第21話 ウサギと笑顔とふたりの時間
その森は、光と影が織りなす幻想的な空間だった。
木々の隙間から降り注ぐ陽光が、足元の苔やシダをきらきらと照らし出している。
空気はしっとりと木の香りがした。
鳥のさえずりが、心地よく響く。
そしてミリアは、珍しい薬草に夢中だった。
「これは『月光草』! 夜に淡く光る、滅多に見られないレア薬草!」
ミリアの目は、まるで宝石を見つけた子供のように輝いていた。
手には小さな篭。
薬草を丁寧に収めている。
「あ、これは『紫影草』。毒草だけど、調合次第では役に立つかも……?」
ミリアは完全に自分の世界に入っている。
結衣とジークは、顔を見合わせた。
このままでは日が暮れそうだ。
「オレたちは、元の道を探すか」
ジークが言った。
結衣も頷く。
あの調子では、ミリアはしばらくここを動かないだろう。
それに、ふたりで森を歩くのも久しぶりだ。
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「こんなところで道に迷うとはな」
森の奥へ進みながら、ジークが愚痴をこぼす。
でもその声は、どこかこの状況を楽しんでいるようでもあった。
「こういう探検も悪くないよ!」
結衣は明るく返した。
ジークの横顔を見る。
ぶっきらぼうだけど、頼りになる背中だ。
「それに、森の空気って気持ちいい!」
その時突然、足元の草むらがカサカサと音を立てた。
驚いた結衣が「ひゃっ!」と短く叫ぶ。
思わずジークの腕にしがみつく。
硬い筋肉と体温を感じて、顔が赤くなった。
ジークは少し驚いた顔をしたが、その手を払わなかった。
「な、何かいる……?」
結衣の声は、少し震えていた。
ジークは素早くダガーを構える。
鋭い視線が草むらに注がれる。
ぴょこん。
飛び出したのは、小さな茶色の野ウサギだった。
ウサギはふたりを見ると、驚いたように一瞬固まる。
そして、あっという間に茂みの奥へと消えていった。
「……ウサギかよ、驚かすなっての」
ジークは肩の力を抜いた。
ダガーを静かに鞘へ戻す。
「もう、びっくりしたぁ!」
結衣は胸をなでおろした。
まだドキドキしている。
でも、ジークの腕にしがみついたままなのは……ワザとかも知れない。
「で、でも、ウサギ可愛いかったよね!」
「そうか? オレには旨そうに見えたけどな」
(蒼、何か危険な気配はあった?)
結衣は肩の上の蒼に、小声で尋ねた。
(ううん、全然! むしろ結衣の心臓のバクバク音の方がうるさかったよ! それってウサギのせい? それとも何かある他に理由があるのかな?)
蒼がニヤニヤしながら茶化す。
(もう! アンタは本当に下世話なんだから!)
結衣は小声でぷりぷり怒った。
図星を突かれて、恥ずかしい。
「お前、何ひとりで会話してるんだ?」
ジークが怪訝そうに振り返る。
その眼差しに、トクンと心臓が跳ねた。
「あ、ごめん。独り言!」
結衣は慌てて腕を離し、誤魔化した。
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二人は再び歩き始めた。
木々の間から見える空は、吸い込まれそうなほど青い。
白い雲が、ゆったりと流れていく。
結衣は、ジークとの距離がさっきよりも縮まっていることに気づいた。
なんだか、嬉しい。
「ジークはさ、こういう森とか……好き?」
結衣は思い切って尋ねた。
なぜだろう、少し緊張している。
けれど、彼のことをもっと知りたい。
「……スラムでくすぶってるよりかはマシだ」
ジークはぶっきらぼうに答えた。
でも、周囲の木々を見上げる目には、静かな感慨が浮かんでいる。
大人びた雰囲気と幼さとが混ざり合う横顔。
結衣は見とれていた自分に気がつき、慌てて大声を出す。
「私、こういう森って大好き! 深呼吸すると、身体の中が綺麗になる感じがする!」
そして、両手を広げてくるりと回ってみせた。
「……お前みたいな能天気さも、時には必要なのかもな」
ジークは呆れたように、でも少し優しく呟いた。
口元にかすかな笑みが浮かんでいる。
「ちょっと! また能天気って言ったでしょ!」
結衣はむっとした表情を作る。
でも、心は温かかった。
「褒め言葉だ」
「絶対うそだ!」
結衣は笑った。
ジークとの何気ない会話が嬉しい。
ふと、空を見上げる。
木々の間から差し込む木漏れ日。
結衣の心に、小さな影が差した。
「ねえ、ジーク……」
声が少しだけ、真剣な響きを帯びる。
「私、本当に魔王を倒せるのかな……?」
不安が、波のように押し寄せる。
本当は弱いところなんて見られたくない。
でも今のジークの前では、不思議と素直になれた。
ジークは一瞬、黙った。
そして、悪戯っぽく口の端を上げた。
「さあな。お前の能天気さ次第じゃねえの?」
「なっ……! 何それ! 人が真面目に聞いてるのに!」
結衣は顔を赤くして抗議した。
からかわれたのが悔しい。
けれど不思議と心は軽い。
「もう、ジークの意地悪!」
ぷんぷん怒る結衣を見て、ジークが堪えきれずに吹き出した。
その楽しそうな笑い声につられて、結衣も笑い出してしまった。
ふたりの笑い声が、森の中に明るく響く。
(ほら、やっぱりまんざらでもなさそうだね!)
蒼が結衣の耳元で、ニヤニヤと囁いた。
(心配事を打ち明けられるくらい、心を許してるってことじゃん! いい雰囲気、いい雰囲気!)
(アンタは本当にそればっかりなんだから)
顔が赤くなるのを感じながら、結衣は蒼に反論した。
でも、否定はしない。
ジークといるこの空気感が、心地良い。
「何か言ったか?」
笑いの余韻を残した笑顔で、ジークが尋ねる。
「ううん、なんでもない!」
結衣は慌てて首を振った。
「それより、ほら、あそこ見て!」
結衣が指さす先。
そこには、古い木の根があった。
まるで自然が作り出した橋のように、小さな川を跨いでいる。
水面には、陽光が反射してきらめいていた。
せせらぎの音が、耳に優しい。
「これは……」
ジークが木の根に近づき、向こう岸を確認する。
「道標代わりか……こっちが元の道に繋がってるはずだ」
「やった! 見つけた!」
結衣は思わず小さく飛び跳ねた。
「やっぱりジークがいると頼りになるね!」
素直な称賛の言葉が、口をついて出た。
ジークは、結衣の言葉に一瞬驚く。
すぐにいつもの無愛想な表情に戻ろうとして……失敗した。
彼の口元には、隠しきれない、はにかんだような笑みが浮かんでいた。
「調子に乗るな」
その声は、気のせいかいつもより温かかった。
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ふたりは、木の根の橋を慎重に渡った。
木漏れ日の中、ふたりの影がさっきよりも少しだけ近づいて、地面に長く伸びている。
結衣は思う。
この時間がずっと続けばいいのにな、と。
森は、そんなふたりの姿を優しい木々のざわめきで包み込み、静かに見守っていた。