章が金糸で刺繍されていた。
彼が歩くたびに、周囲の空気が変わる。
圧倒的な存在感。
まるで空間そのものが彼に従っているかのようだ。
ヴァルターは玉座に向かって歩く。
その一挙手一投足が優雅で、まるで舞踏を見ているかのようだった。
側近たちが後に続く。
玉座に着いたヴァルターは、ゆっくりとミリアを見下ろした。
「血紅公様」
選別官が深く頭を下げる。
「プライム級の血液を持つ人間をお連れいたしました」
ヴァルターの視線がミリアに注がれる。
その瞬間、ミリアは全身が凍りつくような感覚を覚えた。
赤褐色の瞳が、まるで魂の奥まで見透かすようだった。
(落ち着いて。相手に呑まれないよう、冷静に……)
ミリアは自分に言い聞かせる。
だが、その足は震え続けていた。
ヴァルターがゆっくりと立ち上がった。
玉座から降り、ミリアに近づいてくる。
その足音は大聖堂に静かに響いた。
ミリアの前で立ち止まったヴァルター。
彼はミリアの顔をじっと見つめた。
そして、突然首筋に顔を近づける。
鼻を鳴らし、深く香りを吸い込む。
ミリアは身動きできなかった。
恐怖で体が硬直している。
「ふむ……」
ヴァルターが小さく呟いた。
そして、ゆっくりと顔を離す。
「確かに稀少だ」
彼の声は低く、威厳に満ちていた。
「このクオリティの血液は、実に200年ぶりだな」
選別官の顔に安堵と喜びの色が浮かぶ。
貴族たちもざわめき始めた。
だが、ヴァルターの次の言葉は予想外だった。
「彼女は私の客人として扱え」
大聖堂に静寂が戻る。
選別官が目を見開いた。
「客人、でございますか?」
「最上級の部屋を用意せよ。丁重に扱うのだ」
貴族たちの間に驚きの声が上がる。
選別官は狼狽していた。
「しかし血紅公様、プライム級の血液でございます。質が落ちぬうちに、すぐにでも……」
ヴァルターの冷ややかな視線が選別官に向けられる。
その瞬間、選別官は口を閉じた。
「特別な血は、特別に扱わねばならない」
ヴァルターの声には有無を言わせぬ威厳があった。
「恐怖は血の味を落とす。そして何より、私は野蛮な行為を好まない。分かったか?」
「は、はい……」
選別官は震え声で答えた。
ミリアは当惑していた。
安堵と不安が入り混じる。
客人として扱われるということは、すぐには殺されないということ。
だが、この先の運命はまるで見えなかった。
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大聖堂を出て、ミリアは客室へと案内された。
回廊には美術品が並び、壁には豪華な装飾が施されている。
絵画、彫刻、タペストリー。
どれも最高級の品ばかりだ。
案内された部屋は、想像を超える豪華さだった。
四柱式の大きなベッド。
高級な木材で作られた調度品。
壁には名画が掛けられ、床には柔らかな絨毯が敷かれている。
大きな窓からは城下町が見渡せた。
だが、窓には赤い水晶がはめ込まれており、簡単には開かない仕組みになっている。
「お食事をお持ちいたします」
侍女の一人が言った。
彼女たちは丁重だが、どこか冷たい態度だった。
会話を禁じられているようで、必要最低限のことしか話さない。
侍女たちが去った後、ミリアは扉を確認した。
外には衛兵が立っている。
実質的な軟禁状態だった。
ミリアは窓辺に立ち、外を見つめた。
遠くに見える外郭地区の方向。
あそこのどこかに、カインたちがいる。
「必ず助けに来てくれる……」
ミリアは小さく呟いた。
それまで、何としても生き延びなければならない。
この城で起きていることを観察し、情報を持ち帰る。
それが今の自分にできることだった。
夕日が城を赤く染めていく。
ミリアの戦いが始まろうとしていた。