第28話 ウィローラの使命
空を見上げる。雲ひとつない快晴が広がっていた。
澄んだ青が視界に染み込み、瞼が自然と重くなる。目を閉じると、静寂が全身を包む。
あぁ……終わった…終わったんだ……本当に…
さっきまでの戦いが嘘のような、夢でも見ていたんじゃないかと思わせてくるような浮遊感。
けれど、体中の節々から発せられる痛みが、そのすべてを否定する。
現実だ。これは確かに起きたことなのだ――と。
頭がずきずきと痛い…でも、なんだか清々しい気分がする。
モヤが晴れたような。長い間ねっとりとこびりついていた苔が剥がれ落ち、透明な球体が出てきたような気持ちよさ。思考のクリアさ。
今この瞬間を、ありのままに全身で感じられる…なんなのだろう…なんと表現すれば良いのだろう…
目を閉じたまま、その心地よさを静かに味わう。
場を支配する沈黙。
疲労か。安心感か。達成感か。喜びか…
わからないが、誰も口を開こうとはしない。
それぞれの時間が流れていく。
少しずつ冷えていく戦闘の熱。
地面の冷たさ。
唐突に手にぬくもりを感じた。
「温かい……」
声の方に顔を向けると、ウィローラが私の手を両手で包み込むように握っていた。
その目からは一筋の涙が流れている。
「生きていてくれてありがとう」
震えた声で彼女は言うと、とめどなく涙を流し始めた。
私はやっと実感する。
ああ……本当に生きのびたんだ…やり切ったんだ…
胸の奥に閉じ込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
涙が溢れて止まらない。
全身が熱い。
思考が感情で埋め尽くされていく。
「ウィロ……」
彼女の名前を呼び、私はその小さな体を抱きしめた。
我慢できなかった。
この温かさ、この確かな存在を全身で感じたかった。
彼女の小さな肩が震えている。
どうしようもなく愛おしい。
「生きていてくれてありがとう」
私も言わずにはいられなかった。
心の底から湧き上がる本物の感情。
しばらく抱き合ったまま、彼女の存在を感じていた。
やがて長い沈黙を破り、ウィローラが弱々しい声で語り出す。
「また失うんじゃないかって怖かった」
私はただ黙って聞くべきだと思った。
「私、これまで大切な人を二人失っているの。最初は育てのシスター。花が好きな人で、よく私と花の図鑑を見ていた。「ウィローラちゃんには白い花が似合うね」って、言ってくれて……」
消え入りそうな声の後に、嗚咽が聞こえる。
私は彼女の背中をそっとさすり、静かに落ち着くのを待った。
「…一緒に花の冠を作って、私に乗せて「可愛い天使ちゃんね」って……その言葉も仕草も…今でもはっきりと思い出せる。よく笑う人で……そんなシスターのことが本当に、大好きだった」
彼女の体に力が籠るのを感じる。
「ある時、いつも通り森で食材を取っていたら、一匹の魔物に出くわした。初めて見る魔物で……怖くて、体が動かなくなった…シスターはそんな私を抱きしめて、守ってくれた。身を挺して……私は、ただ彼女の服にしがみつき、泣くことしかできなかった」
ウィローラの腕の力がさらに強くなる。
「そんな私を安心させようとしてくれたのか、シスターはずっと話しかけてくれた…二人だけの花畑に来年はどんな花を植えようか、とか。朝いつも二人で飲むフレーバーティーに使えそうな薬草を見つけたから挑戦してみよう、とか。夜二人で寝る時に使うアロマキャンドルにどんな香りや花を入れようか、とか。祈りを忘れないで誰かを守れる優しい人になってね、とか。ずっと、ずっと話してくれた…私は泣きながら、うんうんと頷くことしかできなかった………だんだんとね…シスターのぬくもりも握る手の力も話す言葉も……なくなっていくの…」
彼女の呼吸が荒くなる。私はその背中をさすり続けた。
「…シスターが………冷たく…固く…重く…言葉もなくなった頃…やっと来た冒険者に私は助けられた………もし、あの時、私が動けていれば……2人とも助かったかもしれない…」
言葉が詰まり、ウィローラは大きく息を吸い込む。
「いっぱい悩んで、考えて、思い出して、泣いて、祈った……もう大切な人を失いたくない。そのために強くなる。強くなって、今度は私が守る…シスターがしてくれたように………それが私の使命」
初めて聞く彼女の過去。
その重さは私なんかには計り知れるものではなく、ただより一層強く抱きしめることしかできなかった。
「次は冒険者の友達。使命に真っ直ぐな人で、よく故郷の教会の話をしてくれた。古い建物で、雨漏りや床が抜けることが多くて、穴だらけだったらしい。だから「お金を貯めて建て替えるんだ」って笑ってた。私と同じで祈りが好きな人だったから、毎朝一緒に祈ってたっけな〜」
昔を懐かしむような優しい声色になるウィローラ。
「きっかけはサラマンダーの群れ。単体では何体も討伐してたし、そこまでの脅威じゃなかった。むしろ素材が高く売れるから浮き足立っていた。最初は順調だったけど……私が先行しすぎちゃって………その頃は「早く強くならなくちゃ」って思いでいっぱいで…周りがよく見えてなかった………一瞬だった。そんな私を庇って、彼女は足を失った…」
彼女の声が震える。
「私は彼女の手を引いて必死に群れから逃げた……けど、その頃にはもう冷たくて重かった。ああ、彼女はもうここには居ないんだなって気づいた……それからだったんだと思う、「強くなりたい」が「失いたくない」に変わったのは」
ただただ、かける言葉が見つからない。
矮小な言葉で慰めたくなかった。
「この街に来てメーケと出会ってからは、危険を避けて採取ばかりして過ごした。このままずっと過ごすのもいいかなとも思った。けど、祈る度に使命を思い出す…向き合えない自分の弱さを実感する…どうすればいいのかわからなかった。もう大切な人を作らなければいいのかとも考えた」
祈りの中でよく涙を流していた彼女の姿を思い出す。
ずっとウィロは私と同じ側だと思っていた。
自分を諦めた側の人間。
でも違った。諦めてなんかいなかった。ずっと、向き合い続けていたんだ…
「森に引き摺り込まれた時、まずメーケの顔が浮かんでなりふり構わず走った。頭の中では救えなかった過去がぐるぐると渦巻いて…考えないようにすればするほど、鮮明になっていく……また失うのかと挫けそうになった…全てを諦めたくなった………泣きそうになりながら、ただ走った」
あの時、私を探してくれていたんだと思うと、胸の奥がじんと熱くなる。
「メーケと目が合った瞬間、生きててくれて良かったって……本当に安堵した…けど、すぐに俯く姿を見て、今の私だと思った。使命から逃げ続ける私……ここで一歩踏み出さないと一生変われない。そしてなにより、メーケのことを考えた。思い出が溢れて止まらなかった…」
彼女の腕がより強く、私を引き寄せるのを感じる。
「私は、いつも陰気な顔してるくせにご飯食べる時だけ嬉しそうに笑うメーケが好き。採取しかしないくせに毎朝の訓練だけは欠かさずやる真面目なメーケが好き。野営の朝にいつもハーブティーを用意してくれている優しいメーケが好き!注目されることが苦手で自己紹介が下手なメーケが好き!なんだかんだ文句を言いつつ買い物に付き合ってくれるメーケが好き!大好き!大切な人!絶対に失いたくない!って思った」
ウィロの声は力強く、私の心を揺さぶる。
「でも…状況的にどうしたらいいのか全くわからなかったから、私の感情をそのままぶつけちゃった…けど、結果的にメーケも立ち上がってくれて良かった!使命や夢が無いことには驚いたけどね」
ウィローラが腕をほどき、私の顔を見て笑う。
その目には優しい光が宿っていた。
「ねえ、メーケのことも知りたい。教えてくれる?」
私のことか……ウィロみたいに語れるような過去なんてない。使命も、夢もない。でも今の気持ちを素直に話したい。
かっこいい言葉じゃなくていい。ただ、今は私の言葉で。
「……あの時、来てくれたのがウィロで本当に良かった。もしケレアニールだったら、きっと私は助けを求めるだけで、全部任せてた………こんなボロボロになることもなかった…弱いからって言い訳して、勝手に諦めて、何もしない………そんな自分が嫌いだった」
ウィローラは静かに私の目を見つめて、じっと聞いてくれていた。
「今まで、本気で何かをやったことなんてなかった。勝ちたいとか、強くなりたいとか、そういう熱い思いなんて持ったことがなかった。それはケレアニールのように、強く生まれた側の特権だと思ってた。何もない私は何者にもなれない。だから、手を伸ばすことは無意味でみっともないことなんだって。諦めて自分に期待をしなくなっていた…それが私」
溢れてくる気持ちをそのまま話す。
見ないようにして来た本音の部分。
整理されていない思考。まとまらない言葉。
「……何をすればいいのか、どう生きればいいのか、全てがわからなくなっていた…ただただ、そんな自分が惨めだった。ケレアニールみたいな力があれば、こんな苦労もしないのだろうか、ケレアニールだったなら、竜族だったなら……毎日、そんなことばかり考えてた」
生まれ持ったものは変えられない。
頭ではわかっていても、心ではどうしても受け入れられなかったこと。
「…でも、今は違う。一歩踏み出そうと、手を伸ばしてみようと思える。なんて言えばいいのだろう………スタートラインに立ったような感じかな、ようやく《《私の人生》》がここから始まんだ、みたいな」
口にするのがむず痒くなるような言葉。
でも、どうしても伝えたい真っ直ぐな思い。
「この気持ちがどんな言葉なのかまだ見つからないけど、今はただこう思う」
ウィローラは優しく微笑みながら、「聞かせて」と促してくれた。
その笑顔が、私の中に勇気をくれた気がした。
だから、私は言った。
恥ずかしさも隠さずに。自分の言葉で。
「今までで一番みっともない私だけど……
今までで一番好きな私」




