第49話 銀色の森の追憶
朝露が葉を濡らす森の中、四人は二日目の朝を迎えた。
アジトの空気は湿り気を含み、木々の香りが鼻腔をくすぐる。
小鳥のさえずりが、新しい一日の始まりを告げていた。
「よく眠れたか?」
ガレスが四人に声をかける。
彼の手には、焼きたてのパンがあった。
小麦の香ばしい香りが、食欲をそそる。
「はい、久しぶりに安心して眠れました」
ミリアが答える。
結衣も頷いた。
「今日もここに滞在するといいだろう。明日の朝、安全なルートを教えよう」
ガレスの提案に、カインは感謝の意を示した。
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらう」
朝食後、四人はそれぞれの時間を過ごすことになった。
カインはガレスと情報を交換し合い、ジークは武器についてドワーフたちに学ぶ。
結衣は獣人の子供たちと遊び、ミリアはエルフの薬師、マーレーンに声をかけられた。
「よかったら、私の小屋に来ませんか? あなたに薬草のことをお教えしたいの」
マーレーンは優雅な身のこなしで、ミリアを招いた。
その声は鈴のように透き通り、耳に心地よい。
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マーレーンの小屋は木の上に作られていた。
細い梯子を登ると、そこには小さいながらも清潔な空間が広がっていた。
壁には様々な薬草が吊るされ、乾いた花や葉の香りが漂う。
窓からは森全体が見渡せた。
「座って」
マーレーンはミリアに木の椅子を勧めた。
テーブルの上には、色とりどりの薬草が並べられている。
「これは青月花に似ていますね」
ミリアが青い花を手に取る。
「蒼月花よ。青月花と同じく、月の光を浴びると青く光る花。怪我全般、特に火傷によく効くのも同じね。でも効果はこちらの方がより高いわ」
マーレーンは丁寧に説明した。
彼女の細い指が、薬草をひとつひとつ示していく。
「これは銀鈴花。呪いを祓う効果があるわよ」
「こちらは夢幻草。悪夢によく効くの」
ミリアは熱心にメモを取った。
人間の薬草とは違うものばかりで、新鮮な驚きがあった。
「なぜ、こんなに貴重な知識を、私に教えてくださるのですか?」
ミリアが恐縮して尋ねる。
マーレーンは静かに微笑んだ。
「知識は共有してこそ価値があるものよ。それに……」
マーレーンの表情が少し曇った。
「私たちの森の記憶を、誰かに伝えておきたいの」
ミリアは黙って頷いた。
マーレーンは窓の外を見つめ、静かに語り始めた――
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二年前。
朝露が葉を濡らす美しい森。
シルバーウッドの森は、エルフたちの楽園だった。
巨大な銀色の木々が天を突き、その枝葉は陽の光を優しく通す。
木々の間には清らかな小川が流れ、水晶のような水が煌めいていた。
マーレーンは祖母と共に、薬草を摘んでいた。
彼女の祖母ソーニャは、森で尊敬される薬師だった。
長い白髪を後ろで束ね、穏やかな笑顔を絶やさない優しい老婦人。
「マーレーン、この薬草の香りを覚えておきなさい」
ソーニャは小さな紫の花を摘み、孫娘に差し出した。
マーレーンは花を鼻に近づけ、深く香りを吸い込む。
甘く、少し刺激的な香り。
「これは夢幻草。悪夢に悩まされる者の助けになるわ」
ソーニャの教えはいつも分かりやすく、マーレーンはそのひとつひとつを大切に心に刻んだ。
彼女は祖母のように優れた薬師になりたいと願っていた。
エルフの集落は、巨大な木々の間に広がっていた。
木の上に作られた家々は、自然と一体化するように存在している。
橋や梯子で繋がれた家々の間を、エルフたちが行き来する。
子供たちは木の枝を飛び回り、大人たちは歌や踊りを楽しむ。
夜になると、森全体が幻想的な青い光に包まれた。
蒼月花の花が月光を受けて輝き、まるで星空が地上に降りてきたかのよう。
その光の中で、エルフたちは古い歌を歌い、森の精霊に感謝を捧げる。
マーレーンの日々は平和で、幸せに満ちていた。
そう、あの日まで――
突然の轟音が森を揺るがした。
鳥たちが一斉に飛び立ち、動物たちが逃げ惑う。
空が赤く染まり、黒い煙が立ち上る。
「マーレーン!」
ソーニャが叫んだ。
彼女の表情には、マーレーンが見たことのない恐怖があった。
「逃げるのよ! 早く!」
集落は混乱に包まれていた。
魔王軍が攻めてきたのだ。
オークやトロールが木々を倒し、家々に火を放つ。
リザードマンが素早く木に登り、逃げ惑うエルフたちを追い詰める。
悲鳴と炎の音が、森に響き渡る。
マーレーンは祖母の手に引かれ、森の奥へと逃げた。
だが、リザードマンの兵士が二人の前に立ちはだかった。
「マーレーン、聞きなさい」
ソーニャは孫娘の手に小さな袋を握らせた。
中には貴重な薬草の種が入っていた。
「これを持って、西の谷まで逃げるのよ。振り返ってはなりません」
「でも、お祖母様……!」
「行きなさい!」
ソーニャは杖を構え、リザードマンに立ち向かった。
老いた体に残された力を振り絞り、孫娘の逃げる時間を稼ぐ。
マーレーンは涙を流しながら走り出した。
振り返った瞬間、彼女は祖母が倒れるのを目にした。
叫び声が喉から出かかったが、ソーニャの言葉を思い出し、声を殺した。
彼女は森の奥へと走り続けた。
三日三晩、休むことなく逃げ続けた。
足は血まみれになり、喉は乾き、空腹で意識が遠のく。
それでも彼女は走った。
祖母の最後の願いを胸に、種の袋を握りしめて。
倒れかけたところを、ガレス率いる抵抗勢力に助けられた。
そこには、他の集落から逃げてきたエルフたちもいた。
彼らの目には、マーレーンと同じ痛みが宿っていた。
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「それから私は、ここで暮らすようになったの」
マーレーンの静かな声が、小屋に響く。
彼女の青い瞳には、今も悲しみの色が残っていた。
「祖母から教わった薬草の知識を活かして、傷ついた仲間たちを癒やす。それが、私にできることだから」
ミリアは言葉もなく、マーレーンの手を握った。
二人の間に、言葉を超えた感情が流れる。
「私も……」
ミリアが小さく呟いた。
「私も、自分の知識と技術で、苦しんでいる人を助けたいです」
マーレーンは優しく微笑んだ。
「では、これを持っていって」
彼女は小さな袋をミリアに手渡した。
中には、様々な種が入っていた。
「祖母から受け継いだ種の一部よ。あなたならきっと、大切に育ててくれるでしょう」
ミリアは感動で言葉を失った。
彼女はその袋を両手で受け取り、胸に抱きしめた。
「必ず、大切にします。そして、この知識を次の世代に伝えていきます」
マーレーンの目に、優しい色が浮かんだ。
窓から差し込む光が、二人の姿を柔らかく包み込む。
ミリアの心に、新たな決意が芽生えていた。
薬草使いとしての誇りと使命。
苦しむ人々を救いたいという強い願い。
彼女の旅は、新たな意味を帯び始めていた。




