空の博物館
「お客様の前に展示されているのが、今では見ることのできない、『夕焼け空』となります」
葛原と名乗った博物館スタッフの案内に従い、私は目の前のホログラムディスプレイへと目を向ける。画面の中には、淡いオレンジ色に染められた空が広がっており、藍色の縮れ雲が風に流されて画面の左から右へとゆっくりと流れている。マンションの側面には濃い影が落ち、狭い道路に沿って並べられた電柱をつなぐ電線には、幾羽もの鳥が止まっている。見たことのない景色です。私が思いついた感想をそのまま口に出すと、葛原さんが口に手を当てて上品に笑った。
「学校で習ったんで、昔は色んな空があったってことは知ってるんですけど……。私にとっての空は、そこの窓から見えるようなねずみ色の空だけだから、ちょっと実感がわかないというか」
「仕方ないですよ。二十年前にはもうほとんどの空がオークションにかけられ、その結果個人所有されてしまいましたから。今ではもう、私たち一般市民が見ることのできる空は『曇天』という種類の空だけですしね」
私は博物館の窓から覗く空に目を向ける。手を伸ばせば届きそうな、重たくてじっとりと湿った灰色の空。朝も昼も夜も変わることなく、見上げればいつだってこの空が一面に広がっている。もちろん、歴史の授業や、地学の授業で写真や動画を見たことはあるけれど、私にとっての空はあの『曇天』と言われる空だけで、ホログラムに映し出された色鮮やかな空のほうが、どこか奇妙で、非現実的に思えた。
「『夕焼け空』はちょうど二五年前にイスラエル在住の国際銀行頭取によって落札され、現物は彼の個人アートギャラリーに納められています。このディスプレイに映し出されているのは、まだ『夕焼け空』が個人所有されてしまう以前に写真や動画で撮影されたものから、最先端の3D技術を使って再現されたものです。どうです? お綺麗でしょう?」
葛原さんの問いかけに私はこくりと頷く。地方郊外に建てられたこの空の博物館。営業日にもかかわらず私以外の客は誰ひとりおらず、水を打ったような静けさが館内を満たしている。折角のお客様ですから。博物館スタッフの葛原さんはそう言って、こうして私と一緒に展示を回り、展示物について色んなことを説明してくれている。私は横目でちらりと葛原さんのを見てみる。葛原さんは私の方ではなく、ただじっと目の前の展示物を見つめていた。葛原さんは本物の夕焼けを見たことがあるんですか? 私は世間話のつもりで尋ねてみる。
「はい、私が子供の頃は『夕焼け空』は公共物でしたから。大体、晴れた日の……ごめんなさい、晴れって言ってもよくわかんないですよね。今の言葉で言うと、日光照射量が多い日の午後五時ごろに空を見上げると、こんな綺麗な色の空が広がっていたんです。あ、これを言ったら、年齢がバレちゃいますね。忘れてください」
葛原さんがお茶目に笑う。空にはですね、この博物館では網羅できないくらいにたくさんの種類があったんですよ。葛原さんがそう説明しながら、私たちは博物館の奥へと進んでいく。『夕焼け空』の次のブースは、『青空』という名前の空が展示されるブースだった。『夕焼け空』が展示されていた場所とは違い、ホログラムディスプレイによる3D展示はなく、ただ透明なケージの中に、青い色をした空の写真や簡単な動画が再生される画面が並べられているだけだった。
「『青空』は三十年前にアメリカの巨大IT企業の創始者によって落札されました。現物は現在彼女の個人宅に保存されています。先ほどの『夕焼け空』とは少し事情が違い、こちらの『青空』に関しては所有権による展示の制限がかけられています。なので、3Dホログラムの作成自体が国際法で禁止されており、写真及び動画のみの展示となっています。いえ、原則は個人が所有しているものの3Dホログラムがばら撒かれること自体が禁止となっています。ただ、先ほどの『夕焼け空』に関しては、所有者によって一部権利の放棄が行われていて、先ほどのような展示ができているんです。なので、どちらかというと先程の『夕焼け空』が特別なんです」
ホログラム展示がないのかという私の質問に葛原さんが丁寧に事情を説明してくれる。せっかく高いお金を払って自分のものにしたのに、それがあちこちで簡単に見られるんだったら意味がないですもんね。私がそう言うと、葛原さんが苦笑いを浮かべながら答える。
「お客様は空の売却が終わった後にお生まれになったからそう思うのかもしれませんね。私のように、色んな空が当たり前に存在していた時代を知っている世代からすると、誰かが空を独占しているということ自体が今でも不思議でしょうがないんです」
私と葛原さんは並んで歩きながら、他の展示物を一つずつゆっくりと鑑賞していく。『雨空』。『朝焼け』。名前はないけれど、鱗の形をしたたくさんの雲が遠くまで伸びていっている空。葛原さんは展示物の内容だけではなく、空がまだ公共のもの、つまり、今の時代みたいに誰かの家の中に隠されているわけではなく、上を見上げればいつだってそこに色んな空が存在した時代についても教えてくれた。そもそもどうして、空が今みたいに個人所有されるようになったんですかと私が尋ねると、一部の大富豪が国以上の財産を保有するようになった経済の歴史から、空の個人所有を可能した光学技術の進歩など、色んな周辺知識を順をおって説明してくれる。
「次の展示が、本博物館の最大の名物、『夜空』になります」
展示ブースを抜け、細い廊下を渡り、エスカレーターに乗って地下へと降りていく。分厚い扉を開けて、中にはいると、部屋の中は映画館のように真っ暗で、見渡してみてもディスプレイや展示物らしきものは一つもない。中にあるのは同心円上に並べられた劇場用の椅子と、中央の台に置かれた、球体型の古めかしい機械だけだった。私は葛原さんに促されるまま、椅子の一つに腰掛ける。椅子は背もたれが少しだけ倒されていて、そのまま持たれかかると、真っ暗な天井だけが視界に映る。始めますね。その体勢のまましばらく待っていると、葛原さんの声がスピーカーから聞こえてきた。その合図とともに、わずかに点っていた足元の蛍光灯の明かりが消え、周囲が暗闇に包まれる。中央に置かれた機械が小さく振動音を鳴らし始める。そして、機械に空いた複数の穴から光の柱が天井に向かって放たれ、真っ黒な天井全体に映像が映し出される。
「『夜空』は『夕焼け空』と同じ二十五年前、西アジアの石油王によって落札されました。『夜空』のオークションには世界各国の名だたる大富豪が参加し、その模様は全国でオンライン中継がなされるほどの注目を集めました。そして、当初の予想をはるかに超えた値上げ競争を経て、空の売買の中で、史上最高額で落札されたのです」
先程の展示で見た『夕焼け空』が少しづつ暗くなっていき、やがて天上に投影された空が少しずつ深い藍色に変わっていく。その中からポツリポツリと、小さな光の点が浮かび上がり始める。光の点は少しづつその数を増していき、次第に天井全体が真珠をばらまいたのように瞬き始める。光の一つ一つは恒星と言って、自ら光を放っている星です。葛原さんが解説を続ける。
「この映像は光学式プラネタリウムという3DCGや動画とはまた別の技術を用いて投映されています。この投映方法自体は20世紀から存在していたものなのですが、夜空の個人所有が決まった際、プラネタリウムによる『夜空』の擬似的な鑑賞が法的に認められるかという大論争が起きました。しかし、国際司法裁判所の判決により、歴史あるプラネタリウムによる投映および鑑賞は所有権に抵触しないということが定まり、このようにお客様が『夜空』を合法的に体験することができるようになりました」
どこからともなく澄んだ音楽が流れ始める。懐かしく、どこか切なげなメロディに合わせて、星と星との間に線が結ばれていき、人間や動物の絵がぼんやりと浮かび上がっていく。太古の人々はこのように特別に明るい星と星を線で結び、その特徴から、動物や人、あるいは神話上の生き物を連想していました。まるで耳元で語りかけられているかのような優しい口調で葛原さんがスピーカー越しに語りかけてくる。
「このプラネタリウムという投映技術は『夜空』を見るという目的のためだけに発明されました。空の個人所有が進むずっと以前から、人々はこの『夜空』に心を奪われ、この発明が生まれたのです。数ある空のうちで、『夜空』だけがこのような発明を生み、また他の空よりはるかに高い金額で落札されました。どうして、そこまで人々の気持ちを揺り動かしたのか、それは誰にもわかりません。そう思うと、少しだけ不思議な気持ちになりませんか?」
機械から放たれる光の柱が少しづつ弱まっていく。天井に投映された映像は少しづつ色を失い、そして、真っ暗な天井だけが跡に残される。音楽が止み、静寂が訪れる。私は座席にもたれかかったまま、じっと天井を見つめ続けた。目を閉じると、まぶたの裏に先程見た光の残滓が、ほんのかすかに瞬くのがわかる。目を開けると、照明で部屋は明るくなっており、横を見れば、葛原さんが私の方へとゆっくり近づいてきているのが見えた。私はふと自分の頬に手を当てる。頬をはうっすらと濡れ、涙の跡ができていた。葛原さんが私のそばに立ち、私の濡れた頬をみて少しだけ驚く。
「自分でもよくわかんないんですけど、なんだか感動しちゃって」
少しだけ恥ずかしくなって、弁解する。わかりますよ、その気持ち。葛原さんが穏やかな表情でつぶやく。
「私もたくさんある空の中で、一番『夜空』が好きでした。昔の誰のものでもない空を知っている私は、なんでお金持ちだけがあの綺麗な空を独占してるんだって苛立つ一方で、どんなに高いお金を払ってもいいから、あの綺麗な景色を、自分だけのものにしたいって気持ちが少しだけわかるんです」
叱られちゃうから館長には内緒にしていてくださいねと葛原さんはお茶目に笑った。
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ショップで何枚かのフォトデータを購入し、私は葛原さんと一緒に博物館の外に出る。空を見上げると、そこには私が生まれた時からずっと代わり映えのしない灰色の曇り空が広がっていた。『曇天』という名前この空は、次々と空が個人所有されていく中で、一つでも公共物としての空を残そうと、各国からの寄付金をもとに落札することのできた唯一の空なんです。といっても、寄付金はそんなに多くはありませんでしたから、一番人気がなかったから、この空しか落札することができなかっただけなんですけどね。葛原さんが教えてくれる。
「私は好きですよ。もちろん、この空しか知らないっていうのはあるんですけど」
私の言葉に、葛原さんが空も喜んでると思いますよと答える。空は喜んだりしませんよ、と私。比喩ですよ、と葛原さん。それから私たちは示し合わせたように笑うあう。今にも落ちてきそうな、この灰色の空の下で。
顔を上げ、空を見る。たくさんの空を見て、その綺麗さに感動した後でも、やっぱり自分にとっての空はこの空だけ。また来ますね。私は葛原さんに手を振り、私は歩き出す。
博物館を訪れる前と後で何かが変わったというわけではないけれど、これからは少しだけ、こうやってふと空のことについて考えることが多くなるかもしれない。私は視界の隅に映る空を意識しながら、そう思った。