山中での休息時間
デトワールの街から遠く離れた西に、黒刃の谷と呼ばれる場所が存在する。
広大な山脈は見渡す限りに続き、豊かな自然が広がっている。
何よりその名の由来ともなる貴重な鉱石が取れるということもあり、資源は豊富。
だがしかし、そこはどの国にも属さない土地であった。それは何故か。凶悪な魔物がうようよ生息しているからである。
「グルァアアアアッ!!」
獣道を行くシオンの横手で、気配の塊が膨れ上がった。藪から飛び出してくるのは黒い狼だ。体高は人間の大人をしのぐほどで、大きく裂けた顎からは鋭い牙が無数にのぞく。
それがシオンの喉笛めがけ、真っ直ぐに向かってきた。
避けるか、迎撃するか。
しかしシオンが取った行動はそのどちらでもなかった。
「はいはい」
「ッッッッッ!?」
自らに迫った大あぎと。そこに、シオンは臆することなく自らの拳を突っ込んだ。
黒い狼は目を剥いて固まってしまう。獲物の細腕に、己の牙がわずかにも通らず大いに困惑しているようだった。
その首に、シオンはもう片方の手を這わせる。
丸太のように太い首だが、シオンなら少し力を入れるだけで簡単に頸椎を折ることが可能だろう。それが狼にも分かるのか、全身に硬直が広がる。
シオンは努めてにこやかに言う。
「いいかい、もう俺を襲わないこと。仲間にも伝えておいてくれ。次にまた会ったら……容赦はしないからね」
「きゃうん!?」
そっと手を離せば、狼は情けない悲鳴を上げて逃走した。あっという間にその姿は藪の向こうに消え、シオンは肩をすくめる。
「ほんとに物騒なところだなあ。この前登ったデトワール山とは大違いだ」
【くくく、このくらいの方が退屈せずに良いだろう】
その独り言に、涼しげな声が応えてみせた。
シオンが腰に下げた剣である。正しくは、剣に魂を宿した師匠――ダリオの発言だった。
少し前までは厳格な男性のもののように聞こえていた声ではあるものの、その可憐極まりない正体を知った今では鈴を転がすような少女のものとしてきちんと認識できていた。
ダリオは不服そうに鼻を鳴らす。
【しかし、あの程度の雑魚ならば斬って捨てれば済む話だろう。何故逃したのだ】
「それだと血の臭いであたりの魔物を興奮させちゃうじゃないですか。余所者は俺たちの方なんだし、穏便にいかないと」
【かーっ、つまらぬ良識人め。英雄を目指すのならばもっと破天荒な道を進むべきだろう。向かってくる敵は全てちぎっては投げ、全財産をカツアゲするくらいの気概で叩き潰せ】
「それは英雄じゃなくて蛮族って言うんですよ、師匠」
物騒な師を適当にいなしつつ、シオンはあたりに落ちていた枝を拾う。最近は雨が少なかったのか、どれもほどよく乾燥していた。焚き火には持ってこいだ。
「よし。枝も十分拾ったことだし、レティシアのところに戻りましょうか」
【そうするがいい。いくら安全策があるとはいえ、ひとりは不安だろうからな】
そこから少し歩けば、小川が姿を現した。
水は泳ぐ魚の姿がよく見えるほどに澄んでいて、山全体は少し汗ばむほどの陽気に包まれているものの、この近辺は過ごしやすい。
そんな清流のほとりで、レティシアが荷物と一緒に待ってくれていた。
鍋に具材を放り込んで食事の用意をしていたが、シオンの姿を見つけるとぱっと顔を輝かせる。
「お帰りなさい、シオンくん」
「ただいま、レティシア。何も問題はなかった?」
「はい。このあたりは魔物さんもあんまりいないようですね」
レティシアはニコニコと周辺を見回す。
清流を訪れるのは小鳥やウサギなどの小動物のみである。本来ならば先ほどのような大きな魔物も現れるのであろうが……シオンの荷物があるせいで、匂いを察して寄りつかないらしい。
枝拾いと哨戒を兼ねた探索は、きちんと効果を発揮したようである。
あの狼以外にも多くの魔物を脅しておいたので、しばらくの間はここに近付くこともないだろう。
「それじゃ、レティシアは休んでてよ。俺がスープを作るからさ」
「そんなわけにはいきませんよ、シオンくんこそ休んでいてください。歩いてきてお疲れでしょうし」
「えっ、いやでもこの通りピンピンしてるからさ。ね? だからそのおたまを俺に渡して……」
「ダメです。シオンくんは無茶をしがちなんですから、休めるときに休んでおかないと」
「ううう……わ、わかったよ……」
結局、押し切られる形で調理担当が決定した。
レティシアは手際良く焚き火を起こし、鍋を火にかけていく。ぐつぐつと煮えるスープをおたまでかき混ぜながら、キョロキョロと辺りを見回した。
「どうかした? 危険な獣は近くにいないと思うけど」
「あっ、違います。そろそろご飯が出来上がりそうだから、お師匠さんがいらっしゃるんじゃないかと思って」
レティシアはにこやかに言う。
「不思議な方ですよね。ふらっといなくなったと思ったら、またふらっと戻ってくるし」
「あはは……師匠は気まぐれだからね」
「あっ、そうだ。お師匠さんはいっつもたくさん召し上がるから、今回も多めに作っておきますね」
「ちょっ、レティシア!? それはさすがに作りすぎじゃないかな!?」
「そうですか? お師匠さんならこのくらいぺろりと食べちゃいますよ」
「いやだってそれ明らかに食べられる色じゃないし……!」
レティシアは大はりきりで追加の具材を鍋へと放り込んでいく。
メイン食材は塩漬け肉やその辺で取れた野草、色とりどりのキノコだ。野営の食事としてはオーソドックスなものではあるが――煮込めば煮込むほど、透き通っていたはずのスープが毒々しい紫色に染まっていくのは何故だろう。
(やっぱりもう少し強引に調理担当を替わるべきだったなー……)
この旅を始めて約一週間。その間に、シオンはレティシアの料理の腕前が壊滅的であることを知った。
普遍的な食材を用い、ギリギリ食えなくはないが一口食べるごとに意識が遠のくような料理を生み出すのだ。
それでいて、当人はその味に何の違和感も持っていないらしい。どうやら『美味い』と感じる閾値が幅広いようで、店で出される絶品メニューも、自ら作り出す謎の料理もすべて美味しく平らげてしまう。
今だってちゃんと味見して、何か決め手が足りないと感じたのか手持ちの薬草(劇的に苦い)を千切りにして放り込んでいる。
スープの色が紫から黄緑に一瞬で変わった。何か常軌を逸した反応が起きているのは明白だった。
【ほう、なかなか美味そうではないか。今回も当たりだな】
(……あとで出てきて食べてくださいよ、師匠)
【もちろんだとも。いやはや、レティシアが料理上手とは嬉しい誤算だった。くくく、汝の分は残してやらぬから、あとで泣いても知らんぞ!】
(どうぞご自由に……)
ダリオがウキウキと弾んだ声を上げる。ここにも似たような味音痴がひとりいた。
シオンがため息をこぼす中、レティシアは鍋をかき混ぜつつ小首をかしげてみせる。
「それにしても……お師匠さんは、どうしてご不在だった間のことも全部ご存知なんでしょうね。まるでずっと私たちと一緒にいるみたいです」
「ほんとに一緒にいるんだよなあ……」
「え? 何かおっしゃいましたか?」
「いや、何でもないよ。うん」
シオンはぎこちない笑顔を返すしかない。
ダリオが実体化できるのは、今のところ一日三時間程度が限度である。
それゆえ、日中のほとんどは剣の中にいた。食事の時間などに実体化して、好きなだけ飲み食いしてから剣へと戻るのが常である。
そしてレティシアは、ダリオの正体が剣に封じられた魂で、なおかつ旧世代の英雄その人だということを知らずにいた。
悪戯が成功して喜ぶ子供のような【くくく……】というこの笑い声も、シオンにしか聞こえていないのだ。
シオンはこそこそと剣――ダリオへ話しかける。
(師匠、レティシアにはいい加減に本当のことを教えても大丈夫なんじゃないですか?)
【我もそれには同意見だがな。秘密を知る者は少ない方が何かと都合がいいのだ。なに、そのうち折を見て話すとも】
(分かりました。だったら俺も黙っておきますけど……ひとつ聞かせてください。師匠、この状況を楽しんでたりしませんよね?)
【もちろん楽しい。意中の女子といい雰囲気になったところで乱入して、愛弟子のしかめっ面を堪能できるのだからな!】
(やっぱりあれ毎回毎回わざとだったんだな、あんた……!)
デトワールの街からこの黒刃の谷間での道中、レティシアと和やかに談笑しているときや、手と手が触れて互いに赤くなったタイミングなどに限ってダリオが颯爽と現れるので、何度も甘酸っぱい空気がうやむやになっていた。
これには温厚なシオンも頭を抱えるしかない。
(くそー……俺はなんて疫病神に師事してしまったんだろ……どこかに捨てて来ようかなあ、この剣……)
(別にかまわんぞ。一定距離離れれば、自動的に汝の手元に戻る仕掛けを施しておいたからな。地獄の果てまでついていくぞ)
(いつの間にそんな紛失対策を……)
軽い冗談のつもりではあったが、それを聞いて手放したい気持ちがほんの少しだけ心の中に芽生えてしまった。
久々の更新です!
そしてあらすじにも書きましたが、来年一月より創刊されるSQEXノベル様にて本作の書籍化が決定いたしました!
発売時期やイラストレーター様など、随時お知らせできればと思います。
二部もこの通り連載再開していきます。不定期更新となりますが、お暇つぶしになれば幸いです。




