旅は続く
次の日の、昼過ぎのこと。
アスカの私邸の一室にて、プリムラが目を覚ました。
最低限の家具しかないシンプルな部屋だ。ここが彼女の使っていた私室らしい。
プリムラは寝台で横になったままでぽつりとこぼす。
「……どうして」
「あ、起きた?」
そんな彼女に、シオンは目を丸くした。
昨日から交代で見ていたが、意識を取り戻したのはこれが初めてだった。
虚空を見つめたまま起き上がる気配のない彼女を放って、ひとまず外へと声をかける。
「おーい、プリムラが目を覚ましたよ!」
するとすぐに慌ただしい足音が聞こえてくる。
ドアを開けて入ってくるのはレティシアだ。
少し顔は強張っていたものの、プリムラを見てほっと胸をなで下ろす。
「よかった……ずっと心配していたんですよ」
そう言って寝台のそばにそっと近付く。
プリムラはそれに目をやることもない。
そんな彼女に、レティシアはおずおずと頭を下げた。
「あの、大丈夫ですかプリムラさん。ちょっとやり過ぎてしまったかもって、私もさすがに反省しておりまして……本当にすみませんでした」
ちょうど部屋の窓からは火山が見える。
本日は胸のすくような快晴で、青空に赤い山が非常に映える。
そしてその山頂には、レティシアの生み出した巨人の腕がしっかりと残っていた。
これだけ離れた街からも見えることから、とんでもないことをしでかしてしまったと気付いたらしい。ここに来てからずっと猛省中だった。
(俺としてはスッキリしたんだけどなあ)
シオンはこっそりそんなことを考えていた。
レティシアはきっちり自分の運命にケリを付けたのだ。
そしてその主犯たるプリムラは、依然として天井を見つめたままだった。まばたきひとつしない。三人しかいない部屋の中、時計の針の音だけが静かに響く。
「……どうしてなのよ」
「へ」
やがてプリムラがか細い声をつむぐ。
きょとんとするレティシア。しかしすぐにハッとして息を呑んだ。
プリムラの目から後から後から涙が溢れてきたからだ。プリムラは顔を覆ってしゃくり上げながら、子供のように泣き出した。
「どうしてあんたたちは、私を殺そうとしないのよぉ……!」
「……やっぱりか」
シオンはかぶりを振るしかない。
ベッドのそばにしゃがみ込み、プリムラにそっと語りかけた。
「やけに回りくどいとは思ってたけど……それがきみの本当の目的だったんだね」
「そうよ! 悪い!?」
プリムラはがばっと起き上がり、シオンに殴りかかってきた。
拳はへろへろで何の力も乗っていなかった。シオンがあっさり受け止めると、プリムラの顔が大きく歪む。ヤケクソのように手を振り払われるが、それも駄々をこねる子供のような弱々しさだった。
レティシアはかすかに喉を鳴らしてプリムラに問う。
「プリムラさんは私の力を研究して、不死を克服したいんじゃ……」
「……ヒントにはなるでしょうけど、決定的な材料にはならないでしょうね」
寝台の上で膝を抱え、プリムラはぼそぼそと言う。
レティシアのことをちらっと見やるが、すぐに視線を外してしまう。
乱れたベッドシーツに目を落としつつかすれた声で続けた。
「あなたを外に放り出したのは実験のため。でも、そこで予想外のことが起こった」
「それってひょっとして……俺?」
「そうよ、シオン。あんたよ」
プリムラはぎんっと力強い目でシオンを睨め付ける。
「あんたはあの賢者ダリオを引っ張り出しただけじゃなく、それと同格の力まで得た。私が千年生きた中で、あいつ以上に強いやつは見なかったし……」
そこで言葉を切って、ため息をこぼす。
「女を守るためなら、私のことをどうにかして殺してくれるんじゃないかと思ったのよ。あんたはレティシアのことが大好きみたいだしね」
「そんなに俺、分かりやすかった……?」
「自覚がなかったわけ? どこまでもおめでたい奴ね」
「す、すみません」
「あうう……」
シオンはそれ以上反論できず、レティシアも真っ赤になって黙り込んだ。
そんな初々しい反応のふたりにプリムラはますます顔をしかめる。
頭をがしがしと掻きむしり、癇癪を起こしたように声を荒らげた。
「レティシアも私の思った以上に成長した……! だからきっと、シオンと一緒になって私を殺してくれると思ったのに……なんであんたたちは仲良く私を介抱してるのよ! 殺しなさいよ!?」
「いやだって、何か事情があるんだろうと思ってたし。そんなことできないよ」
「お人好し!」
そんな褒め言葉とも罵倒ともつかない叫びを最後に、プリムラはわっと号泣した。
レティシアがあわあわと背中をさするも、その手をはねのける余裕もないらしい。
プリムラはぐすぐすと鼻を鳴らしていたが、ハッとして顔を上げる。
「そうだ、ダリオよ。ダリオはどこに行ったのよ。あんたたちがダメでも、あいつは間違いなく私を殺してくれるはず。ちょっかいを出した敵だもの」
「師匠は……うーん。どうだろなあ」
敵に容赦しないのがダリオという人物像だ。そこはシオンもプリムラに同意する。
だがしかし、今回の場合はまた異なるだろう。
シオンが首をひねったところで、冷めた声が響く。
「そんな下らんことに我を使うな」
開け放たれたドアの向こうにダリオが眉をひそめて立っていた。
つかつかと軽快な足音とともに踏み入って、プリムラに人差し指をびしっと向ける。
「我は敵には容赦せぬ。だがな、それ以上に……他人の思惑に乗ってやるのが何より嫌いなのだ!」
「ごめん。この人、直情型の天邪鬼なんだよね」
「ほんっと最悪……」
プリムラはがっくりと肩を落として項垂れてしまう。
ダリオはからからと笑うばかりだ。
「汝の気配遮断術はかなりの腕ではあったがな、我にあーんなちゃちな洗脳術が効くものかよ。何か企んでいるのが分かったから、後は適当に話を合わせただけよ」
「適当に話を合わせた結果があれなんですか……かなり本気で俺を殺る気でしたよね?」
「なあに、成長の機会としてちょうど良かっただろう?」
シオンが恨みがましい目で睨んでも、ダリオは飄々とするばかり。
エヴァンジェリスタたちに襲われてプリムラの洗脳を受けたらしいが……当然のようにまるで効かなかったらしい。あとは昨日の通りだ。
「ちなみにエヴァンジェリスタたちは大丈夫なんです?」
「おう、あいつらも洗脳が解けたらしい。利用されたのを怒るどころかむしろ感心しておったぞ。『私たちをやり込めるなんてとんだ手練れがいたものね!』だと。よかったな!」
「……」
ダリオに肩をばしばし叩かれるも、プリムラはまるで反応を示さなかった。
沈痛な面持ちでシーツをぎゅっと握りしめるだけだ。
そんな彼女に、レティシアは意を決したように話しかけた。
「あの、プリムラさん。昨日も言いましたけど……私に何かできることはありませんか?」
「っ……」
プリムラがはっと息を呑む。しかし何も言おうとはしなかった。
レティシアは胸に手を当て、噛みしめるようにして語った。
「私はプリムラさんに感謝しているんです。出生の秘密はたしかにショックでしたけど……生まれてきたからこそ、見えた景色がありました。多くの人に出会えました」
声はかすかに震えていて、表情も硬い。
それでもレティシアはしっかりと前だけを向いていた。
己の生みの親へと、まっすぐに告げる。
「だから私はあなたにお礼がしたいんです。なんでも言ってください」
「……あんたに出来ることなんて何もないわ」
プリムラは目を合わせることもなく、ただぽつりとこぼす。
そこには苛立ちも焦燥も含まれてはいなかった。ただ色濃い諦念だけが存在する。
疲弊しきった少女が右手を目の前に掲げれば、数々の神紋が浮かび上がった。一度はレティシアが奪った力だが、時間が経過して回復したらしい。
それを目にして、プリムラは傷付いたように顔を歪めた。
「私は何年もひとりで研究を続けたわ。でも、どうやったってこの力を手放すことはできなかった。ホムンクルスに押し付けることも試したけど……みんな失敗した」
新たな力を付与する神紋手術。
その応用で、自らの力を委譲する術を編み出したという。
しかし何度試しても結果は同じ。ホムンクルスは拒絶反応を示し、万象紋は定着しなかった。
「神紋を持たない存在だけが、万象紋を扱える。それなのに生半可な被検体じゃ、その力に耐えきれない。絶望的なまでの矛盾を抱えているのよ」
「へえ、それじゃあプリムラも元々は無神紋?」
「そうよ。千年前はそっちの方が多かったんだから」
シオンが軽く尋ねると、プリムラは重々しく頷いた。
そういえば以前ダリオからも同じようなことを聞かされた。当時は無神紋の方が多く、ダリオも彼女の姉も神紋を持たなかったという。
そこでシオンはふと気付く。
(うん? だったら簡単な話なんじゃ)
その思い付きを、そっくりそのまま口にした。
「だったらその万象紋、俺がもらっちゃダメかな?」
「……は?」
その途端、プリムラが目を丸くして絶句した。あまりに衝撃的な申し出だったのか、完全に表情が消えている。まるで憑きものが落ちたかのようだ。
ダリオは「ほう」と面白そうに相槌を打つだけだった。
レティシアもあんぐり口を開けて固まっていたが、ハッとしてシオンの顔を覗き込んでくる。
「し、シオンくん。急に何を言い出すんですか」
「いや、万象紋は無神紋にしか適性がないんでしょ? で、生半可な人だと受け止めきれない。だったら俺ならもらえるんじゃないかなーって」
「それは、たしかに出来るかもしれない……けど!」
プリムラは蒼白な顔でぶつぶつ言う。
しかしすぐに血相を変えてシオンの胸ぐらを掴んだ。
「あんた分かってるの!? 一生このまま! 死ねないのよ!?」
「もちろん理解しているけどさ」
プリムラのうろたえぶりとは対照的に、シオンは落ち着き払っていた。
理外の力というのはリスクが付きものだ。不死以外にも何か重篤な不利益があるかもしれない。しかしシオンはあっさりと言う。
「これも何かの縁だし。俺がきみの代わりに、万象紋を捨てる方法を探しに行くよ」
「っ……!」
「そもそも、捨てるだけならどうとでもできたはずだろ。ホムンクルス以外の無神紋を捕まえて、押し付けてしまえばいいんだから」
ホムンクルスが無理なら、人間を使えばいい。
数が少なくなったとはいえ無神紋は今でも生まれている。そんな人物を秘密裏に捕らえ、片っ端から試してみれば……万象紋を受け止める被検体がいつかきっと見つかったはずだろう。
そんな簡単な方法を、プリムラが思い付かなかったとは思えない。
そして彼女ならそれを実行するだけの力がある。
「それをしなかったのは……きみが最後の一線だけは越えなかったから。そうなんだろ」
「……こんな苦しみ、私ひとりで十分だもの」
プリムラはシオンから手を離し、力なく寝台に腰を落とす。
そこでレティシアが慌てて口を挟んでくるのだが――。
「だ、だったら私がいただきます! シオンくんに負担を掛けるわけにはいきません!」
「あんたはもうすでに万象紋所有者でしょ。ふたつ目なんて確実にキャパオーバーよ」
「そ、そんなあ……」
プリムラににべもなくそう告げられて、へにゃっと泣き顔になる。
そんなレティシアにシオンは明るく笑いかけるのだ。
「大丈夫だって、レティシア。きっとなんとかなるからさ」
「ほ、ほんとになんとかなりますかね……?」
レティシアはおろおろするばかりだし、プリムラはムッとしたように眉を寄せる。
「あんたバカなの……? 私が千年掛けて解決できなかった難題なのよ。それをどうにかなるなんて……どんな根拠があってそんなことを言えるのよ」
「根拠ってほどのものは持ち合わせていないよ」
シオンはただかぶりを振る。
大変そうだなあとは思うが、それまでだ。
「俺はひとりじゃなくて、師匠もレティシアもいる。だから大丈夫だと思う。それだけだよ」
「……」
プリムラは完全に言葉を失った。
呆れてものも言えないのか、自分の歩んだ千年を振り返っているのか。
それは分からなかったが、ひとまずシオンはダリオへ問いかける。
「それでいいですよね、師匠」
「ああ? 汝の人生だ。好きにするがいい」
ダリオだけは飄々として軽く頷いてみせた。
口の端を思いっきり吊り上げてがははと豪快に笑う。
「世界を股に掛け、忌むべき力を捨てに行く! なんとも英傑らしい旅ではないか! もちろんこの我も付き合ってやろう! 光栄に思うがいいぞ、弟子よ!」
「それはありがたいんですけど……師匠、その先々でどんな女性と出会えるかなーとか期待してしてますよね?」
「それ以外に、我が旅に付き合う理由があると思うのか?」
「ちょっとは弟子の心配をしてくださいよ」
真顔で聞かれてしまったので、シオンは肩を落とすしかなかった。
シオンを信頼してくれている証左だとはいえ、自分に素直なのにもほどがあった。
「レティシアもどうかな?」
「……そうですね」
レティシアは少し逡巡したものの、最後にはぐっと拳を握ってうなずいてくれる。
「分かりました。シオンくんが決めたことです。私は応援します!」
「ありがと、レティシア」
これで三人の中で話はまとまった。
シオンは改めてプリムラに向き直る。
「どうかな、プリムラ。最後にきみの気持ちを聞かせてほしい」
「私、は……」
プリムラは寝台に腰掛けたまま、呆然と視線をさまよわせる。
部屋に静寂が満ち、緊迫した空気が流れる。
やがてプリムラはため息交じりにこう告げた。
「ちょっとだけ……考えさせて」
「うん。分かった」
シオンはそれ以上、何も言わなかった。
伝えたいことは伝えた。あとは彼女が決めることだ。
それに、部屋の外から足音が聞こえた。少し待っていれば、その人物が慌てた様子で現れる。
「プリムラ……目が覚めたのね」
アスカだ。髪は乱れ、目の下にはくまがくっきりと刻まれている。
昨日の騒動からほとんど休めていないのは明らかだ。それでも彼女はしっかりとした足取りで、昨日まで妹と呼んでいた少女のもとまで歩み寄った。
当のプリムラは顔をしかめてその名を呼ぶ。
「っ……アスカ」
「何よ。もう『姉さん』とは呼んでくれないの?」
アスカは冗談めかして肩をすくめてみせる。
しかしすぐに硬い面持ちで切り出した。
「幸い死者は出なかったけど、あなたが暴走させたホムンクルスの被害は甚大よ。どうしてあんなことをしたの」
「……シオンを、けしかけるために」
「ええ、そうじゃないかってシオンくんも言ってたわ。あまりに身勝手な理由ね」
プリムラがぼそっと告げた言葉に、アスカはかぶりを振る。
「あなたの事情はシオンくんたちから色々と聞かせてもらったわ。でも私はこの島を治めるものとして、あなたの罪を追及する義務がある」
「……もちろん分かっているわ。好きにしてちょうだい」
「そのつもりよ。でもね、これだけは言っておくわ」
「何……っ!?」
うなだれたままのプリムラ。
そんな彼女のことを、アスカはそっと抱きしめた。
わけが分からないとばかりに硬直する少女の頭をそっと撫で、ため息交じりに言う。
「あなたが無事で良かった。本当にもう、心配させてくれるんだから」
「ど、どうして……」
プリムラはかすれた声をこぼす。
「あなたに掛けた洗脳は……もう、解けたはずなのに」
「ええ、もちろん理解しているわ。あなたが妹でも何でもないってことはね」
アスカは平然と返し、プリムラからそっと体を離す。
プリムラの顔はすっかり蒼白になっていた。大きく目を見開いてアスカのことを凝視する。
アスカはそんな少女の頬に手を当て、まっすぐに語りかけた。
「あなたと過ごしたこの五年間、私はとっても楽しかった。たとえ偽りの姉妹であったとしても……あなたはもう私の妹よ」
ふんわりと微笑むアスカの表情は、島の統治者としてのそれではなかった。
まぎれもなく、姉としてのものだ。
「私もあなたの力になりたい。あなたの罪、私も一緒に背負わせて」
「どう、して……」
プリムラの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
雫が頬を伝い、アスカの指先を濡らす。窓から差し込む光に照らされて、それは宝石のようにキラキラと輝いた。
プリムラはくしゃっと顔を歪めて、吐き捨てるように言う。
「どうして、どいつもこいつも……お人好しの、バカばっかりなのよぉ……!」
「なんだ、知らなかったのか?」
それにダリオがからりと笑う。
両手を広げて告げるのは――ダリオなりの励ましだった。
「汝が考えるよりずっと、この世界はお人好しのバカで満ちているのだ。それに気付くのが千年は遅かったな」
◇
騒動から一ヶ月あまりが経過したあと。
シオンは大きな船の甲板で、ひとり潮風を浴びていた。
「ふわー……今日もいい天気だなあ」
突き抜けるような青空のもと、風を切って船は進む。
海鳥でさえそのスピードについてはいけず、あっという間に後方へと流れていった。
何しろこの船は、乗員乗客合わせて千人以上を収容できるような最先端の巨大豪華客船だ。レストランやプールだけでなく、劇場やカジノまで併設している。
庶民派のシオンは乗船当初はかなり気後れしたが、今ではすっかり慣れていた。
波の音に耳を澄ませ、風を全身で浴びてぼーっとする。
そうしていると、背後から明るい声がかかった。
「こんなところにいたんですね、シオンくん」
「あ、レティシア」
振り返ればレティシアが立っていた。
いくぶんホッとしたような面持ちでシオンの隣に並ぶ。
「お部屋にいらっしゃらないから……ちょっとだけ探したんですよ」
「ごめんごめん。もうすぐ目的地でしょ、それまで船旅を堪能しようかと思ってさ」
「ふふ、お気持ちは分かります。私もこんな大きな船に乗るのは初めてですから」
そう言って、彼女もまた目を細めて風を浴びる。
しばしふたりの間に会話はなく、ただ波と海鳥の声に耳を傾けていた。
しかしふとレティシアが潮風に遊ばれるシオンの髪を見て、眉を寄せる。
「その髪……やっぱり白くなったままですね」
「まあ、ちょっとだけだし。別に気にしてないよ」
前髪の一房を摘まみ、シオンは軽く肩をすくめてみせる。
没個性だったはずの黒髪が、その一部分だけ真っ白に染まっていた。
知らない人が見ればお洒落染めか何かだと思うだろう。それくらいのさりげなさだ。
それなのにレティシアが深刻な顔をするものだから、シオンは柔らかく笑う。
「そんな顔しないでよ、自分で言い出したことなんだし」
「あうう……すみません。応援するって言ったのに……」
「ううん。こっちこそ心配掛けてごめんね?」
しょんぼりするレティシアにシオンは笑う。
そうして右手をかざしてみせた。
何の神紋も持たず、無能と蔑まれる原因となったその甲に……ぽんっと真っ赤な神紋が浮かび上がる。神紋は立て続けにふたつ、三つと現れて、そのどれも色も形も異なるものだった。
それを見て、シオンは感慨深くため息をこぼす。
「万象紋をもらった影響が、こんな形で現れるなんて思いもしなかったなあ」
この力を授かったのが、船旅に出る直前だった。
プリムラは最後までかなり悩んだらしい。
そこにシオンが説得を続け、ようやく万象紋を譲り渡す決意を固めた。ダンジョン地下の研究施設で施術を行い……その結果得たのが、この白く染まった髪と無数の神紋だった。
『ありがとう……ごめん』
プリムラはそう言って、深々と頭を下げてみせた。
どこかホッとしたような、肩の荷が下りたような声色だったが、表情は悲愴そのものだった。
自分が千年苦しんだ力を押し付けることに、自責の念を覚えたらしい。
だからシオンはそんな彼女にあっさり言ってのけたのだ。
『とっとと捨てて帰ってくるからさ。気楽に待っててよ。あ、お土産は何がいい? 嫌いな食べ物とか言っておいてくれると助かるんだけど』
『なんか……あんたなら本当に大丈夫そうね』
プリムラは最後には苦笑して、シオンにすべてを託してくれた。
レティシアもそれを思い出したのか、遠くの――黄金郷がある方角へと目を向ける。
「プリムラさん、今頃どうしていますかね」
「きっと元気でやってるよ。アスカさんも一緒にいるんだし」
プリムラには無数の罪状が掛けられることとなった。
アスカやエヴァンジェリスタたちを洗脳していた件についても糾弾されるかと思われたが……被害者たちが告発を避けた。アスカは身内の甘さで、後者三人は面白がったため。
他にも被害者がいないか調べられたが、そうした痕跡は一切なかった。
プリムラは他人を巻き込むことを非常に嫌っていた。
最後の一線を越えるのを拒んだのもあるが――どこから自分の存在が漏れ、狙われるか分からなかったからだ。
デトワールで唆したならず者二名も、牢から救い出したあと記憶と付与した神紋を消して放逐したらしい。安否の確認も取れたし、当人らはプリムラやシオンのことを何ひとつとして覚えていなかった。
そういうわけで、街全体でホムンクルスを暴れさせたこと、禁じられた神紋手術を行ったこと。主にこの二点の罪状により、アスカがその身柄を預かることになった。
ホムンクルスの件は、建前上は調整不良ということにしてアスカがほとんどの責を負った。
幸いにもノノのおかげで被害は最小限で済んだため、島の人々からはさほど紛糾する声は上がらなかったらしい。むしろアスカひとりに重責を負わせていたことに気付き、仕事を請け負おうとする者が後を絶たなかった。
神紋手術の件は重罪だ。
その研究結果の破棄や実行記録の確認など。
まだまだやるべきことは山積みらしいが、アスカがすべて責任を持って処理するという。
『プリムラのことは私に任せてちょうだい。何かあったら連絡して。できる限りの力になるから』
そう言って、アスカはシオンたちを見送ってくれた。
この船のチケットを手配してくれたのも彼女だ。
レティシアはそっと目を伏せてから、吹っ切れたように笑う。
「実は私……落ち着いたらプリムラさんに手紙を書こうと思うんです」
「手紙? 万象紋の調査の報告とか?」
「それもあるんですけど……」
レティシアは照れたように頬をかき、恥ずかしそうに言う。
「家族に手紙を出すのが夢だったんです。あのひとは私にとっては……お母さんみたいなものですから」
「そっか。いいね、きっと喜ぶよ」
シオンはそれににっこりと笑う。
レティシアなりに前に進もうとしていることが分かって、胸が温かくなった。
(あ、俺もフレイさんに手紙を書かないと。いろいろあったからなあ)
定期的に連絡は入れていたが、黄金郷に行ってからは手紙を書く暇がなかった。
どう書けば心配させずに済むかは分からないが……まあ、なるようになるだろう。
「本当にいろいろあったけど、一緒に旅を続けるって約束は守れたね」
「い、いろいろで片付けていいんでしょうかね」
レティシアは困ったように苦笑する。
お互いあの島の事件を経て、人生が文字通り百八十度は変化した。
それくらい衝撃的な事件ばかりだったが、今ではこうして平和に潮風に当たっている。
(そもそも、俺的にはあんまり変化ないもんな……)
万象紋を受け取った結果、不死になったし様々な神紋を得た。しかしその前からダリオの修行を受けた結果、体は異常に丈夫だったし、多種多様な魔法を使うことができた。
つまり、以前と何も変わらない。
そう言うと、レティシアはくすりと笑った。
「たしかに、何だかんだで元通りですね」
「そうそう。終わり良ければすべて良し、ってね」
シオンもおどけて笑った。
(あ、でも……変わったこともあるか)
そこでふと思い出すことがあった。
少しの間逡巡してから、シオンはぼそぼそと切り出した。
「あのさ、レティシア」
「はい?」
「このまえ、俺がアスカさんと戦う前に言ったこと……覚えてる?」
「……はい」
レティシアは少し遅れて小さくうなずいてくれた。
それでまたふたりの間に沈黙が落ちる。互いに前だけ向いて海原を眺めていたものの、自分の顔が真っ赤に染まっているのは手に取るように分かった。
そんななか、シオンは意を決して口を開く。
「それじゃ……改めて言わせてほしい」
レティシアの方を向き直ると、彼女も真っ赤な顔をしていた。
それでも視線を逸らさず、シオンのことをまっすぐに見つめている。
そんな彼女に、シオンは改めて告げる。
「きみが好きだ。たぶん初めて会ったときからずっと」
「……いいんですか? 私なんかで」
「きみだからいいんだよ」
レティシアの手をそっと取り、しっかりと握りしめる。
出会ったときからずっと変わらない、優しくて華奢な手だ。
いつまでもそれを守りたいと強く思った。
レティシアは少しの間だけ、じっとシオンの手を見つめていた。
しかしすぐに――彼女はふんわりと笑ってくれた。
「私も……シオンくんのことが大好きです」
「あ、ありがとう!」
シオンは大声で叫んだ。
そのせいで甲板にいた他の人々の目を集めることになったが、かまうことはなかった。
おもわずレティシアを抱き上げてくるくると回る。
「やったあ! これで晴れて両思いだ!」
「わわわっ、シオンくん!?」
「人生初彼女だー!」
周囲の人々はぽかんとそれを見つめていたが、やがてあちこちから歓声と拍手が沸き起こった。若いふたりの恋路にほのぼのしたらしい。
一通りよろこび終わったあと、シオンはレティシアを下ろして宣言する。
「ありがとう、レティシア! 俺の人生をかけて幸せにするからね!」
「は、はあ……でもその、シオンくんは私のことよりまず、ご自分のことを気にした方がいいのでは……?」
「平気平気! レティシアと付き合えるなら、他のことは全っっ部些事だから!」
「前向きなのはいいことだと思いますけどね……」
レティシアは苦笑いをしつつも、ぺこりと頭を下げてみせた。
「でもその……これからよろしくお願いします」
「こちらこそ!」
「きゃっ!?」
それがあまりにも可愛すぎたので、シオンは衝動的に抱きしめてしまった。
観客らから口笛が鳴らされ、レティシアはあわあわと固まる。それでもそっとシオンの背中に腕を回してくれて――。
(俺はなんて幸せ者なんだ……!)
天にも昇るような心地とはこのことだった。
最上級の幸福をじーんと噛みしめていると――。
「だーっはっはっは!」
「うわっ」
威勢のいい笑い声が聞こえてきた。
そっと窺えば、甲板の向こうでふんぞり返るダリオが見えた。その周囲には伸びた男たちがごろっと転がされていて、みなうめき声を上げている。
ダリオは男らを睥睨して、豪快に酒瓶を煽る。
「くはは、あれだけ大口を叩いておいてもう終わりか? 用意してくれた酒はちゃーんと我が処理してやるゆえ、ありがたく思うがいい!」
どうやらナンパされた末に、飲み勝負で返り討ちにしたらしい。
当人的にはタダ酒にありつけてラッキー、くらいの気持ちだろう。
弟子たるシオンは頭を抱えるしかない。
「まーた師匠が厄介事を起こしてるよ……」
名残惜しいがレティシアから体を離し、師をあごで示す。
「ちょっと止めてくる。待ってて、レティシア」
「はい。頑張ってくださいね、シオンくん」
「まったくもう……師匠! いい加減にしてください!」
「なんだバカ弟子、汝も飲むか?」
「だから未成年だって言ってるでしょうが!」
あっけらかんとしたダリオに、シオンは怒鳴りながら向かっていった。
師弟はそのままぎゃーぎゃー言い争う。そんなふたりを離れた場所から見守って――レティシアはふふっと笑った。
「あちこち探さなくても……私の家族は、ずっとそばにいたんですね」
【完】
これにて完結。お付き合いいただきまして、まことにありがとうございました!
とはいえ三人の旅はまだまだ続きます。また時間を見つけて続きを書きたいですが、いつになるか不明なので一旦完結ということで。
原作三巻&コミカライズ一巻は本日発売となります。書店様特典なども多数あるので、また後ほど活動報告にてまとめさせていただきます。
本編は完結しましたが、コミカライズはまだまだ続きます。ぜひともよろしくお願いします!