最終話 愛溢れる日々
結衣の六畳ワンルームアパートは、今や戦場と化していた。
いや、正確には『異世界人適応訓練所』と化していた。
「ジーク! それシャンプーじゃなくて洗剤!」
「え? でも泡が立つぞ?」
「泡立てばいいってもんじゃないの! 髪の毛溶けちゃうから!」
結衣が慌ててジークの手から風呂洗い用洗剤を奪い取る。
ジークは不満そうに頭を掻いた。
「この世界の道具は、見た目が似すぎてて全然分かんねぇよ……」
『まあ、仕方ないよ』
結衣の中から、レイの声が聞こえる。
『誰だって最初は戸惑うものだろうしね』
現代日本に戻ってから、もう三ヶ月が経っていた。
結衣とレイは魂レベルで融合しているため、レイは結衣の中に存在している。
そして、結衣に連れられて、勢いで一緒に来てしまったジークは――
「結衣、この『でんしれんじ』ってやつ、どうやって使うんだ?」
「電子レンジね。ボタン押すだけよ」
「どのボタンだよ。いっぱいあるぞ」
ジークが困った顔でレンジを見つめている。
「あのね、まず食べ物を入れて、時間を設定して、スタートボタンを押すの」
「時間って、どうやって設定するんだ?」
「この数字のボタンを……」
結衣が説明を始めると……
「よし、分かった! ネットで調べてみる!」
ジークがスマホを取り出す。
そして、驚くほど器用に操作し始めた。
「ちょっと待った!」
結衣が呆れる。
「ジーク、スマホは使えるのに、なんでレンジは使えないの?」
「スマホは分かりやすいからな」
ジークが得意げに言う。
「でも、この世界の機械の使い方は難しすぎる」
『まあ確かに、スマホは感覚的に使えるからね』
レイが同意する。
『でもジーク、君のその適応力は凄いよ』
「そうか?」
ジークが照れる。
実際、ジークの現代社会への適応は、驚くほど早かった。
戸籍の問題は、意外なほどあっさりなんとかなった。
レイの謎の知識と謎のコネクションにより、『記録の不備による再発行』という形で解決してしまったのだ。
こうしてジークは『日本国籍を持つ少年』として社会的に認められた。
「それにしても……」
結衣がため息をつく。
「ジーク、バイト先でも人気なんでしょ?」
「フッ、まあな」
ジークが誇らしげに胸を張る。
ジークは近所のバイクショップで、アルバイトを始めた。
器用で機械いじりが得意な彼は、すぐに店長に気に入られた。
日本人離れしたルックスの良さで、お客さんからのウケもいい。
「『ジーク君、今度バイク乗せて』って、女の子のお客さんに言われたって聞いたけど?」
結衣がわざと軽い口調で言った。
けれど、声の奥にほんの少しだけ棘がある。
「ああ、それな」
ジークはマグカップを持ち上げ、視線を逸らしながら笑った。
コーヒーの湯気が曇ったガラス越しに揺れ、結衣のほのかな嫉妬への喜びを隠すように漂う。
「でも、オレには結衣がいるから……」
その瞬間――
『へぇ?』
室内の空気が、すっと冷たくなった。
結衣の中から響くレイの声は、透明な刃のように鋭い。
『ジーク、君は別に結衣と付き合ってるわけじゃないよね?』
レイの声が、静かに、そして冷ややかに響く。
ジークはスプーンを止めたまま、顔を引きつらせた。
「うっ……」
結衣はそんなジークを見つめながら、笑いをこらえていた。
現在、ジークと結衣は限りなく恋人に近い関係ではある。
一緒に住み、一緒に食事をし、一緒にテレビを見て、ひとつのベッドで寝る。
でも、まだ正式に『恋人』ではない。
なぜなら――
『僕が許可してないからね』
レイが意地悪く笑う。
「レイ!」
結衣が柔らかく抗議する。
「もう……ジークにあんまり意地悪しないで」
だが、レイは一歩も引かない。
やんわりと、しかしはっきりと言葉を紡ぐ。
『でも、僕は結衣と一心同体なんだ』
レイの落ち着いた声が、結衣の頬をふわりと撫でた。
『ジークが結衣を愛するなら、僕の存在も認めてもらわないと』
「…………」
ジークが黙り込む。
複雑な面持ちで視線を落とし、指先でソファの縁をなぞる。
愛する女の中には、別の男がいる。
それも、彼女の魂と融合した形で。
三角関係とも異なる、魂が二対一で絡み合う関係。
ジーク対、結衣とレイの融合体。
彼の中で、理屈と嫉妬の境界が溶け始めていた。
「……まあ、とりあえず今日は早く寝よ?」
結衣は苦笑しながら話を切り上げる。
「ジークは明日もバイトでしょ?」
優しくそう言いながら、テーブルに置かれたマグカップを片付けた。
その仕草に、いつもの日常のぬくもりが戻る。
「ああ、そうだな」
ジークが静かに頷く。
けれど、胸の奥ではまだざらつくものが残っていた。
---
夜。
薄明かりの中、ベッドでは結衣が静かな寝息を立てている。
髪が枕に散り、月明かりがその頬を淡く照らしだす。
小さく上下する胸の動きが、穏やかな時間の流れを刻んでいた。
ジークはその横顔を見つめていた。
目を逸らせなかった。
(……可愛い)
息を呑むように心が鳴る。
胸の奥でドクンドクンと音を立て、体の奥が熱くなる。
指先が、ゆっくりと動き出す。
この頬に触れたら、どんなに柔らかいだろう。
けれど、指先が触れる寸前――
『何をしているのかな?』
空気を震わせるように、レイの声が響いた。
静寂を切り裂くその響きに、ジークの肩がビクッと跳ねる。
「うわっ!」
彼は反射的に飛び上がり、枕を掴む。
結衣がわずかに寝返りを打ったが、まだ眠っていた。
レイの声が、再び冷たく囁く。
『君が触ったら、結衣が起きてしまうよ』
その声は静かで、しかし妙に威圧的だった。
「お、お前……いつも見てるのか?」
『当然。僕は結衣の中にいるからね』
どこからともなく響く声。
姿のないその存在に、ジークは眉をひそめる。
「……ちっ」
枕に顔を押しつけ、 くぐもった声で小さく唸る。
レイの軽い笑い声が、どこか遠くから聞こえた――
そして夜が明けた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋を淡く照らす。
ジークはベッドの上で半分起き上がり、眠たげな目をこする。
鏡の中の自分の顔が少し青白い。
「ジーク、なんか顔色悪いよ?」
キッチンから結衣の声がする。
オーブンレンジでトーストを焼きながら、彼女は振り返った。
「いや、なんでもない」
寝ぐせのついた髪をぐしゃりと押さえながら、ジークが答える。
『あれ、ジーク。昨夜は眠れなかったの?』
レイの声が、結衣の声に重なるように脳裏に響く。
からかうような、落ち着いたトーン。
「うるさい」
ジークがぼそっと呟く。
「え?」
結衣が首を傾げた。
「あ、いや、独り言……」
慌ててコップの水を飲み干すジーク。
その様子を見て、レイの声が小さく笑った。
『ジークは面白いね』
結衣は首をかしげながらも、パンを皿に盛りつける。
フライパンの油が弾ける音と、朝の陽射し。
温かい日常は、少しだけ奇妙で、そして愛おしかった。
---
それから数ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、街の空気にはどこか初夏の匂いが混ざる。
陽射しは柔らかく、アスファルトの上でゆらゆらと陽炎が揺れる。
バイクショップの裏手、シャッターの上がった整備場では、工具の金属音が軽やかに響いていた。
店内の奥から、店長がひときわ明るい声で言った。
「ジーク君」
オイルの匂いとエンジンの熱気の中、店長が手を拭いながら笑う。
彼の背後では、新しく磨かれたバイクのタンクが蛍光灯の光を反射していた。
「たまには息抜きも必要だろう。このバイクで、彼女とツーリングでもしてきなさい」
「ありがとうございます、店長!」
ジークが弾む声で頭を下げる。
光沢のある黒いヘルメットの表面に、彼の笑顔が歪んで映った。
---
夕方。
街はゆっくりとオレンジ色に染まっていた。
マンションの影がアスファルトを斜めに横切り、どこかで流れるラジオの音がかすかに風に混ざる。
「結衣、ちょっと出かけないか?」
ジークが玄関で声をかけた。
カジュアルなジャケットにデニム。
どこか少年らしさの残るラフな姿。
彼の手には、光を反射するバイクのキーが握られていた。
「え? どこに?」
結衣が顔を出す。
部屋着のままの彼女の頬に、西日が柔らかく差し込む。
「ツーリングだよ」
ジークがニヤリと笑い、キーを軽く揺らす。
金属のきらめきが、彼の瞳の中で小さく光った。
「バイクで?」
「ああ。店長が貸してくれたんだ」
ジークが得意げに言う。
その背後では、街の空が茜色から群青へとゆっくり変わり始めていた。
「でも私、バイクなんか乗ったことないよ?」
結衣が少し不安げに笑う。
頬をかすめる風が、髪の先をやわらかく揺らした。
「大丈夫、オレが運転するから」
ジークは親指で自分を指しながら、いつもの自信たっぷりの笑みを浮かべる。
「お前はオレの後ろに乗ってくれればいい」
『面白そうだね』
結衣の胸の奥から、レイの声が響く。
穏やかで、それでいてどこか楽しげなトーン。
『僕も久しぶりに、バイクに乗りたいな』
「レイも!?」
結衣は思わず吹き出す。
そして、ジークの方を見て笑った。
「レイも乗りたがってるし……」
そして頷く。
「じゃあ、行こうか」
夕暮れの風が二人の間をすり抜け、窓のカーテンをふわりと揺らす。
外ではエンジンの低い駆動音が、ささやかな冒険の始まりを告げていた。
---
夕暮れの丘の上。
赤く沈む太陽が、地平線を焦がす。
バイクのエンジンが止まると残響が風に溶け、あたりは一瞬静寂に包まれる。
ジークはヘルメットを外し、額にかかった髪をかき上げた。
潮風が吹き抜け、シャツの裾を揺らす。
眼下には無数の灯りが瞬き、夜の帳がゆっくりと街を飲み込んでいく。
遠く、海面が夕陽を反射して金色に光り、波がゆるやかに寄せては返していた。
「……綺麗」
結衣が思わず息を漏らす。
頬に、水色と橙のグラデーションがやわらかく落ちる。
「こんな場所があったなんて」
その声が、風の音に溶けていく。
「オレも、偶然見つけたんだ」
ジークは微笑み、バイクのサドルにもたれかかった。
「バイトの帰りに、寄り道してさ」
『いい場所だね』
レイの声が、どこか懐かしげに響いた。
その声を合図にするように、鳥の群れが茜空を横切っていく。
ふたりは芝生に腰を下ろす。
草の匂いが立ちのぼり、風に揺れる音が耳に優しい。
遠くの街の灯りがちらちらと瞬き、まるで星空が地上に降りたかのようだった。
「……結衣」
ジークが小さく名を呼ぶ。
「お前に渡したいものがある」
「何?」
結衣が振り返ると、ジークは胸ポケットから、小さな包みを取り出した。
包みを開いた瞬間、風がふわりと吹き抜けた。
陽の光が反射し、赤と青、二つの輝きが宙に舞う。
「これ……」
結衣が息を呑む。
綺麗に磨き上げた小さな赤石と青石を組み合わせた、手作りのペンダント。
それは、かつて命懸けで戦った日々の証――
ファイアボールとアイススピアの小石だった。
「オレたちの戦いの証だ」
夕焼けの光が、その瞳に映り込む。
「お前とのすべての記憶が、今のオレを形作った」
そっと、結衣の首にペンダントをかけた。
赤と青の石が、残照の中でゆっくりと溶け合う。
「ジーク……」
結衣の声が震える。
「オレは……」
ジークが深く息を吸い込む。
風が止まる。
結衣は静かにその言葉を待った。
「――お前を愛してる」
沈む太陽が、最後の光を二人に注ぐ。
風が再び吹き抜けた。
「お前をゴブリンから助けた日も、力を合わせて魔王軍からヴァルディアを守った夜も、お前の手を取って血紅公の城を駆け抜けた日も、鱗王の城でお前と別れた日も、教会でお前に殴られた日も、アサイラムゲートでお前に赦された日も――全部が、今のオレにつながってる」
ジークが結衣の手を握る。
指先が触れた瞬間、彼女の心臓が大きく鼓動を鳴らした。
「オレと――付き合ってくれないか?」
震える唇を開き、涙に濡れた瞳で、結衣はジークを見つめる。
「私も……」
風が止まった。
世界の色が、一瞬だけ音を失う。
その静寂の中で――
『ジーク』
レイの声が、結衣のセリフを遮った。
柔らかく、けれど逃れられない澄んだ声。
『いま君は、結衣のことを何て呼んだ?』
「え……?」
ジークがわずかに眉を寄せ、戸惑うように辺りを見回す。
夕焼けの光がゆっくりと褪せ、丘の上に紫の影が落ちていく。
『告白の時に「お前」呼びはないでしょ』
レイの声は淡い笑みを含んでいた。
『結衣のことは、ちゃんと名前で呼んで』
静かに、穏やかに。
『それができたら――僕は君を認めるよ』
その言葉に、ジークの胸が小さく鳴った。
視線の先、結衣が光に包まれていた。
風に髪が揺れ、頬に残る涙が橙から金へと色を変える。
ジークは息を吸い込む。
胸の奥が熱くなる。
「……結衣」
その名前を呼ぶ瞬間、空がひときわ明るくなった。
言葉が風に乗り、丘全体を包み込むように響く。
「オレは――結衣を愛してる」
瞬間、ペンダントの光がゆらめく。
赤と青の光が、結衣の胸に彩りを添える。
『――うん、これで君を認めてあげる』
レイの声が、どこか安らいだ響きで応える。
その声は風に乗り、空の向こうへと消えていく。
『今日だけは君に、結衣を譲ってあげるよ、ジーク』
沈みゆく太陽の残光が、丘の草を金に染め上げる。
ジークはゆっくりと頷いた。
「ああ」
その声は、誓いのように力強かった。
「オレは、結衣を幸せにする」
結衣が微笑む。
柔らかく、あたたかく。
「私も……ジークが好き」
風がふたりの髪を撫で、時間がゆっくりと流れ出す。
唇が、光の残滓の中で触れ合った。
長く、深く――
まるで過去と未来がひとつになるかのように。
遠くの街が、ひとつ、またひとつ灯り始める。
結衣の胸。
赤と青の輝きが、その光に呼応するように瞬き、ふたりを包んだ。
---
キスが終わると、世界が再び静けさを取り戻す。
穏やかに風がわたり、ふたりの吐息がかすかに溶けていく。
結衣はそっとジークの肩に寄り添った。
彼の胸の鼓動が、夕暮れのリズムに重なる。
丘の草が微かに揺れ、金色の穂先が残照を受けて煌めく。
「思えば……いろいろあったね」
結衣の声は、風に溶けるほど小さく柔らかい。
遠く、沈みかけた太陽が海を赤く染めている。
「そうだな」
ジークが低く頷いた。
彼の横顔を、橙から群青へと変わりゆく空の色が静かに照らす。
「でも、あの世界での冒険があったからこそ、オレたちはこうしていられる」
その言葉には、戦場の煙と涙の記憶が滲んでいた。
結衣は目を閉じ、そっと胸元のペンダントに触れる。
赤と青の石が、夕日の残光を反射してかすかに光った。
「私たちの戦いは、想い出に変わったんだね」
その声に、ジークが静かに笑う。
大きな手が結衣の指先を包み込む。
「ああ。そしてオレたちは、これからもずっと一緒だ」
その瞬間、風がふたりの髪を撫で抜け、遠くの街へと流れていった。
丘の下から、どこかのバイクのエンジン音が響く。
かつての戦いの剣戟とは違う――
それは、平和を告げる優しい響きだった。
「帰ろうか」
ジークがゆっくりと立ち上がる。
背中越しに見える空には、最初の星がひとつ、静かに瞬いていた。
「うん」
結衣が微笑む。
その笑顔が夜風に溶け、赤と青の光が胸元でふたたび淡くきらめいた。
---
夜。
街の灯りが窓越しに揺れ、カーテンの隙間から柔らかな橙の光が部屋に差し込んでいた。
外では遠くの車の走る音が微かに響き、夜風がビルの隙間を通り抜ける。
静かな世界の中で、二人はソファに寄り添う。
照明は落とされ、テーブルの上の間接灯が淡い光を落としている。
その光が結衣の髪を金糸のように照らし、ペンダントの赤と青をゆるやかに反射させた。
「今日は……本当にありがとう」
結衣が小さく呟き、胸元のペンダントを両手で包み込む。
掌の中で石がほのかに温もりを帯びているようだった。
「これ、大切にするね」
その瞳は、窓の向こうの夜空よりも澄んでいる。
「ああ、オレの気持ちも、一緒に込めたからな」
ジークの声は、穏やかで低く、どこか心の奥に染みていくようだった。
結衣が微笑み、そっと彼の胸に頭を預ける。
ジークの腕がその肩を包み込み、温かさがゆっくりと広がっていく。
「結衣」
名を呼ぶ声は、まるで祈りのように静かだった。
「何?」
「好きだ」
短く、真っ直ぐな言葉。
それだけで、世界が満たされる。
「……私も、大好きだよ、ジーク」
結衣が顔を上げ、視線が交わる。
部屋の光がふたりの瞳に映り、ひとつの輝きになる。
ゆっくりと、唇が触れ合う。
時間が止まったようなキス。
互いの呼吸が混ざり合い、鼓動の音が重なっていく。
外の風が窓を揺らし、ペンダントの石が微かに光を返した。
やがて唇が離れると、二人は微笑み合う。
部屋には、暖かな空気と幸せな沈黙だけが残っていた。
異世界での長い冒険は、すでに幕を下ろした。
けれど――新しい冒険が、静かに始まっている。
それは、愛という名の、一生続く冒険。
結衣とジーク、そして結衣の心に宿るレイ。
三つの魂がひとつの光に結ばれ、時を越えて脈打っていく。
戦いは、愛に変わった。
冒険は、穏やかな日常へと姿を変えた。
運命は、確かに、幸福へと続いている。
未来は明るい。
希望は確かにここにある。
そして何よりも――
この世界は、愛に溢れている。
Forever with you…




