第56話 乙女、攫われる
その夜、四人は眠れない時間を過ごし、朝を迎えた。
昨日の男の叫び声が、まだ耳に残っている。
鬱々とした雰囲気の中、皆で簡単な朝食を済ませた。
「今日は二手に分かれよう。俺とミリアは市場を探る。ジークは結衣と住宅区域を調査してくれ」
カインの提案に、三人は頷く。
家に残されていた住民の服に着替え、四人は変装して家を出た。
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カインとミリアは市場を歩いていた。
市場には食事の配給を待つ人々が集まり、思った以上に活気があった。
だが住民たちは頭を低く垂れ、互いに目を合わせようとしない。
「選別官が今日も来るらしいぞ……」
「あいつらが来ると、必ず誰かが連れて行かれる……」
カインとミリアは耳をそばだて、情報を集める。
その時、市場に緊張が走った。
人々が静かになり、頭を下げる。
黒い馬車が到着し、リザードマンの兵士に守られて、一人の男が降りてきた。
青白い肌に、赤い瞳。
長い黒髪が風にたなびき、高貴な装いをさらに引き立てている。
「選別官だ」
カインがミリアに低く警告した。
ミリアがカインの手を強く握る。
カインは安心させるように、ミリアの手を握り返した。
「本日は抜き打ち検査を行う」
選別官の冷たい声が市場に響く。
兵士たちが周囲を囲み、逃げ場はなくなった。
選別官は住民たちをひとりずつ調べていく。
首筋に近づいて匂いを嗅ぐその様子は、まるで家畜を品定めするようだった。
「ここは危険だ、離れよう」
カインはミリアの手を引き、そっと後退しようとした。
そのとき、選別官の鋭い視線がふたりに注がれた。
「あなたたち、そこで止まりなさい」
冷たい声に、ふたりの足が止まる。
選別官がミリアに近づき、その顔をじっと見つめた。
「見慣れない顔ですね。どこの区画の住民ですか?」
カインがよどみなく答える。
「南区画の者です。昨日、移動を許可されました」
「ほう……」
選別官は疑わしげな表情を浮かべ、ふたりのもとに歩み寄る。
そして突然、ミリアの首筋に顔を寄せた。
鼻を鳴らし、深く香りを吸い込む。
「この香り……!」
選別官の目が見開かれた。
驚愕と興奮が入り混じった表情。
「プライム級の血液……これは珍しい!」
彼は指を鳴らし、兵士たちを呼んだ。
「この娘を血紅公様のもとへ連れて行きなさい!」
「はっ!」
リザードマンの戦士たちがふたりを取り囲む。
ミリアは蒼白になった。
カインがフードを脱ぎ捨てて前に出る。
剣を抜き、背中にミリアを守る。
鋭い眼光で、リザードマンたちを睨みつけた。
「さがれ下郎! ミリアに手は触れさせない!」
だがカインの気迫に、選別官は冷ややかな笑みを浮かべた。
「愚かな人間よ」
彼の合図で、リザードマンの兵士たちがカインに襲いかかる。
瞬間、カインの剣が閃いた。
ザシュッ! バサッ!
あっという間に兵士を斬って捨てた。
周囲の人間たちから悲鳴が上がる。
「ひっ……!」
「あの男、殺されるぞ!」
続々とリザードマンが押し寄せる。
その数に圧倒されそうになる。
カインは剣を構え直した。
だが――
「いやああああっ!!」
カインが振り向くと、背後でミリアがリザードマンたちに捕えられていた。
そのまま、黒い馬車へと引きずられて行く。
「ミリア!」
「カインさん! 助けて!」
ミリアの悲鳴にカインが駆け寄ろうとする。
ガンッ!
その隙を狙って、リザードマンが背後からカインを殴りつけた。
「ぐっ……!」
カインが膝から崩れ落ちる。
リザードマンたちが即座にカインを取り押さえる。
地面に押さえつけられ、カインは唸った。
「くそっ……!」
もはや絶体絶命と思われた、その時――
ビュンッ!
鋭い閃光が走った。
スクラマサクスが兵士の鎧を切り裂く。
駆けつけたジークの二刀流が、リザードマンたちを倒していた。
結衣も後ろから駆けつけていた。
「カイン!」
ジークが叫ぶ。
「逃げろ!」
カインは躊躇した。
ミリアが兵士に捕らえられ、黒い馬車へと連れていかれている。
「カインさん!」
ミリアの悲痛な叫び声。
だが、ジークは結衣に叫んだ。
「結衣! カインを連れて行け!」
「分かった!」
結衣は頷き、カインの腕を引いた。
「カイン、こっち!」
「後は任せろ! 早く行け!」
ジークは兵士たちを押しとどめる。
カインは叫んだ。
「待ってくれ、ミリアが!」
「カインはいま戦える状態じゃないでしょ! ジークを信じて!」
結衣は強引にカインの腕を引き、路地へと逃げ込んだ。
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二人は狭い路地を必死で駆け抜けた。
後ろからはジークが戦う音が聞こえる。
「ミリア……ミリアが……!」
カインの顔は焦燥している。
もはや、錯乱状態と言ってもいい。
結衣は歯を食いしばった。
涙をこぼしながら、カインを引っ張り続けた。
「急いで! このままじゃ捕まるよ!」
何とかその場から逃れた二人は、隠れ家まで走り続けた。
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カインは家に入るなり壁を拳で叩きつけた。
「くそっ! 守れなかった! 俺が! 俺のせいで!」
自責の念にかられ、カインは呻く。
そして、そのまま床に崩れ落ちた。
カインはうずくまり、両手で頭を抱える。
その目は狼狽に見開かれ、瞳は何も映していない。
「そうだ、俺が……俺が市場に行こうなんて言ったから……俺のせいで、ミリアは……」
見たこともないカインの焦燥ぶりに、結衣は一瞬顔を背ける。
だがすぐに気を取り直し、子供に言い聞かせるように、カインに語りかけた。
「大丈夫、カインのせいじゃない。それにきっとジークがなんとかしてくれるよ。ミリアは必ず助け出すから」
「…………」
「だから、そんなに自分を責めないで、カイン」
「…………」
カインは答えない。
無理もない。
結衣でさえ、自分自身の不安を隠せないのだ。
(蒼、ジークは大丈夫かな……)
(ジークは強いから大丈夫だよ、きっと!)
(そう……そうだよね)
結衣は決意を固め、静かにカインに近づいた。
「カイン、ここで待ってて。私、ジークを迎えに行ってくる」
「…………」
返事はなかった。
結衣は小さくため息をつき、再び危険な街へと足を踏み出した。
仲間たちは分断され、ブラッドヘイブンの闇の中に消えていった。