知る者
この里が抱える問題について、気になることは多々存在する。
しかし、まずは本題だ。
シオンはごくりと喉を鳴らしてから、その単語を口にする。
「単刀直入に聞かせてください。クロガネさんは万神紋というものをご存じですか?」
「……おまえは何度あたしを驚かせれば気が済むんだい?」
クロガネはしばし言葉を失ってから頬をかく。
一方、ノノの方はきょとんと目を丸くするのだ。
「ばんしんもん? おかーさんとかノノのりゅーしんもんとは、ちがうものなの?」
「まったくの別物だよ」
クロガネはひらりと右手を振る。するとそこに漆黒の神紋が現れた。大きく翼を広げた竜のような形をしている。
人間に限らず、ほとんどの生き物は神紋を有している。そしてそれは種族によって異なる場合が多かった。竜の神紋は、竜神紋と呼ばれている。
「万神紋っつーのは普通の神紋とは根底から違ってねえ……つーか、シオンはどこでそんなものを知ったんだい?」
「あ、あの……私が原因なんです」
「お嬢ちゃんが? なんだ、研究者か何かかい?」
おおおどと手を挙げたレティシアに、クロガネは目をすがめてみせた。
これまでの友好的な態度が一転、声に微細な棘のような含まれる。ため息交じりにぼやくように続ける台詞も、どこか芝居がかっていた。
「そういや神紋関係の研究者か何かが、昔一回来たことがあったねえ。やれ『奇跡の技術だ』だの『失われたままにするのは勿体ない』だの……軽く脅せば二度と来なかったけど」
そこで彼女は一度言葉を切り、じっとレティシアを睨んだ。
「たしかにあたしは万神紋について、それなりに知識がある。だが、悪いことは言わない。あんなものには関わらないのが一番だよ」
「本当に、ご存じなんですね……」
レティシアは胸の前で手をぎゅっと握りしめる。
これまでろくな情報のなかった己の力。その手がかりを知る人物が目の前にいるのだ。
逸る気持ちを抑えきれなかったらしい。
レティシアは己の右手をかざしてみせて――。
「ご覧いただいた方が早いかもしれません。実は私――」
「っ……!」
その甲に幾多の光が宿った瞬間、クロガネが身をよじった。
右手の平に黒い光が瞬いて――。
ガキンッ!
耳を聾するほどの鈍い音が響き渡る。
クロガネがレティシアに向けたのは、黒いオーラを纏った拳だった。ただの拳と言うことなかれ。空を切って生み出された風圧は、壁や床に亀裂を生じさせるほど凄まじかった。
それを間一髪、シオンが魔剣の腹で押し止めたのだ。
レティシアを背に庇いながら、シオンは彼女へと叫ぶ。
「く、クロガネさん!? いったいどうしたんですか!」
「……おまえ、いったい何者だ」
低い声でクロガネが問う。
その目が見つめるのはシオンではなくレティシアだ。
尋常ならざる殺気が空気をビリビリと揺らす。
レティシアは息をのんだまま立ち尽くしていたものの、やがて複数の神紋が浮かび上がった己の右腕を翳し、震えた声を絞り出した。
「……分かりません。私、記憶がないんです」
「何……?」
そこからレティシアは、これまでの経緯を簡単に説明してみせた。
見知らぬ地で倒れていたこと。すべての記憶を失っていたこと。己が謎の力を有していたこと。
「そういうわけ、なんですけど……」
「…………分かった」
クロガネはしばし瞠目し、軽い吐息とともにたった一言そう言った。
ゆっくりと剣を引き、その手を小さく振るだけでオーラは消滅してしまう。
数歩退いて距離を取って肩をすくめてみせた。殺気も雲散霧消する。
「まずはお嬢ちゃんの話を信じよう。シオンも剣を下ろしておくれ」
「……はい」
「ついでに殺気を収めてくれと言いたいところだが……そいつは無理な話かな」
剣を納めないシオンに、クロガネは冗談めかしてニヤリと笑う。
しかし、すぐに眼光を強めてレティシアを睨んだ。
「悪いねえ、そいつにはいい思い出がないんだよ」
「い、いえ……私の方こそ突然すみません」
レティシアはびくりと身を震わせて右手をそっと隠す。
そこに浮かんでいた神紋は消えたものの、冷えた空気を変えることはできなかった。
そんな中、ノノが口を尖らせてクロガネをたしなめる。
「おかーさん、おねーちゃんを怖がらせちゃダメなの。今のはノノもびっくりしたの」
「そうは言うけどねえ、ノノ。お母さんがこの世で嫌いなものは三つあるんだよ」
クロガネは娘の目の前で指を折り、嫌いなものを数えていく。
「あたしに刃向かう敵と、ノノを傷付ける奴。そして万神紋だ」
「それなら三つじゃないの。あと、苦いおくすりとか、辛いごはんも、おかーさんはきらいなの」
「ぐっ……おまえも言うようになったじゃないか。まったく、誰に似たのかねえ」
バツが悪そうに顔をしかめるクロガネだった。
親子のじゃれ合いのおかげで、場の雰囲気がかすかに緩む。
そこでシオンは彼女へとまっすぐ頭を下げた。
「俺たちは万神紋についてと言うより、レティシアのことについて知りたいだけなんです。教えていただいた情報を悪用しないと誓います。だからご存じのことを聞かせてください」
「わ、私からも! お願いします!」
「うーん……どうしたもんかねえ」
深々と頭を下げたふたりを前に、クロガネは困ったように頭をかく。
しかしシオンらの真剣さが伝わったのだろう。
やがて諦めたようにして、彼女はぽつりぽつりと打ち明けた。
「実はね……その昔、万神紋を持つ人間がこの土地にいた時期があったんだよ」
「なっ!?」
慌てて顔を上げれば、クロガネは渋い表情を浮かべていた。
片手をひらひらさせるその所作は、どことなくやけっぱちだった。
「まあ、ここに来てすぐ死んじまったがね。暮らしていた場所もそのままだ」
「そ、それを見せていただくわけには……」
「見せてやりたいところだが、あたしの一存じゃどうしようもねえんだわ」
クロガネは盛大なため息をこぼしてみせた。
心底思い出したくもないとばかりに
「大昔、とあるクソ野郎と約束しちまったのさ。万神紋に関することは誰にも……うん?」
「どうしたんですか、クロガネさん」
そこで、クロガネが虚を突かれたように唸って固まった。
丸く見開かれた目は一点だけを見つめている。
首をかしげるシオンだが、すぐに彼女の視線の先にあるのが何なのか察した。自分が手にする、師から受け継いだ大切な魔剣だ。
彼女は震える指先を魔剣へ向ける。
「ちょっと待て、シオン。おまえ、その剣……」
「は、はい? 剣って、これのことですか?」
「うげっ……!?」
鞘に収めて掲げてみせれば、クロガネが大きく飛び退いた。
その途端、彼女の顔は青ざめてて髪の毛もぶわっと逆立ってしまう。ノノを守らんとしてぎゅっと抱きしめつつ、クロガネは裏返った声で叫んだ。
「なっ、何でそんなものがここに……! おいこらシオン! そいつをいったいどこで手に入れたんだ!?」
「えっ? えーっとですね……」
正直に答えるならば『もらった』と言うべきところだ。
だがしかし、シオンは考え込んでしまう。
(そういえばこの剣、大昔いろんな猛者が奪い合ったんだったよな……)
邪竜のエピソードと同じくらい有名な逸話だ。
さまざまな種族が入り乱れる大戦争――それに勝ち抜いてダリオがこの魔剣をもぎ取った。それをシオンが先日受け継いだのだ。
クロガネも竜人族族長という肩書きを有するだけあって、それなりの長さを生きているのだろう。ひょっとすると、その大戦に関わっていたのかもしれない。
(どうしましょう、師匠……秘密にした方がいいですよね?)
【ああ? 別にかまわん。汝の好きにしろ】
当のダリオに聞くと、投げやりな返事が飛んでくる。
なのでシオンはハキハキと答える。
「えっとその……近くの山で拾いました!」
「んなわけないだろ! そいつはあのクソ野郎の――」
クロガネが唾を飛ばして声を荒げる。そのまま何事かを叫ぼうとした、その瞬間。
「っ、あぶないの!」
ノノがハッとして空を仰いで叫んだ。
それと同時、シオンらの頭上に影が差し――。
ドガァッッッ!!
族長の館を大轟音が揺るがした。もうもうと砂塵が上がる中、ヒスイらが武器を構えて謁見の間に駆け込んでくる。
「何事ですか御屋形様!」
「ご無事ですか!?」
そうして彼女らは目の前の光景に言葉を失った。
謁見の間は半壊していた。天井と床が球形にえぐれており、大きな亀裂が部屋中に広がる。
そんな中、生ぬるい風が駆け抜けて砂塵のヴェールを取り去った。
そこに立っていたのは、三人を背に庇ったシオンである。咄嗟に展開した魔法障壁を解除して、振り返ることなく真後ろに声を掛ける。
「みんな、無事ですか」
「は、はい。ありがとうございます、シオンくん」
「はっ、まーた助けられちまったねえ」
「うううっ……おかーさん……」
震えるノノの頭を撫でてから、クロガネはゆっくりと空を見上げる。
そうしてふっと自嘲気味な笑みを浮かべてみせた。
「おまえたちを巻き込みたくはなかったんだが……どうやら手遅れみたいだねえ」
「はい。そのようですね」
『グルァアアアアアアアア!』
それはまるで、号砲のような雄叫びだった。
天地を揺るがす大咆哮を挙げるのは、山と見まがうほどに巨大なドラゴンたちである。
続きは明日更新します。明日は書籍版一巻発売日!




