師、歩く
こんなはずではなかった。
テルギアは心の底からそう思った。
簡単な仕事のはずだったのだ。
提示された条件に合う者を探し出し、生かしたまま雇い主に引き渡す。
ターゲットは特殊な力を有しているが、それに対抗できるよう雇い主がタダで神紋手術を受けさせてくれる。
成功すれば多額の報酬が出る上に、成果がなくとももうひとつの神紋を得ることができる。
好条件もいいところだった。
テルギアもゴルディスも、人伝てにそのうまい話を聞いて、つい先日神紋手術を受けた。
それらしきターゲットも見つけたし、どうやら万象紋以外にはまともな戦闘手段を有していないらしいとわかった。
おまけにテルギアが手術によって付与されていたのは、催眠に長けた灰神紋。
彼の趣味である『珍しい神紋を持つ人間の剥製作り』に役立つことは間違いなかったし、ターゲットの捕縛が容易になるのは間違いなかった。
だから、簡単な仕事のはずだった。
それなのに――月が見下ろす大通りにて、テルギアは無様に地面を這い、血反吐を吐いてもがいていた。
「それで?」
しんと静まり返った大通りに、少女の声が響く。
テルギアとの距離は数十メートルも離れている。彼女は何の武器も持たず、魔法を唱えることもない。
ただ自然体だ。その整った面立ちに浮かんでいるのは、やけに楽しそうな満面の笑み。苦痛に呻くテルギアをまっすぐ見つめたまま、少女は楽しげに問う。
「貴様は本当に、聖紋教会とは無関係なのか?」
「し、知らない……! そんなもの、聞いた、ことも……!」
「ふうむ、本当かなあ」
「ひっ、やめっ……!? ぐ、ぎっ、ぎゃあああああ!!」
ダリオはかぶりを振る。そして一歩だけテルギアの方へと踏み出した。
たったそれだけ。華奢な少女の小さな一歩。わずかな距離が縮まったそれだけで、テルギアはもがき苦しんだ。
少女から放たれるのは、殺気などという生温いものではなかった。
物理的な破壊力を伴う『圧』である。
少女が踏み出し、歩くただそれだけで、空が大きく戦慄いた。
大気が巨岩のような重量を有し、槍のように降り注ぐ。
あたりの建物には蜘蛛の巣のようなヒビが入り、道のレンガは粉々に砕けた。
その力はもちろんテルギアにも降りかかる。
血が沸騰し、筋繊維が裂け、骨が砕け、皮膚がただれ、内臓が破裂し、気道が潰れ、粘膜が灼け、神経がすり潰され、頭蓋が軋み、鼓膜が破れ、腱が切れ、爪が剥がれ、想像を絶するほどの激痛が襲いかかり、気絶と覚醒を瞬くほどの間に何度も何度も繰り返しながら、正気を失うことも許されず、ただただ苦しみ、もがき続ける。まとっていたローブは血液やその他の体液で重みを増していた。逃げる余力はもちろんない。
崩壊しきった景色で無事なのは、辺りに転がる一般市民だけだった。どうやら少女が意図的に被害を避けているらしい。
(何だ、この娘は……!? 本当に人間か……!?)
テルギアは裏社会に沈む前、それなりに名の通った冒険者だった。
数々の修羅場をくぐり抜け、かつての仲間たちとともに一匹の神竜を討ったことすらある。
神竜と対峙したときも、身も凍るほどの威圧感を心身に受けて足がすくんだ。人知を超えた力の一端に触れた気分だった。
だがしかし、あんなものは単なる子供騙しに過ぎなかったのだと、今になって知った。
(こんなの、人間でも、生物でもなんでもない……! 災厄だ!!)
威圧だけで人を殺す。
そんな生き物など、聞いたことがない。
逃れようのない死が、もうすぐそこまで迫っていた。恐怖で歯の鳴る音が、弱まりつつある心臓の鼓動を上書きして頭の中で大きく響く。
そんな死に瀕する男を前にして、ダリオは軽く肩をすくめてみせる。
「ふーむ、嘘をついているようには見えんな。ともあれ本当にやつらと無関係かは判然とせぬか」
シオンが相手取っているのも同等の雑魚だろう。
万象紋の知識も最小限しか与えられていないようだし、これでは何の収穫も見込めない。ダリオは小さくため息をこぼし、準備運動でもするように腕を回す。
「なあ。我があのデカブツではなく、貴様の方を担当したのは何故だと思う?」
「ぉがっ……!?」
一歩、歩く。
たったそれだけで這いつくばったテルギアの体がグシャリと歪んだ。
声無き悲鳴を聞き流し、ダリオは続ける。
「我が弟子はそれなりに強い。だが貴様のような、人を人とも思わぬクズとやり合った経験が少なくてな。先ほど我にやったように、無辜の民を人質に取られれば剣が鈍ったことだろう」
テルギアは市民を操り、ダリオを捕らえようとした。
それなりの力を持った無神紋ということで大いに興味を引いたらしい。こちらが反撃に転じようとすれば人々を壁として使い、己の身を守った。
教本に載るほどの卑劣な手だ。普通の者なら、剣を向けることをためらったことだろう。
「だが、我は違う」
ダリオは唇を三日月に歪めて笑う。
「貴様のように卑劣な輩を前にするとな、かえって燃えるのだ。ゾクゾクする。これぞ、我が根っからの英雄たる証と言えようなあ」
「な、何を言って……」
「分からずとも問題はない。貴様はここで終わるのだから」
ダリオは謳うように笑いながら、一歩一歩、テルギアとの距離を詰めていく。
「光栄に思えよ、千の星霜を超えて蘇る大英雄。それを間近で目にして……おや?」
テルギアのすぐそばまでたどり着き、ダリオはひょいっと身をかがめる。
男は、すでに事切れていた。
うんともすんとも言わない骸を見下ろして、ダリオは鼻を鳴らす。
「なんだ、もう死んだか。まあ、全盛期の我ならこの程度の雑魚、視線が合っただけで始末できたものだがなあ」
ダリオがぱちんと指を鳴らせば、骸は勢いよく燃え上がり、一陣の風が灰をさらっていった。
そのとき、遠くの方で轟音が響いた。
砂埃が舞い上がる方角を見て、ダリオは肩をすくめる。
「ふむ、シオンの方も終わったか。しかしあいつも甘いなあ、敵などとっとと殺せばいいものを」
シオンが倒したゴルディスは、まだ息があるようだ。
そのまま司法に突き出す気だろう。まあ、その方が多少は情報を引き出せるやもしれない。なるようになるだろう。
そんな雑魚の生死より、気がかりなものがあった。ダリオは顎に手を当てて嘆息する。
「しかし万象紋か……まさか、また目にすることになるとはなあ」
千年前にすべての書類を焼いたし、関わったものの口はまとめて封じた。
徹底的にやったと思っていたのに……どうやら漏れがあったようだ。
ダリオは空を睨んで、低い声をこぼす。
「万象紋は自然に生まれるものではない。幾多もの神紋手術の果てに編み出された、悪魔の技術……レティシアにあの力を付与した愚か者が、この世界のどこかにいるはずだ」
当初、ダリオはただのおまけとして、シオンの活躍を見守るつもりだった。
だが万象紋がこの世に存在するとなると……まったく話が違ってくる。
口の端をさらに持ち上げて、まだ見ぬ敵へとありったけの憎悪を燃え滾らせる。
「絶対に許さない。必ずや一匹残らず根絶やしにしてくれる。それが……私の姉様を奪った万象紋への、正当な復讐だ」
空が大きく震撼し、その殺気は世界中に伝播した。
しかし、それはよほどの使い手でなければ察知できないほどの一瞬だった。
ダリオはすぐにニヤニヤといつもの不敵な笑みに切り替える。
「さあて、そうなるとシオンにはもっともっと強くなって、我の手伝いをしてもらわねば。くくく、まだまだあいつを鍛えてやれるのか。腕が鳴るなあ」
月が冴え冴えと輝く夜のもと、ダリオはシオンのいるであろう方へとウキウキと歩いていく。
威圧を完全に収めたため、新たな一歩を踏み出しても、彼女の道行で何が壊れることはもうなかった。ただの普通の少女のように足取り軽く、英雄は歩く。
ストックが切れたので、続きは明後日更新します。
本章あと二回更新予定。第一部ラストまでお付き合いいただければ幸いです。




