第23話 これまでの私
頭が重い。自分のものではない異物感。
体も動かせない。力が入らない。
頭がぐるぐると回る。回る。回る。回る。止まらない。
何も定まらない。上も下も、自分すら。
真っ暗な視界。
浮いているような感覚。沈んでいくような気持ち悪さ。
吐き気。吐きたい。すっきりしたい。
それすらもできない。
………
ゴォォォーーーン!
突然の轟音が耳を貫く。
反射的に頭がはね上がる。
音が体の奥へと響き、思考をかき乱す。
聞き覚え。
か……べ…?…ぶっ……しょ……へい……?
断片的な言葉。思考は濁り、感覚が崩れていく。
何もまとまらない。考えられない。ぐちゃぐちゃな頭の中。
気持ち悪い。ひたすらに、気持ち悪い――
なんとか、ひじを立ててバランスを取る。
ボヤける視界。目をこらす。
ぼんやりと、緑の影が揺れている。
…く、さ……?
まばたきを繰り返す。
目が痛い。はっきり見えない。
顔を近づける。
モヤが少しずつ晴れる――そして、見えてくる。
ゴブリン――目の前に。
醜悪な顔。近い。近すぎる。鼻先が触れそうだ。
目が合う。
瞬間、心臓が爆発したように跳ねる。息が詰まる。空気が喉で固まる。
目をそらせない。
見てしまう。その顔。シワだらけ。黒ずみだらけ。土汚れ。汚い。キモい。不潔。醜悪に歪んだ口元。糸を引くよだれ。隙間だらけの歯。黄ばんだ牙。キモい。キモい。キモい。キモい。グロい。グロい。グロい。グロい。グロい。醜い。荒い吐息。臭い。汚い。伝わる悪意。悪寒。怖い。怖い。怖い。
暴走する思考。
荒くなる呼吸。浅い息。苦しい。
逃げたい。逃げろ。逃げろ。逃げろ。動け。動かない。動け。動け。動け。
力が入らない。
硬直する体。止まらない震え。激しいあごの震え。ぶつかり合う歯。激しく。音を立てて。
うるさい。うるさい。うるさい。とまれ。とまれ。とまれ。
振動し続けるあごの骨。
歯の激突。衝撃。全身を伝播する。とめられない。できない。自分の意思では。何もかも。
冷える。冷たい。寒い。寒い。寒い。死。死。死。
ひたすらに寒い。
大きくなる震え。死の冷たさ。氷水の中。頭が割れそうだ。痛い。
動き出すゴブリン。ジリジリと後退していく。
眼前の脅威が遠ざかる。
よかった!助かった!助かったんだ!
神よ!ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございますっ!
安堵で涙がにじむ。笑みがこぼれる。
視界がひらけてくる。
見える。見えてくる――木々の影、その奥に。
ゴブリン。
ゴブリン。ゴブリン。
ゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。
ゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。
ゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。
――無数のゴブリン。囲まれている。
再び胸を締め付ける絶望感。息が詰まる。震えが止まらない。
想像が頭を埋め尽くす――
振り下ろされる棍棒。何度も。何度も。叩きつけられる。砕け散る骨。痛々しく逆に曲がる腕。皮膚を突き破る骨の断片。潰れる肉。
噛みつかれる腹。汚い牙が皮膚に食い込む。冷たく湿った感覚。中に…深く…奥に…だんだんと入り込んでくる…醜悪な牙……じわじわと広がる鈍い痛み。
やめろっ!やめてくれ!それ以上は!
牙が臓器に触れる。直後、ビクンッと跳ねる体。耐えがたい苦痛。
さらに思考が暴走する――
引きちぎられる手足。露出する神経。ゾッとするほど白く細い。それを掴み邪悪な笑みを浮かべるゴブリン。
おい…まさか…やめろ…やめろ!何をするつもりだ!やめろ!それだけは!それだけはやめろぉぉぉ!
一気に引きずり出される。
瞬間、全身を駆け抜ける激痛。ありえないほどの。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
吹き出す血。激痛。とまらない。激痛につぐ激痛。失禁。耐えがたい痛み。
やめろ!やめろ、やめろ。これ以上はやめてくれ。やめてください…お願いします…死にたい…早く殺して。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい…死なせてほしい…楽になりたい…解放されたい…お願いします…殺してください………
現実と幻想が混ざり合い、どちらが本物かわからなくなる。
いやだ…いやだ!いやだ!いやだ!怖い!怖い!怖い!恐ろしい!死にたくない!死にたくない!死にたくない!
動かない体。
頭が痛い。心臓が痛い。掴まれるような圧迫感。鷲掴み。息が苦しい。呼吸ができない。空気が吸えない…誰か…誰か……誰か…助けて…
孤独と恐怖だけが、全てを支配する。
ゴンッ
唐突に耳に飛び込んできた小さな音。
反射的にその方向を見る――
木の上。弓を構えたゴブリン。
私を見ている。狙っている。
ゴブリンの顔、矢尻の鋭さ、それだけが現実に浮かび上がる。
世界が静まり返り、他には何も無いみたいだ。
――この壁が消えたら、死ぬ。
あの矢は私を射抜く。必ず。
全身が力を失い、地面に崩れ落ちる。
息が震える。頭がぼんやりする。
せめて――せめて、一息で殺してほしい。
すぐに終わらせてほしい。
浮かぶのはケレアニールの後ろ姿。
彼女なら……彼女なら、この状況を簡単に切り抜けるだろう。
冷たい氷の刃で、一瞬にして全てを薙ぎ払う。
すました顔で、完璧に。傷一つ負わずに。
でも、私は違う。
力がない。弱い。何も持たない。
だから、何もできない…何も残せない…何も果たせない…
ここで死ぬ。
持つ者と持たざる者。
最初から決まっていた結末――私は、ここで終わる。
瞼が重くなる。
目の前に広がる視界が狭まり、暗くなる。
惨めだ――なんて惨めな人生だったんだろう。
振り返れば、何もない。
ただ期待だけを抱き続けていた。
いつか何かが起きて、強くなれる。
そんな淡い妄想だけをしていた。ずっと。今死ぬまでずっと。
結局何も起きなかった。
当たり前だ。
何も行動していないのだから。
種族を言い訳にして、弱いことを盾にして。ひたすら自分を守るだけ。
その結果がこれだ。
底なしの闇が目の前に広がる。
絶望がすべてを覆い尽くしていく――今までへの絶望とこれからの絶望。
受け入れたくない。でも、受け入れなければならない。
これは、ずっと逃げてきたツケ――私の選択の末路なのだから。




