第118話 無気力の仮面が外れる時
「それができるなら、僕は君たちの判断を受け入れる」
その瞬間――
「ダメ!」
結衣が、レイの前に一歩踏み出した。
足音はない。
けれど、その動きが空間の粒子を震わせた。
淡い光が舞い上がり、彼女のシルエットを縁取る。
レイよりひとまわり小柄な体が、無限の闇を切り裂くように立ち塞がった。
両腕を広げる。
自分の身体を盾にして、レイを守るように。
その背中からは、見えない炎が噴き上がっていた。
「レイは――誰にも、殺させない!」
叫びが真空を震わせ、星々の残光を揺らす。
声なき宇宙の中で、それは確かに響いた。
結衣の髪が舞い、光の尾を描きながら宙に散る。
胸の奥から放たれた意志が、波動となって広がる。
震えているのは声ではない。
その全身に宿る、怒りと決意がぶつかり合っているから。
その瞳は、微塵も揺がない。
「……だいたいアンタたち、勝手すぎるのよ!」
凛として顔を上げる。
銀河の光が瞳に反射し、宝石のように輝く。
アルドベリヒを真正面から睨みつけるその視線には、神がたじろぐほどの怒気が宿っていた。
「自分たちの都合で呼んでおいて、いらなくなったら他人に殺させる? 最低!」
その言葉に、周囲の光子が一瞬ざわめく。
宇宙の静寂さえ、彼女の怒りに怯えている。
「レイは実験動物でも、カンフル剤でもない! ひとりの――人間なんだよ!」
叫びが放たれた瞬間、空間が一瞬だけ白く弾けた。
光が波紋のように広がり、仲間たちの頬を照らす。
拳を握りしめる。
その指先から微かな赤い光がにじみ、掌の中で火花のように瞬く。
小刻みに震えるその手には怒りだけでなく、確かな『生きた熱』があった。
「アンタたちなんかに、レイは殺させない!」
誰もが息を呑む。
静まり返った空間に、結衣の鼓動だけが響いている。
「私が――レイを救う。絶対に、私の手で!」
それは宣誓だった。
目には見えぬ光が彼女の周囲を包み、薄いオーラのように漂う。
闇の中にただひとり立つ少女が、神と世界に牙を剥いた。
その姿は、祈りよりも美しく、怒りよりも強かった。
結衣の中に燃えるその光は、理屈や計算を超えた『生』そのもの。
その瞬間、宇宙のあらゆる星々が、彼女の宣言に呼応するかのように、ひとつ瞬いた。
「結衣……」
ジークが複雑な表情で呟く。
瞳に、その行動に対する理解と、そして複雑な感動が混ざり合っている。
彼は結衣の気持ちを、誰よりも理解している。
愛する人を守りたいという、その想い。
なぜなら、自分も同じ気持ちを、結衣に抱いているから。
「無謀すぎる」
カインが一歩前へ出る。
「相手は……この世界そのものだぞ。どうやって戦うつもりだ」
しかしその言葉の奥には、確かに結衣への敬意があった。
無謀を責めているようで、誰よりもその勇気を認めていた。
「……結衣さんの気持ちは分かります」
ミリアの声は震えていた。
「愛する人を失うなんて――とても耐えられません!」
声に乗せた想いが、涙の粒とともに頬を滑り落ちる。
無重力の空間で、涙は宙に浮かび、光を反射して星のように瞬いた。
「……それで、君は一体、何をするつもりだ?」
アルドベリヒが結衣を見つめる。
彫刻のように整った顔が、光を反射して鈍く光る。
その中に、ほんのわずかなノイズ――“興味”と呼ぶべき異物が混じっていた。
まるで、プログラムの中に初めて生まれた感情の欠片のように。
「システムに逆らい、どうやってイレギュラーを救うのだ?」
その言葉に、結衣がゆっくりと口を開く。
闇に浮かぶその横顔を、星光が照らす。
その瞳は、まっすぐにアルドベリヒを射抜く。
「レイを殺さずに救う方法は、絶対にあるはず」
静かに放たれたその声は、爆発よりも重く響く。
遠くの星々が一斉に瞬きを止める。
宇宙がその言葉を聞いていた。
結衣の胸の奥から、熱の波が広がる。
鼓動が伝わり、空気のない空間に不可視の脈動を生み出す。
「私には、それが分かるよ」
誰も答えられない沈黙の中で、彼女の言葉だけが確かな現実として残った。
宇宙の闇が、ひとりの少女の信念によって、わずかに色を変えていく。
「結衣、君は……」
レイが、困ったような表情を浮かべる。
瞳に、結衣への愛情と気遣いが宿る。
結衣はレイに向き直り、その手を取った。
温かく、優しい手を。
「ねぇ、レイ……」
結衣の声が、真空の闇に小さく波紋を描いた。
ふたりを隔てる空間に微細な光子が漂い、淡く瞬いた。
まるでその言葉が光の粒となり、彼の胸に触れていくように。
レイが顔を上げる。
銀髪が、漂う光の風にふわりと揺れる。
彼の無表情な頬に、結衣の言葉が静かに降りかかる。
「あなたは……どうすれば、幸せになれるの?」
「…………!!」
その問いが発せられた瞬間、レイの瞳孔がわずかに震えた。
心臓の鼓動が遅れ、次の瞬間に強く跳ねる。
感情の波が、静かな銀河の表層を崩していく。
言葉にならない息が漏れた。
戸惑い、困惑、そして――恐れ。
無表情の仮面の下に隠してきたすべてが、ひび割れるように浮かび上がる。
レイの視線がゆっくりと泳ぐ。
彼の周囲に散らばる光の粒が、まるで乱れた心拍に呼応するように明滅する。
口を開くまでに、永遠にも似た沈黙が流れた。
「……君が、幸せなら」
レイの声が掠れる。
優しい響きを帯びてはいるが、どこか金属的で、生命の温度を欠いている。
まるで決められた答えを、機械的に繰り返しているように聞こえる。
「僕は――ずっと、幸せだよ」
その瞬間、彼の頬をかすめる光が震えた。
星のきらめきが、一拍遅れて消える。
彼自身の声の中に、空虚な反響が生まれた。
沈黙の奥で、彼は気づいてしまった――
その言葉が嘘だということに。
胸の奥で何かが軋み、見えない亀裂が心を割っていく。
「……本当に?」
結衣の声が、やわらかく、しかし鋭く問いかける。
心の奥底まで見透かすように。
魂に直接触れるように。
レイは目を伏せる。
その瞬間、彼の仮面が崩れ始めた。
いつもの無気力な表情の下に隠された、本当の感情が溢れ出そうとしている。
長い、長い沈黙
宇宙空間に、ふたりの鼓動だけが響く――
やがてレイの唇が、ほんのわずかに震えた。
声にならない息が漏れ、喉が上下し、微かな吐息が結衣の頬をかすめる。
凍りついていた表情の奥から、痛みにも似たひとしずくの微笑がこぼれた。
それは耐えきれないものを押し殺すような、静かな崩壊。
「……ごめん、嘘」
細い糸のように震える声。
音になった瞬間に途切れ、虚空の中で溶けて消えていく。
それでも、結衣にははっきりと届いた。
心の奥を、直接叩くように。
レイが、ゆっくりと顔を上げる。
銀色の光が彼の頬をなぞり、涙の粒が静かに浮かび上がる。
不死の存在が初めて流す、『生きた証』の雫。
無気力の仮面が、いまひび割れて砕け散った。
その下から現れたのは、誰も見たことのないレイの素顔。
生の痛みを知る者の、確かな熱を宿した瞳。
そこには。
――純粋な愛情があった。
――叶わぬ願いが、微かに揺れていた。
――そして永遠の孤独が、夜空のように広がっていた。
「本当は……」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
震える声が、胸の奥から滲み出る。
魂の奥底に沈んでいた叫びが、ゆっくりと浮上していく。
「……君が、大好き――」
その瞬間、世界は真実の灯りに照らされた。
遠い恒星が一斉に瞬き、時間の流れが止まる。
闇の中に無数の光子が舞い上がり、レイの言葉を抱くように漂う。
長い間閉じ込められていた感情は、宇宙そのものを揺さぶり、そして解放していく。
「君といて、僕は初めて『生きてる』って感じられた」
銀色の瞳の奥で、青白い光が瞬いた。
涙が次から次へと静かにこぼれ落ち、頬を離れた瞬間に宙へと浮かんだ。
次の瞬間、それは小さく弾け、光の粒となって空間に散る。
涙のひと粒ひと粒が、銀河の誕生を思わせるほどに美しい。
「……君と、離れたくない」
その響きが、結衣の胸を貫いた。
レイの真実の想いが、言葉ではなく波のように押し寄せ、彼女の心をひどく揺さぶる。
心臓が大きく脈打ち、鼓動のたびに胸の奥が熱を帯びる。
宇宙の静寂の中、ふたりの鼓動だけが、確かな現実の音として響く。
「君と、ずっと……ひとつになりたい」
レイが結衣の手を握り返す。
手のひらが触れた瞬間、ふたりを隔てる空間に微かな光が生まれた。
その指の震えは、祈りにも似ていた。
ふたりの手を包む光がゆっくりと広がり、星々が呼応するように淡い輝きを増していく。
「永遠に、君と一緒でいたい」
その瞬間、宇宙の闇が金色に揺らぎ、ふたりの影を包み込んだ。
結衣の瞳からも、大粒の涙がこぼれ落ちる。
それは重力を失い、宙を漂いながら、光の粒に姿を変えていく。
燃えるような愛情と、滲むような希望の光。
時を越え、空間を越え、ふたりの魂が確かに結ばれた証。
「レイ……」
音にならずに空間を震わせる、名を呼ぶ声。
結衣の指先が、レイの頬を伝う涙に触れる。
氷のように冷たい雫と人肌の温もりがぶつかり合った瞬間、静かな光がふたりを包み込む。
冷たさと熱が混じり合い、孤独という名の闇が、溶けて消えゆく。
――愛が、宇宙を包む。
恒星たちが一瞬だけ輝きを強め、
無数の光がふたりの周囲をゆっくりと回転する。
まるで魂と魂が共鳴し、宇宙そのものがふたりの感情を受け入れているようだった。
「……私も、あなたが大好き」
結衣の唇からこぼれたその言葉は、まるで夜明けの光のように静かで優しい。
その瞬間、レイの表情が輝く。
その微笑は『生きている』人間のもの。
暗闇に差し込む一筋の光。
世界に色を取り戻す光。
「だから」
結衣はレイの手を、もういちど強く握りしめる。
掌と掌が触れ合い、そこから柔らかな光が溢れ出す。
まるでふたりの想いがひとつの星を生み出すかのように、その光はゆっくりと膨らみ、周囲の闇を押し返していく。
「絶対に、あなたを救ってみせる」
結衣の真実の決断に、宇宙の塵が波紋のように揺れる。
レイの胸の奥で、鼓動が確かに鳴り響いた。
「私たちは、ずっと一緒」
その言葉に呼応するように、星々が静かにまたたき、銀河の帯がふたりの上に弧を描く。
愛の誓いは永遠の光となって、宇宙空間に静かに響き渡った。
誰もがその美しい光景に心を打たれていた。
ジークの瞳にも、涙が浮かんでいる。
嫉妬ではない、ふたりの愛を祝福する、純粋な感動の涙が。
カインとミリアも、静かに見守っている。
この瞬間の美しさを、心に刻み込むように。
アルドベリヒでさえ、その光景を静かに観察していた。
彼の視線の奥で、認識不能なデータがノイズとなって弾けた。
まるで何か、別の感情が芽生えているかのように。
宇宙が、ふたりの愛を見守っている。
星々の光が、ふたりを優しく包み込んでいた。
新たな戦いが始まろうとしている。
だが、それは破壊のための戦いではない。
愛のための、救済のための戦い。
結衣とレイの愛が、いま、宇宙を変える――




