一話 1945の沈没
帰ってきなさい、それが最後に交わした会話だった。
帰郷を願う母上の祈りは、戦地へ赴く俺に金平糖を認めさせ、叶わなかった。
先立つ無礼をお許しください。俺はお国のため、さしては家を守るために砕け散れただけ本望なのです。
1945年三月下旬、戦地に送られた俺、三枝戦は地獄を見た。
日本の南国にある島。
人を人とも思わない鬼の所業がそこら中で行われていた。
人は生きたまま焼かれ、守るべき住民を殺し、女子供関係なく戦地に立たされ、次から次へと崖から飛び降りる。
海は赤く染まり、撤退する場所など何処にもない。
否、最早逃げるなどあり得ない。ただ死ぬために戦って戦って戦うのだ。
そこには、地位や家も名前も何もない。ただ生きるか死ぬか。それが誇りだ。
せめて道連れにしなければ死んでも死にきれない。
三日三晩弾が飛び交う戦場を伏せて機を待ちつづける。すでにいくらか弾をくらっているが、そんなことでくたばってやるほど柔ではない。野を越え、丘を越え、既に作戦と呼べるような代物はなく、何処かの小隊の生き残りと合流し、ただ敵と出会えば交戦するのみ。
正義は我らにあり。救国のため俺たちは朽ちず砕けず折れないのだ。
奴らを1人殺せば、帝国の日の出も早くなる。
「どうもあの岩陰がおかしい。敵兵の匂いがする。射撃用意だ」
仲間の1人が指差す。僅かに顔を上げ確認すれば確かに違和感がある。何の根拠もないただの直感。研ぎに研ぎ澄ませらた神経は今や常人では感じられない気配にすら過敏に反応してしまう。
中腰でも隠れそうな茂みに入り、九九式狙撃銃を構える。残弾はわずか四発。あとは折れた刀とスコップのみ。
数人の仲間と僅かなアイコンタクトだけで、息を合わせる。完全に気配を遮断しそこにいる敵兵が出てくるその瞬間を待つ。
呼吸をするだけで照準は数ミリずれる。息を吸うことすらできない緊張。
三月だというのに日差しは強く、少し暑い。何日も水を浴びていない俺の体は、汗や土、己の血で自分の鼻が曲がってしまいそうなほどだった。しかし、命を奪ったり奪われたりしているこの戦場では、自分を感じる匂いで生きた心地がする。
土を自分の体に擦り付け、その時を待つ。
頭が出た。
一瞬、相手が息を吐いた瞬間を狙っている俺が見逃すはずがなかった。
撃った弾は見事、敵兵の頭を貫き手応えを得る。完璧だ。殺してやった。残心を忘れることなく息を吐いた瞬間だった。
敵と目線が重なる。これは危険だと、全身に悪寒が走ったときには既に敵側から数えられないほどの発砲音がした。
「うぐあぁああ!!!!」
仲間の1人が被弾したらしく、大声を上げて悶え苦しむ。支援に向かおうかと考えている間に、撃たれた仲間は立ち上がり小銃片手に日本刀を構え駆ける。
「伏せろ! 伏せろ!」
それでは格好の的のようではないか。見た目は早歩きよりも遅い走り。
腹からは血を流しあれはダメだと見るからにわかってしまう。アイツもそう感じたからこそ捨身の特攻を決めたのだろう。
ただの一人で犬死にしてやるものか、という根強い大和魂が伝わってくる。
目立つ的がある以上そっちに注目せざるを得ない。俺は急ぎ位置取りを直し、仲間が散る横でまた一人敵の頭を吹き飛ばす。
敵の射線はめちゃくちゃなのに、数の多さで厚い弾幕となって逃げ場のない必中の攻撃となる。
そこに技などない。ただ敵を蹂躙し殺すための戦術。だが疎かに歩こうものなら、それこそ狙いやすいというもの。我こそは弓の名手、那須与一なり。
また一人、一直線に歩く敵兵の頭に鉛玉を打ち込んだ。その瞬間、敵の弾幕が自分の方へ向いた。
耳のそばで風切り音がいくつも重なり、近くの茂みや木々がどんどん木っ端みじんに砕けていく。
地に顔を押し当て、必死にうずくまり動かないことに力を入れてただ耐え忍ぶ。
目を閉じ、ただ深く集中する。奴らの銃声をその数その場所を一つ一つ数える。
10は少なくない。
不安や恐怖、絶望が全身を蝕むのは己の弱さのせいだ。心まで奴らに負けてなるものか。俺には日の国の神がいらっしゃるのだ。何を女子供のように震えているのだ。軍人の貴様が戦わずして誰を守れる。
天皇陛下万歳、天皇陛下万歳。お国のために、家族のために命燃やし尽くさん。
「ふー、ふー、ふー…」
呼吸を抑えることができなくなり、どんどん荒くなっていく。
敵は近い。もはや距離という利点などない。
弾は二発。
あと二人道連れにしてやれば、俺は死ぬことが許されるのだ。あと二人殺しきるまでは、死んではならんのだ。
銃声が止まった一瞬の静寂。体制を変え茂みの隙間から構えた。
引き金を引いたその瞬間、左肩を誰かに強く突き飛ばされたような衝撃が入りあらぬ方向を撃ってしまう。
「ぐあああ……!!」
左腕に力が入らない。狙撃された。まんまと誘われてしまった。耳や足を掠る程度の弾丸とはわけが違う直撃という痛み。
「今出テクレバ助ケマス!」
唐突に拙い日本語が戦場を飛ぶ。
奴らからの言葉だった。噂で聞いていたが、敵兵が本当に声をかけてくるということを目の当たりにしてしまい面食らってしまった。
「今出テコナケレバ、炎デ焼ク!!」
そんな言葉を信じられるわけがない。敵がのこのこと出てきたら殺すに決まっている。軍人が上官以外の命令に耳を傾けるわけがないだろう。
必死に歯を食いしばりながら、血が出ている場所を強く抑える。
炎で焼くという脅しに屈するわけがない。炎で俺の身を焦がそうものなら、体当たりでもして火を移してやる。体からではない心からの闘志を燃やし左腕のお礼をどうやって返してやろうかと思案始めたその時。
「降伏シナサイ! 日本ノ負ケ!」
……は?
何だ……?
今何と言ったのだ……?
降伏、負けと言ったのか…?
ふざけるな。
「…ふざけるなあああ!! 日本軍人に降伏などありえるか!! 貴様ら絶対に許すまじ!! 皆殺しにしてやる!」
日本人の気高き誇りや尊い生き様を馬鹿にしている。
「日本に負けはない!!」
激高した俺は九九式狙撃銃を右腕だけで構え、真っすぐ向かない銃口を全身を使って固定する。
「この鬼畜共がああ!!」
撃った先は明後日の方向。もう弾はない。
俺の怒声と銃声に一瞬身を縮こませた敵兵も銃を構え直し発砲する。
銃を持っていた右腕に強い衝撃が走り、思わず手から銃を取り落としてしまう。しまったと思いつつ、弾のない銃など必要ないと考え直し、必死に構える。
「がああああ!!」
全身に被弾し、身動きとるだけでも激痛が走ろうとも、腰の軍刀を引き抜き奴らをにらみ吼える。
鼓動が攻撃的に内側から打ち付けてくる。
今俺の命はすべてを燃やし尽くすだろう。軋む体、止まらない血流、荒い息、跳ねる鼓動、正常な体はどこにもない。だが、心だけは何よりも熱く輝いていた。
「剣ヲ下ロセ! 攻撃シナイ!!」
「黙れええええ!!」
真剣が重い。子供の頃思ったことを、つい今思い出した。
「ふ…」
どうやら、走馬灯でも見てるらしい。敵が前にいるというのに俺はなんて呑気なのだ。死にながら敵に向かう俺自身の、日本軍人の誇り高き姿に思わず笑みがこぼれてしまう。
また発砲音。足に力が入らなくり手で防ぐことなく頭から地面に倒れてしまう。
それでも、俺は顎と首の力だけで前へ前へ進もうとする。
敵兵は制圧したのかと勘違いし、ノコノコと近寄っては、今だ動く瀕死の俺を見て抑え込んでくる。余裕をかましている敵のその手に俺は牙を立て噛み千切る。
「日本軍人を止められると思ったか!! 体が動かずとも、心に刃を足し、貴様らを必死の道連れにしてやる!!」
怒号のような呪詛を吐き散らす。誉高き軍人として、最後の最後まで我が国の為に戦う。
取り囲む全員を鋭い眼光だけで殺してやりたい。その首元に噛み付いて静脈を引きちぎってやりたい。手榴弾さえあれば一網打尽の特攻ができたのになんて悔やまれるのか。
しかし、俺の闘志とは関係なく、終わりは呆気ない。
自分でも気が付かないうちに目を瞑り、暗闇の中、俺の意識はそこで途切れた。
「……ここは」
うっすらと意識が覚醒していく。痛みはないが、体を動かせる力がない。仰向けに寝かされており、すぐ隣には敵兵の軍服が見えた。
「なっ!?」
敵兵だと!? ここはどこだ!?
「動カナイ!」
飛び起きかけた俺は右肩左肩の激痛でひるむが、腹筋だけで体を起こそうとした。しかし、細い白い腕が伸びてきて、いとも容易く力負けし寝かせつけられた。
腕の先をたどって顔を見れば、異国の女。ぶろんどの髪に、日本人にはない色白で高い鼻。そして、瑠璃玉よりも綺麗な青い瞳が俺を見ていた。
「ココ病院。アナタ怪我。ワカル?」
「……捕虜か」
自分の現状に少しずつ理解が追い付いてくる。
俺はどうやら負けて捕まってしまったようだ。すまない皆。敵に落ちるとは何たる無様を晒してしまったのか。
自分の怪我はどうなってるのかよくわからないが、両腕は動かせる気はしない。少しずつ意識がはっきりしてくるとともに痛みが腹の底から体を蝕み始める。
痛みに喘ぐと、その女は注射針を取り出し(恐らくモルヒネだろう)俺に打つ。もはや、抵抗する気力など失せた。
痛みが和らげばまた眠気が襲ってきて、俺は目を閉じる。
息ができない苦しさで俺は目を覚ます。のどに何かが詰まっており正常に呼吸ができないようだった。
苦しさで、もがこうとするが身動きできない。両手両足を紐か何かで縛られているようだ。
うめき声も獣のうなり声のようなものしか出ず、どうしようもできない。
苦しくて目が回り始めたとき、体を横にされ背中を叩かれた。
「げほっ…」
口から出てきたのは大量の血だった。どうやら込みあがってきたものが詰まったらしい。
体制を元に戻され、口元に手をかざされる。
「キツイダッタ?」
夢半ばで見たブロンドの女の顔を見て、その問いかけにうなずいた。
「あなたは…」
従軍看護婦だろうか。ところどころ血で黒く汚れてはいるが、元の服は白いもののようだ。
非戦闘員のことは一応は学んでいるが、捕虜にされたとはいえ敵に介護されるとは夢にも思っておらず居心地が非常に悪くなる。
「アリス」
「え?」
彼女は俺の体を触診しながらそう呟く。
「私ノ名ハ、アリス」
「……アリス」
「ハイ」
「そうか……」
ありがとうございます。
その言葉が口に出たか、思っただけかはよくわからない。
よくよく考えれば、敵にかける言葉でもないような気がする。でも、自然と浮かんできた感謝の意を表したかった。言えたのかどうだったのか。また今度でもいいだろう。
体が痛みから逃げるように意識が消える。
どうやら俺は生きているが、状態はかなり悪いらしい。
言葉がよくわからなかったが、おそらく5発体に撃ち込まれていた。
そのうち一発が内臓に傷をつけているようで、絶対に安静を言い渡されている。
アリスという看護婦は非常に真面目で、ことあるごとに俺の世話をしてくれた。ブロンドヘアーを三つ編みにしておりどうにも幼く感じてしまうが、18の俺よりも年上らしい。
目が覚めれば必ずアリスの顔を見る。彼女が働きっぱなしなのか、それとも俺の眠りが不規則なのかよくわからない。
ただ、アリスの献身的な支えは、体に力が戻らなくても、戦場で修羅にまで落ちた俺の心を徐々に解かしていってくれるようだった。
またうっすらと覚醒する。どうやら朝方のようだ。
夢半ばでどこかから慌ただしいような大きな話し声が聞こえてきた。異国の言葉だからわかるわけもなく朝からなんだと耳障りに思っていると、無視できない単語が届いてきた。
大和。
沈んだ。
「嘘だ…」
大和とは戦艦大和のことか?
あの大和が沈んだのか?
呉で一度見かけた大和。あの船はこの大日本帝国そのものだとおもった。その巨大さ、荘厳さに言葉が何も出てこなかった。ただ、これは生き神がいらっしゃるこの国だからできた神秘なのだと。そう確信させられる力強さをこれでもかと脳に焼き付けられた。
大和があるから自信があった。あんな素晴らしい兵器があるのだから俺たちは負けるはずがないと。
大和は絶対に沈まない、日本国そのものだから。
大和が沈めば日本も沈むのだから。
「その大和が沈んだ……」
急激に熱が引いていく感覚があった。何も日本が負けるとは思ってはいない。それでも、とてつもない衝撃を感じただけ。
自分を突き動かす原動力のようなものが急に止まってしまったようだった。
涙がこみ上げ悔しいと思うのはきっと、大和に乗っていった仲間を思っただけだ。
きっと名誉ある最後だったのだろう。
それでも、日本は進む。
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大ほ君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ
「そうか…そうか…」
もう体に力はなかった。
咳き込むたびに血が零れる。
こんな死人をよく敵国は看護しようと思ったな。
「私ガ助ケタイ。死ヌノ悲シイ」
この女はどうやら自分の独断で俺を救っているという。敵兵にどうしてそんなに優しくできるのかわからない。俺は君の仲間を殺しているのに。
「人ヲ救ウシカ出来ナイ。敵モ味方モ助ケル」
自分にしかできないことをやる。それはまるで一人の戦士の境地のようだ。
俺も戦うことでしか、国を守れないと思っている。
自分にしかできないことをみんなやっているのだ。ただ彼女は他の人よりも慈しみという才能があっただけ。たったそれだけの心の持ちようで、人一倍美しいものに感じられる。
なんて強いんだろうか。その姿はなんて気高いのだろうか。
神々しさすら覚える。
きっと彼女は素晴らしい人なのだ。俺は最後にアリスに出会えて良かった。
敵や味方など関係なく、一人の人間として称賛を与えたい。
「……アリス」
「ナニ?」
俺は自分の胸ポケットに手を伸ばすが、痛みで届かない。
意図を察してくれたアリスは、俺の服を触る。
「金平糖……すいーつ」
「コンペイトウ?」
「どうか…もらってくれ、げほっ、ごほっ」
「食ベタイ?」
アリスは勘違いしたらしく、小瓶の蓋を開けて中から一つまみし俺の口に当てる。
口を閉ざし顔を横に向けそれを拒む。
「……違う、アリスに……贈りたい」
「?」
よくわからないというような顔をしながらアリスは金平糖を咥えた。
よかった。伝わったようだ。うすぼんやりとした視界では女がどんな表情をしているのかは見えないが、うちの金平糖だ。造形も見事だし、全て砂糖でできた甘味なんだ。俺も一粒食べたときは、あまりの甘さに思わず表情が綻んでしまったほど美味しい。これを食べて喜ばない女はいなかろう。
落ち着いているところを急に頭を両手で抑えられた。
アリスと唇が重なり、ゆっくりと口の中に甘い塊が流れてくる。
それは、あなたのだからと言いたい。
「嬉シイ?」
アリスは口周りを舐め聞いてくる。
「ああ……」
アリスは俺の胸ポケットに金平糖を戻す。
口に広がる優しい味を最後に感じながら俺はゆっくりと目を閉じる。
ありがとうございます。
母上様
私は栄ある御国の盾となり征きます。
母上の最後の言いつけを守れない親不孝者をお許しください。
瓶に詰められた金平糖が減るたび、段々と母上の顔やその教えを思い出しておりました。
お母さん。お母さんは優しい人なので私のことで泣いたり悲しんだりするかもしれません。でも私はお母さんの思い出があるからいつでも平気でした。本当ですよ。怖くなんかありません。
お父さん、お父さんも男なので多くは語りません。男としての務めを果たして参ります。
私の名である戦にて、この命を使い切ることが私の運命であり大義であると信じております。
栄ある御国の為、一番好きな人達の為に万分の一でも、受けた恵みに報いることが最上の喜び。
今日までの慈愛を心から感謝致します。
桜子様
沢山の手紙を有難う御座居ます。
いつしか、交わした言葉より文字のほうが多くなり、あなたの心へより深く触れることができました。
あなたが見ている景色を知るほど、遠くにいるのだと気づかされます。
後ろ髪を引いてはならないと分かってはいるが、今更思い出してやりたいことが湧いてくる。
・読みたい本
・見たい映画 最近流行りの映画を見たい。
・桜子 会いたい、話したい、無性に。
あなたが生きてくれる事が希望の光。
何よりも体を大事にしてください。
戦
三枝 戦という男は、深い眠りとともに安らかに沈んでいった。
享年18才だった。