下剋上再び
北原の城の庭には、いろいろな種類の花の木が一本ずつ植えられている。大きさもまちまちだし、庭の趣から言えば、あまり美しい植え方ではない。それと言うのもその木は、前藩主北原月影公が息子達の元服の折りに、それぞれの好きな花の木を植えさせたからであった。椿、梅牡丹、紫陽花、現城主政平の藤、そして今は鷹月の植えた桜が広間からの景色を楽しませてくれていた。
「鷹月様がここを飛び出されてから、はや一年も経ったのでございますな」
下座にいた家老の中村が、政平に言った。肘掛けに半身を預けて桜に見入っていた政平は、かすかに頷いた。
「あいつめ、人に心配をかけぬと言って、手紙一つもよこさぬ。桂介が何度か鷹月と凛殿の安否を報告して来なかったら、すぐに連れ戻しに行っているものを」
「便りなき事は元気でいる証拠。あの鷹月様が手紙を寄こした方がよっぽど一大事でございましょう」
その通りだと言うように、政平が笑う。中村も笑っていたが、そろそろ本題とばかりに真面目な表情を作ると政平に向き直った。
「・・・例の抜け荷の話か?」
「はっ」
政平は肘掛けから体を起こすと、深刻な溜め息をついた。
「こちらは三年経ってしまったぞ。手掛かりの一つもないとは・・・。本当に何も分からぬのか?」
「はっ、奉行が申すには確かに認められていない砂糖や人参、その他にもいろいろ見つかってはいるですが何せ量はごく少なく、出回る先は職人達の手からばかりで。職人達はいろいろな所から仕入れをしますので、それを何処で手に入れたのか誰も覚えていないそうなのです」
店を片っ端から手入れをしても、それほどの度胸のある奴が、そうやすやすと見つかるような真似はしないだろう。
「公儀の者がこれに気がついたら、われらが抜け荷を見て見ぬふりをしていると思うだろう。早くなんとかせねばな・・・」
「その事で・・・実は一つ」
政平の視点が中村に定まった。中村が身を乗り出す。政平もゆっくりと身を乗り出した。
「若様ぁ・・・、ねえ若様のお兄ちゃん?」
四月の始めに入ったと言うのにまだ寒さが身に凍みた何日かぶりの小春日和に、鷹月は縁側で仰向けに寝ころんで、澄み切った空を眺めていた。眺めながら、頭の中は自然と兄の事や母の事、家臣の事を考えていた。北原の城主である兄から許しをもらって月日はいくら過ぎたか。初めの頃は頻繁に来ていた家老の中村も、最近ではまったく姿を現さなくなった。城の状況は町の噂を聞くばかりで、鷹月はやっと城の事を縁遠く感じるようになっていたのだった。懐かしく思い出していた最中に、ふいにそう呼ばれて鷹月は飛び上がりそうな勢いで身を起こすと、その声の方を見た。庭先から小さな男の子が、にっと笑って鷹月を見上げている。それは元太と言う四才の子供で、桂介の手習い小屋に来ているのだ。ここは桂介が仕事場にしている、寺の離れなのである。
「な、何だその『若様のおにいちゃん』って・・・」
小さな体に視線を合わそうと、鷹月はごろりと体の向きだけ変えて、元太に尋ねた。元太はそのくったくのない笑顔のまま、大きな声でそれに答えた。
「だって、桂介先生がいつもお兄ちゃんの事をそうやって呼んでるもん」
鷹月はしばらく考えて、そうか・・と納得した。鷹月は桂介の事を名前で呼んでいるが、桂介は鷹月を若様としか呼んでいない。ずっとそうだったから疑問も持たなかったが、まだ若様と言うのが何か分からない子供にしてみれば、それが名前だと思っても仕方がないはずである。
「『若様』って言うのはな、みんなが先生の事を先生と呼ぶ事と、オレの事をお兄ちゃんと呼ぶ事と一緒なんだよ。オレの名前は若様じゃないんだぜ」
ふーんという納得の声を洩らして、もう一度笑う。
「じゃ、お兄ちゃんの本当の名前は?」
「本当の名前か・・・。オレの名前は鷹月って言うんだタカツキだ」
「鷹月?」
無邪気に繰り返す元太に、今度は鷹月が笑顔を向けたところがそこで鷹月はふとある事に気がついた。自分のいる縁側の右向かいが勉強部屋だったが、その部屋の障子は閉まったままで、終わった様子はない。
「おい元太。お前またさぼってるんだな」
ヘヘーッと舌を出して上目づかいで見ている。鷹月は笑顔のままでその首を捕まえると、体を小脇に抱えて勉強部屋の障子をガラリと開けた。中では桂介の回りに、字を書いた紙を手にした子供達が見てもらう順番を待っていた。総髪に髷、紬の着物の着流し姿の桂介は、一枚一枚の字を丁寧に直して教えていた。
「おや若様・・・。元太、お前はまたさぼってたのか」
子供たちがワイワイ言っている中で、桂介は声を張り上げてそう言った。どうやら元太のさぼりはいつもの事らしい。大きな声ではあるが、それは呆れたような響きを持っていた。鷹月は苦笑いをすると、元太を置いて元の縁側の方へ出た。
縁側より向こうは、子供がそれなりに遊べるだけの庭があり、垣根の向こうは往来の道になっていた。鷹月は縁側を歩きながら、目の端に何かを見た気がして、少し足を戻した。庭の木戸門が開いており、その向こうから町人風情の若い男が、しきりと中の様子を見ている。総髪であるが髷は結っていない。クセっ毛の前髪があり、伸びた髪は後ろで一束に縛ってある。歳の頃は二十二、三あたりだろうか。すっきりした顔立ちではあるが、童顔なので本当の所はいくつなのか、想像出来なかった。
「悪い奴には見えないな-----」
そう判断した鷹月は、男の事は放っておく事にした。足はそのまま真っ直ぐ縁側の進んで、台所の方へ入って行く。実は歩いている間も、いいにおいがしていたのだ。
「あ-っ、鷹月いい所に来たわ。ねえこれ運ぶの手伝ってよ」
戸口に入った途端、大きな鍋を引きずるようにして出てくる凛の姿を見た。凛は助かったと言うような表情である。黄色の小花模様を散らした着物にたすきを掛けて先程まで頭に被っていたらしい手拭いが、肩に掛かっていた。さっきから美味そうな甘いにおいをしている鍋である。鷹月はひょいと持ち上げると、お椀を盆にのせている凛を振り返った。
「おい、これ何処に持って行くんだ?」
「勉強部屋でいいんじゃない。そろそろ終わり頃でしょう」
来た廊下を戻りながら、鷹月はふと戸口の方を見た。しかし先程の男の姿はもうなかった。
「なぁ、オレ達も食べていいの?」
「いいわよ、鍋いっぱい作ったんだから」
任せなさいという言うような笑顔を作ると、鷹月の前に回って障子を開ける。
「みんなおまたせー。今日はぜんざいよー」
聞きごこちのいい明るい声が響くと、桂介を囲んでいた子供達が一斉に凛を方にやって来た。桂介の方も丁度終わった所で、凛の姿を見るとホッと顔をほころばせた。凛が来てから、勉強後には毎回おやつの時間が出来た。勉強の時間は桂介がいっさいの面倒を見るが、これからは凛が子供たちの面倒を見る。近頃では桂介も凛の声を聞くと、一日が終わった様な気になっていた。
「おねえちゃん、沢山ちょーだいね、沢山ね」
「分かってるって、お代わりもあるわよ」
子供と一緒の笑顔になっている凛を見ながら、桂介も微笑ましく笑った。
「凛さんってお姫様なのに、ずいぶんと家庭的なんですよね」
「しばらく育ってたのが町だって言うんだ。城へ上がる事も考えていなかったんなら、みっちり花嫁修行させられていたんだろ」
ぜんざいの餅をはふはふ言いながら食べる鷹月に、桂介は溜め息混じりに言う。
「明るくって、やさしくって、料理がうまくて、美人ときてる。若様、しっかりしてないと婚儀の前に誰かに取られるかもしれませんよ」
まさかぁ、と鷹月はそんな事考えた事もないと言うように笑ってから、ふと真面目な顔をした。
「んー、でもあいつ、城の生活なんてこりごりだとか言ってたよな。今のうちに町方で好きな奴でも見つけたら駆け落ちするのかもなー」
「するのかもなーって・・・。凛さんは将来の北原の奥方様なんですよ。のんきな事言ってて---」
「でもオレ、凛の事どうしても女とか見れないもん」
今度は呆れたような溜め息をつく桂介。
「知りませんよ。凛さんぐらいのお姫様なんてそうそういないんですからね-----」
その言葉に何か意見しようと、体の向き事桂介を見た時。
「あれ・・・?あの男は」
今度は表の玄関に、先程木戸門にいた男が立っていたさっきと同じように、しきりと中を覗いている。
「何か用でもあるのでしょうか」
そう桂介が呟いている間に鷹月は大きな声で呼び掛けた。
「おい、何か用か?」
男は一瞬ビクッと肩を震わすと、あたふたと手を動かし始めた。
「いや、あの、その----」
凛も気がついて、不思議そうにその男を見ている。するとぜんざいで口の周りを汚したままの元太が、その男に駆け寄った。
「にいちゃんだー」
紙を手に凛が元太の側に来た。その口を拭いてあげながら、元太に聞く。
「元太のお兄さんなの?」
元太はこくりと頷いた。
「伊助の兄ちゃん。かんざし作ってるんだよ」
凛が頷いて、伊助を見上げると、伊助は俯き加減になってもじもじしていた。何か言い出すかと鷹月と桂介も見つめたままでいる。
「あのっ!」
決心したように大声で言うと、懐に手を入れて藍染の布に包んだ物を握って、凛に差し出した。
「これ受け取ってくだせえ!」
圧倒されて言われるままに凛がそれを受け取ると、伊助は元太の手を掴み、一目散に帰って行った。
しばらくの間、鷹月も桂介も凛も、黙ったままその背中を見送っている。
「なんだ?」
「さぁ・・・」
夕刻になって子供たちが帰った後。桂介は勉強部屋を片づけ、鷹月は庭の遊び道具を片づけ、凛はお椀や鍋などを片づけていた。最初に仕事を終えた鷹月が、勉強部屋の真ん中にどかりと座り込んだ。
「あーあ、元太の奴勉強道具全部置いてったよ」
片腕を机の上に伸ばして、元太の荷物をまとめていると、ちょうど凛と桂介も終わった所だった。二人は元太の荷物のある机を囲むようにして座った。
「ところで凛さん。さっき渡された物は何だったんですか?」
「そうだったわ。何かしら・・・」
「蛇のひものだったりしてなー」
「そんな事するのは、鷹月ぐらいよ」
凛は帯の間から先程の布を取り出した。くるくると解く間、男二人も興味深々で覗き込む。
「あらぁ・・・」
「へえ・・・・」
三人は同時に溜め息を洩らした。中から出てきた物は夕日を受けて流れるような光りを放った後、白い輝きをあらわにした。それは見事な彫り物を施した、銀細工のかんざしであった。
「綺麗・・・綺麗だわ。こんな綺麗なかんざし、今まで見たことないわ」
銀を平たく打って、その中を透かし彫りにする技法のかんざしで、それを平打ちと言う。凛は溜め息まじりでかんざしを見つめていた。鷹月と桂介も、感心したように唸る。
「すばらしいですね。これだけの手間の掛かった細工は一日や二日じゃできませんよ」
「父上が母上の為に作らせた物なんかより、ずっと立派だぜ」
何も反応しないのに不思議に思って、鷹月と桂介は凛を見ると、凛は目に一杯涙を潤ましていた。
「お、おい。何も泣く事ないだろ!」
「だってぇ、こんな・・・こんな綺麗なかんざし見たことないし。こんなの男の人からもらった事なかったんだもん!」
わめくように言って、かんざしを胸に抱いた。目はどこか遠くの方を見ている。あーあ、と溜め息をついて顔を見合わせた鷹月と桂介だった。
「おっ、そうだ。元太の道具を持ってってやらなきゃなぁ」
鷹月が手を伸ばすと、横からさっと凛が奪った。
「私が持ってく!伊助さんにお礼も言わなきゃいけないもの」
と言うなり、嬉しそうに下駄を引っ掛けて、出ていったしまった。行動はいつも早い凛であるが、今回はすべてが何倍も早くなって行動していた。しばし唖然として見送る二人。
「若様、いいんですか?・・・もしかしたら、凛さん・・・・」
「うん----。ま、兄上が勝手に決めた嫁だからな。別に凛が他の人の所へ行ったって、何も言えないよ」
鷹月は本心なのか嘘なのか分からない笑い方をした。桂介はそんな鷹月を見て、もう一度凛の出て行った方を見て、大きく溜め息をついた。
伊助の長屋は、寺子屋よりさらに海側の寺院のそばにあった。部屋の大きさは八畳一間で、後ろの三畳ほどを屏風で仕切って、仕事場にしている。家族は伊助と元太の二人だけなので、それでも随分広く感じられていた。伊助はにやにや笑っていたが、机の上に並べてある出来上がったかんざしを一つ一つ丁寧に箱へしまう作業は止めなかった。そのどれも、細工は見事な物であるが、凛にやった物に比べると、質が悪い。
「にいちゃん、凛のおねえちゃんの事好きなんだね」
囲炉裏の火の番をしていた元太がでかい声で言った。渡すのがうまく行った伊助は上機嫌である。
「ま、まぁな」
照れたような笑い顔で答える。伊助が凛を初めて見たのは、小間物屋だった。いつも作ったかんざしを置かせてもらっている店に寄った時に凛はいた。身なりは普通の町娘であるが、その身のこなしと話方にはどことなく品がある。それに整った目鼻立ちは垢抜けした美しさがあったのも覚えている。いろいろな家に出入りしている伊助は凛が武家の出であるとすぐに分かった。小綺麗に結われた髪には、控え目な櫛とかんざしが一本差してあるだけだ。その時凛はずっと店の女将さんと話していたが、一瞬だけ伊助の方を見て、笑顔で会釈した。その顔を見た伊助は、凛の髪に映える一本のかんざしの姿が浮かび上がったのだ。それから凛の姿が忘れられなくなったと言う訳である。その後、いろいろ聞き回って、凛がはずれの寺の手習い場にいると分かり、急いで元太を連れて行ったのである。
「でも、凛のおねえちゃん、先生か若様のおにいちゃんの事好きなんじゃないかと思うよ」
「このやろう、ガキのクセにいっちょ前の事言うんじゃねえよ」
伊助だって初めて見た時から気がついていた。それに凛は武家の娘である。身分制度の厳しいこの御時世で、何とかできるとは思っていない。
「いいか元太、今からちょっとお客の所回って来るからよ。おとなしく待ってるんだぞ」
元太は無邪気な笑顔でコクリと頷いた。元太の頭を乱暴に撫で回して、戸を勢い良く開けた。
「きゃっ!」
「おっととと」
飛び出そうとした伊助の目の前に凛が飛び込んで来た。とっさに両手で受け止める。
「大丈夫ですかい?------り・・・り・り・り・り・凛さん!」
凛だと気がついた伊助は、火が着いたように真っ赤になってしまった。そこで凛もニッコリと笑った。
囲炉裏の横で寝ていた鷹月は、ガタガタ音を出している戸を面倒臭そうに見た。風が強いと言う訳ではなさそうだ。しかし障子には人影が映っていない。
「誰だ?」
声が却って来ないのに警戒しながら、鷹月は用心深く戸に近づき開けた。
「元太!?」
目の前には誰もいないので、視線を足下に移すと、いっぱいに見上げた元太が立っていた。
「どうした元太。もうすぐ日暮れ時だ、あの職人の兄さんが心配するぞ」
いつもならニカッと元気よく笑う元太が、そのまま下を向いてしまった。鷹月も心配になってしゃがみ込み覗いた。
「どうしたんだ?」
「・・・兄ちゃんが・・・」
「職人の兄ちゃんがどうした?」
元太は鷹月の前にゆっくりと拳にした手を差し出して目の前で開いた。その小さな手から出てきたのは、つぶれた塊になった二つの銀だった。鷹月はその二つの銀を手に取って、明るい方へ持っていった。二つ共銀である事は変わりはない。片方はよく目にする銀色の物、もう一つは白い光りの放っている凛が貰ったかんざしと同じ銀である。こうして比べて見るだけでも、優劣がはっきりしている。そこでふとある疑問が沸いてきた。この白い銀は鷹月でもあまり見慣れた物ではない。とすると、町の一介の職人がどうやってこんな銀を手に入れる事が出来たのか。元太を見ると、元太も不安そうな表情をしている。詳細は分からないながらも伊助が何かよくない事をしているらしい、と気がついているのだ。鷹月が何か聞こうと口を開きかけた時、元太は長屋の出口に向かって走り出した。
「お、おい元太!」
今家は鷹月一人だ。凛は元太の家に出掛けたまま、まだ帰って来ていないし、桂介も夕飯を買ってから帰ってくる。鷹月も凛も出掛ける時は、行き先を言って行くように桂介に言われているのだ。しかし、元太はさっさと行ってしまう。迷っていた鷹月だが、もう一度手の中の二つの銀の玉を見て決めた。やはり不安を感じる。鷹月は部屋の隅に置いておいた刀を掴むと、急いで元太の後を追った。
「元太、おい元太!」
元太を見つけたのは、長屋から真っ直ぐと進んだ海岸に建てられた漁師の小屋の中だった。
「元太?」
元太はその壊れかけた棚に積まれた木を見ていた。鷹月が声をかけると、元太は一度振り返ったが、また木に目を戻した。
「お前、兄貴が何か良くない事に手を出しているって思ってるんだな?」
元太は俯いたままだった。鷹月はその横に寄って、その木の一つを持ち上げた。薪にするような長さの丸太だしかし、木はこんなに軽い物だったか?鷹月は脇差しを抜くと、その木の真ん中ち突き立てたそれほど力をいれていないのに、真ん中がばらばらと崩れ、空洞となっていた。良く見ると底に小さな穴がある多分ここから入っていた物を出したのだろう。砂金か砂糖か、阿片か・・・。鷹月はまだ自分が城にいる頃に家臣から聞いた抜け荷の話を思い出した。あれはまだ解決していなかったはずだ。
「元太お前-------」
外に人の気配を感じて、鷹月は声を止めた。元太が入口に寄って行くのを慌てて抑えた。緊張しながら隙間から覗く。見た途端気が抜けたと同時に、別の意味でびっくりした。
「凛じゃないか・・・」
砂浜を凛と伊助が歩いて来た。何か楽しそうに話しているので、ここに人がいる事には気がついていないようだ。
「伊助兄ちゃんだ。お兄----」
「楽しそうに話してるんじゃないか。大声だすな」
伊助は真っ赤になりながらも大笑いをしている。凛もたたみ掛けるように明るく話していた。
「それでね、お団子おごってもらって、行くところがなかったから、桂介と鷹月の家にやっかいになってるって訳」
「そうだったんですかい。いや、オレはまたあの二人のどちらかが許嫁とか・・かな、とも思っちまって」
確かに伊助の判断は間違っていない。しかしこれは凛も分かってない事である。
「もし許嫁だったら、どっちのだと思う?」
「そりゃもちろん桂介先生ですよ。もう一人の方はいけねえ、働くという姿勢が感じられねえ。だいたい皆さんが働いている時に、縁側で寝てるような奴はろくな奴じゃないですよ」
「そうね・・・でも鷹月、剣の腕は凄いのよ」
よく分からないが、凛さんがそう言うんなら凄いんだろう、と伊助は思うと同意して笑顔を作った。凛もつられて笑った。しかし気がついたように懐からかんざしを取り出すと、ちょっと沈んだ声で言った。
「かんざし、ありがとう。すごくキレイだから、つけるのが勿体なくって」
「何言ってるんですか、綺麗な物は綺麗な人が使ってこそ、その物が輝くってもんです。さして差し上げましょう」
伊助はにっこり笑うと、自分の作ったかんざしを手に取り、凛の髪の間にさした。
「おい元太ぁ。お兄ちゃんと凛お姉ちゃん、いい雰囲気だな」
鷹月は腕に抱えていた元太に小声で言った。こくりと頷くのが、両腕に伝わる。
凛はちょっと照れたようにお礼を言ったが、やっぱり何か引っ掛かるらしく、俯いてしまった。
「でもね、うれしいんだけど。これ、貰う訳にはいかないのよ」
伊助がその答えに何と答えていいか迷っていると、凛はその先を続けた。
「私ね、実はこの町にはお嫁に来たの。事情があって今は家出中なんだけどね」
落胆するかと思ったら、伊助は顔を真っ赤にして怒りだした。
「どこのどいつです!こんないい人を、そんなに追い込んで!オレそいつの所に行って、ぼこぼこにして、腕をへし折って---」
伊助の中でどういう想像が出来ているのか知らないが穏やかならぬ態度に、凛もびっくりした。
「え、ち、違うのよ。別に私は---」
小屋の中で見ていた鷹月は、周囲に異様な殺気を感じた。その途端、伊助と凛を囲むように十数人の人相の悪い男達が飛び出してきた。伊助は凛を背中に庇ってその中の一人を睨み付けた。睨まれた男が、一歩二人に近づく。
「伊助、やってくれたな」
「何の事でい!」
男はまた一歩近づいて、凛の方へ手を伸ばした。
「せっかくだがお嬢さん、そのかんざしこっちに渡してもらいましょうか」
凛も気が強いから、そう言われると絶対渡すものかと言う気になる。凛が渡す気がないと分かると、男は急に睨みを効かした。
「仕方がねえ。おい、力づくでも構わねえ!」
一斉に匕首を抜いて、二人に向けた。さすがに凛も伊助も逃げるように後ずさった。しかしその後ろはもう水の中だ、着物の裾が水を含んだら思うように動けなくなる。奴らもそれを分かっているのか、どんどん海の方へ追い詰めて来た。
「なんなんだ・・・」
突然の出来事に、小屋の中で呆気に取られていた鷹月は、元太を押さえつけていた手を放してしまった。するりと抜けた元太は一直線に伊助の方へ走って行く。
「ば、ばかっ!」
こうなったら思索を練る暇はない。鷹月は元太に続いて小屋を飛び出して行った。
「きゃっ!」
凛が短く叫んで、伊助の背中にしがみついた。匕首を振り回す男から辛ろうじて避けていた伊助だったが、波に足を取られそうになって、気がつくと刃物が目の前に迫っていた。
「兄ちゃん!」
元太の声がした気がして目を開けると、目の前の男は苦痛の声を上げてのけ反っていた。同時に元太が伊助の体に飛びついた。
「おい、さっさと逃げろ!」
抑えつけているのは鷹月だった。凛は声を出そうとしたが、すぐ次の男の匕首を叩き落とす姿の見て、すぐに気持ちを入れ変えた。
「伊助さん、逃げるわよ」
「えっ・・・」
今度は逆に凛が伊助を支えた。鷹月が自分達の前からヤクザ者達を食い止めてくれてる間に早く逃げないと。凛は伊助を追い立てて、家の方へ走った。振り向きはしなかったが、擦れ違った時に鷹月と目が合う。
『すぐに桂介の所へ行け』
そう言っていた。凛が伊助を連れて逃げるのを見届けると、鷹月はホッとして気を抜いた。所詮ヤクザ者は鷹月の手に余る者ではなかった。ただ数が多かったので、無事に凛達を逃がす為に気を張っていたのだ。しかし気になる事が一つある・・・。鷹月はそう思いながらゆっくりと刀の柄に手をかけたどっちにしろ、奴らを捕まえて聞けば分かるだろう。刀の鞘に指を掛け、その研ぎ澄まされた刃がちらりと姿を見せた時。
「刀を置け!これが見えねぇか!」
あの男が後ろからそう怒鳴った。それを見て鷹月はまた力が抜けた。その男の脇に抱えられていたのは元太だったのだ。
「お前・・・なんでいるんだよぉ」
とっくに凛達と逃げたものと思っていたのに。なぜ元太が捕まっているのか、考えても分からなかった。鷹月は深く溜め息をつくと、刀を鞘に戻した。そして二本を腰から抜くと、投げ捨てるように砂の上に置いた。それからの鷹月の運命は散々なものだったが、気が遠のくまで考えていたのは、きっと桂介と凛がなんとかやってくれるだろう・・・と言う事だった。
北原の城の西側には、昔からの家臣達の屋敷が立ち並んでいた。大きな屋敷が何軒かある中に、もちろん栗原家の屋敷もある。主のはずの桂介は外に出たまま帰らないのだが、一応無役の藩士と言う事で、家名は残っているのだ。これも北原との長い信頼関係があってこその計らいである。それと言うのも、この栗原の屋敷の隣にある比較的新しい屋敷。実は北原の別荘と言うべき屋敷なのである。当初は隠居の住居場所として造られたが、隠居がいない今は、政平やその兄弟、奥の者達が息抜きをする時に使っていた。
「それで桂介、この者は?」
縁側に座って渋い顔をして桂介にそう聞いたのは、着流し姿の政平であった。
「はい、飾り職人の伊助です。例の抜け荷の物と思われる白銀のかんざしを持っております」
同じ縁側の上に座っている凛が、紙に乗せたかんざしを差し出した。政平はそれを受け取ると、光りにかざしたりじっくり眺めたりして頷いた。
「確かに前に上げられた銀の置物と同じ物だ。その方これをどこで手に入れたのだ?」
庭で両膝を付いて控えていた伊助は、目の前のお武家様が何者なのか把握出来ずにいた。そろりと目を上げて桂介に聞く。
「あのー、こちらのお方はいったい・・・」
桂介はちょっと笑うと凛の方を見た。凛も同じように誰?と言う顔をしている。
「お役人・・・ですかい?」
「御目付様?」
「若様の兄上様ですよ」
「・・・えーっ!!」
身分も忘れて、伊助も凛も大きく叫んだ。二人の大きく開いた口から『あれの!』とか『これが?」
とか言う声を聞いてる気がして、桂介は苦笑いをした。
「鷹月は確かに私の弟だ。しかしこの家の家名を継ぐのは鷹月なのだ。鷹月は必ず戻っていると言う約束で屋敷を出たのだ。それがどこぞの輩に捕まったとあっては、鷹月に代わって家を守る者として、何としてでも真意を探るしかあるまい」
おだやかに言うので、伊助はその言葉の意味を理解出来ずに取り合えず相槌を打った。凛は少し考えるとずばりと政平に聞く。
「それって鷹月を救う為には、手段を選ばないって事ですか?」
「そう言う事かな。のう桂介」
桂介は厳しい表情で頷くと、そのまま伊助の耳元に寄った。
「こう見えても御前は厳しいお方で、もし伊助さんが隠しだてするようであれば、役所に知らせずこの屋敷牢へ入れて拷問に掛け、家族の者全てを人質にし最後は抹殺してしまうつもりなのですよ」
真っ青になって伊助は桂介を見た。政平も冷めた顔で伊助を見下ろす。桂介が真面目に頷く。
「わ、分かりやした。話します、何もかも話しますからどうか家族には手を出さないでくださいよ。お願いしますよ」
桂介がちらっと政平の目に移すと、政平も目と口許だけで笑って見せた。伊助はしっかりと座り直すと、どこから話そうか考え始めた。
「オレが初めてこの銀を見たのは二年前で、この辺りのお女中方にかんざしを買ってもらって出てきた時に、井筒屋と言う物産問屋の者がオレに声を掛けてきたんです 始めは井筒屋とは名乗らずに、いい銀が手に入ったんだが腕のいい職人がいない。お前の腕を見込んでちょと見に来ないか。と言って来やした。オレもいっぱしの職人だ、いい材料があると言われたら、見たくもなりやす。井筒屋はあれだけの銀を、普通の物と同じ値で下ろして、その代わり造ったかんざしは全てここへ納めると言う条件で手間賃もかなりはずんでくれやした」
「そんなうまい話、妙だとは思わなかったのか?」
「思いやしたが、あれだけの銀を手にできると思うと・・・つい」
声が小さくなって行く。
「で・・・ついこの前。井筒屋にかんざしを届けようと出掛けたんですが、ばったり弟分の佐吉にあってそのまま飲みに行ったんです。遅くなっちまったんで井筒屋の裏手から入って行きやした。
-伊助と佐吉が井筒屋の裏の木戸を開けて入ると、目の前に木箱が積んであった。
『なんだこりゃ』
『おい、佐吉勝手に触るな』
伊助がそう言っても、佐吉は笑っているだけで、さっさと箱の一つの蓋を開けて覗いた。
『おー?』
佐吉の驚いたような声に、ついに伊助も箱の中を覗き込んだ。中には無造作にまとめて包んである人参がいっぱいに詰まっていた。
『兄い、これってもしかして----』
『抜け・・・荷か----』
方の箱も覗いて見ようと手を掛けた時、奥から井筒屋の主人が誰かと話しながらこちらへ来た。
『佐吉!』
伊助は箱の陰に佐吉を引っ張って押さえつけた。井筒屋の声はすぐ近くにやって来た。
『ごらんくださいませ。今回の船は皆順調につきましてこれだけの品物が入りました』
もう一人の男の声がする。声の感じから身分ある武士のようである。
『なるほど、またこれを職人共に蒔き品物を造らせ、それを諸国に売るのだな』
『なんだかんだといいつつも、女衆は美しい物が好きですからな』
どうやら目の前には例の銀があるらしい。伊助は見つからない様にゆっくりと頭を上げ、その武家の顔を見ようとした。
『そなたもここまでうまく行くとは思わなかっただろうな。わしも思わなかったぞ』
『すべてあなた様の御陰でございます。公儀の船がいない場所をお教えくださいますから、見つからずここまで来たのですよ』
伊助がその武士の姿を捕らえた。しかし武士は頭巾を被っていたので、顔はまったく分からなかった。
武士の笑い声が聞こえる。
『そろそろだ。もう少しで------』
もう少し身を乗り出した伊助に不安を持ってか、佐吉が伊助の袖を強く引いた。
『うわっ』
勢いがついてひっくり返る。もちろん相手に気付かれてしまった。
『誰だ!』
『佐吉!逃げるぞ!』
佐吉の腕を掴んで出口の方に放り出した。伊助もそれに続いたが、その時目の前にあった木箱の蓋を剥がして中の物を掴み取った。後ろで主人が人を呼ぶ声と武士が刀を抜く音を聞いたが、伊助は佐吉を引っ張って一目散に逃げたのだった。-
その時納めに行ったかんざしを落としちまって、それで足が付いたんだと思いやす」
やっと政平が満足そうに頷いた。
「その武士の顔は見ておらぬのだな?」
「へい、なんせ頭巾をかぶっていたんで」
そこまで静かに話を聞いていた凛が、心配そうに口を開いた。
「佐吉さんは、大丈夫かしら」
「それも含めて、まずは井筒屋をあたって見ましょう。しかしあそこは凛さんにも伊助さんにも分かってしまっていますから、人質や抜け荷を置いてあるはずはないでしょう」
「実は先日中村からその事について、どうやら抜け荷の陰には力のある藩の武士が付いているらしい、と言う事を聞いたのだ。これで話が本当だったと言う事が分かった。その男を押さえれば、この抜け荷の件は一気に解明されるだろう」
はい、と桂介が同意した。
「御前、こちらの方から井筒屋に圧力を掛けて見てはくださいませんか?」
「それは構わぬが、どうしようと言うのか?」
凛と伊助も不思議そうに桂介を見た。桂介には何か策があるようだ。そう言う桂介の表情は今までと変わらない。
「動かしてみようと思います」
鷹月が目を開けると、そこは床の間付きの客間であった。一瞬何がどうだったのか思い出せなかったが、柱にくくりつけられているのと、乱れて顔にかかっている髪に気がついて、伊助のごたごたに巻き込まれた事を思い出した。そしてそれが、伊助だけの問題ではなく、謎になっていた抜け荷の一件に関わっている事も思い出した。
「しかし、なんだってこんな所へ・・・」
殺す事はしないだろうと思っていた。男達の顔は伊助に知られているから、たちまち役人に捕らえられるからだ。それで抜け荷がバレるなど分が悪すぎる。しかし、捕らえた物など大体は蔵や牢に入れて置くものだ。迎え方は最悪だが、それにしても客間とはどういう意図を持っているんだろう。
「気がついたか」
声に鷹月が振り返ると、羽織に袴姿の武士が無表情で近づいて来た。どうやら屋敷勤めの者らしい。鷹月が探るようにその武士の顔を見ていると、武士は目の前に立ち、手に持っていた刀の鞘で鷹月の顔を叩いた。
「うっ!」
「オレは人に見られるのが大嫌いなんだよ」
口の中が切れて、血の味が広がった。こりずにもう一度睨みつけると、今度は本気で怒ったらしく、眉間に皺を寄せて額に青筋を昇らせた。
「こら、あまり手荒い事はするな」
後ろから声が掛かると、その武士はすぐに振り返り片膝をついて礼をした。どうやらこれがこの家の主らしい。歳は五十後半ぐらいで顔つきはすごく悪かった。悪事という悪事すべてに手を出したらこんな顔になるだろうか。自分の住んでいる町の中にこんな顔をした奴がいたと言う事が、なんだか意外であった。
「ようこそ・・・とでも言おうか」
鷹月は黙ったまま、様子を伺った。この主人が抜け荷の黒幕なのだろう。それにしてもわざわざ自分をここへ連れて来たのはどういう事だ。鷹月はそう考えていたのだ。
「最悪の待遇・・・って訳でもないな。どういうつもりだ」
主人は鷹月の目の前に立つと、勝ち誇ったように見下した。
「お主、ここにいる理由が抜け荷の一件によると思っているのだろう?」
鷹月が黙っていると、その主人は鷹月の髪を無造作に掴んで、顔を引き上げた。苦痛に顔を歪めたがすぐに主人を睨み付ける。
「井筒屋で見た時にすぐ気がついた。お主はよく似ておるのだ。先代の月影公に、そして紫の方様にもだ。いまいましい位に!」
鷹月の頭の中で、北原家に起きた大騒動の話が思い起こされた。
「それじゃ、貴様は・・・後藤に関係のある者か?」
主人は勝ち誇ったように笑うと、口端を歪めて言った。
「後藤に関係のある者か・・・・。信じられんかもしれぬがな、わしは後藤三長本人なのだ」
「なっ・・・なんだと」
さすがに鷹月の声が震えた。それ以上何も聞けないでいると、後藤は立ち上がってこう言い残した。
「お主には大きな仕事に力を貸してもらうとしよう。しばらく御辛抱願いますぞ、鷹月殿。はっはっはっ!」
伊助が佐吉の所へ様子を見に行っている間、桂介は隣のかつては自分の家だった門を覗いていた。懐かしい気持ちと共に、後ろめたい気持ちになって門を潜る気にはなれなかったのだ。
家を出た理由は、父竜介が死んだ事であった。当時先代城主月影が息を引き取った直後、城内で殉死する者が選ばれた。この頃はまだ殉死は名誉ある物と思われており、主君を敬っていた家臣は、こぞって殉死をしたがった。桂介の父は月影とは家臣である前に、一緒に策を立て戦った友人でもある。当然殉死の許しを受けると思っていたが、月影は遺言で竜介が死ぬ事を許さなかったのである。それはこの先若い鷹月を助け、自分に代わって藩を守ってほしいと言う気持ちからの事で、竜介もそれを充分に分かっていた。分かっていたが月影なしの自分はもはや死んだも同然と、竜介は思っていたのである。ある日、桂介は父に呼ばれた。そしてこの家を出るように言われたのだ。詳しい理由は言わなかったが、桂介には父の気持ちがよく分かっていた。勘当されたように見せ掛ける為刀以外は何も持たずに家を出た。その数日後、栗竜介は殿の遺に反して屋敷の庭で、城の方を向いて腹を切ったのだった。それでも謀叛の罪が及ばなかったのは、母と月影の妻紫の方の結びつきの御陰だった。今まで女の身一つで栗原を守って来た母に、今更合わせる顔はない。
「桂介、どうしたの?」
呼ばれて振り向くと、凛が門から出てきた所だった。
「長屋へ帰ろうかと思います」
「え?でもここで鷹月達を無事に救出する為の策を考えるって言ってたんじゃない」
「取り合えず、井筒屋が動き出さない限り何も始まりません。明日になれば進展があるでしょうから、また明日来ます。凛さんはここで伊助さんが帰ってくるのを待っていて下さい」
凛は一応納得したような返事をした。桂介はそのまま長屋の方へ歩いて行ってしまった。凛はしばらくその姿を目で追っていたが、にっこり笑うと桂介の所へ走って行った。
「私も長屋に行くわ」
「凛さん」
何か言おうと思った桂介だが、黙って笑うとまた歩き出した。凛は隣を付いて歩き出した。
「ね、鷹月の兄上様、本当は伊助を罪にする気なんてないんでしょ?」
「どうしてそう思いますか?」
「そんな器量の小さい人じゃないもん。見てるだけでも分かるわ。何か安心できる気分にさせる人よ」
さすが頭のいいお姫様だ。と桂介は微笑んだ。もしかしたらあの方の身分にも気付いているのかもしれない。
「鷹月・・・無事よね」
「はい。あの若様ですよ」
凛は心から安心した笑顔を洩らすと、桂介の顔を見て大きく頷いた。
その真夜中に、井筒屋の裏手から一丁の駕籠が出てきた。駕籠を担ぐ男二人と、提灯を照らす男二人の小人数ではあったが、その男達の目つきは油断のないものである。政平が桂介から言われて奉行に井筒屋を調べるように言った後、奉行がそれを町方の役人に明日の朝一番に押し入るように言ったのが夕の刻。どこかで話が漏れているのだ。今まで井筒屋を探索しても何も出て来なかったのも、同じ理由からだろう。しかしそれを見破れない桂介ではない。桂介はもう一つ別の事も政平に頼んでいた。この駕籠がしばらく行った後、黒い着物に身を包んだ武士がその後を追っていた。顔つきから見るに、町方の役人ではない。身の隠し方、いざと言う時の身構え方は、何か特殊な修行を積んだ者であろう。
駕籠は素早く角を曲がった。つけていた男も後に続いて入ろうとしたが角を曲がって舌打ちをした。その路地は駕籠が一つ通れるかぐらいの広さで、両側は高い塀に囲まれていた。これでは入って見つかったら逃げ場がない。奴らもよく考えている。その男はぐるりと塀を回って表に出た。そこは武家屋敷の通りで、門は固く閉ざされていた。
「桂介先生っ!大変だ!」
そう言って長屋に飛び込んで来たのは伊助だった。もう朝に近い時刻である。どんどんと周りの家の迷惑も考えず戸を叩くが、そんな事は一向に構わないようだ。そして桂介が戸を明けた途端、この大声である。
「どうしたんです?」
「そ、それが---」
「どうしたのぉ?」
二階で寝ていた凛が、着物の上を羽織って下りてきたいいかけた伊助がそれを見た途端、あんぐりと口を開けて、二人を見比べる。
「も、もしかして・・・お二人だけだったんじゃ」
「鷹月がいないんだから、当たり前でしょ。ねえ?」
眠さに任せて雑に答える凛。振られた桂介は伊助の心配が分かるだけに苦笑いで曖昧に頷いた。
「で、どうしたんです?何が大変なんです?」
「あっ、そうだった。実は元太が帰って来ないんですよ昨日から・・ほらあの時からです!」
眠そうだった凛の頭が、一気に引き締まった。
「あーっ!そう言えば、逃げる時いなかった!」
「でしょう!きっと鷹月さんが捕まった時、巻き添え食って捕まっちまったんだ!」
どっちが巻き添えを食ったのかは分からないが、心配は同じである。
「佐吉さんと言う方はどうでした?無事でしたか?」
「家にはいなかったんで、近所の人に聞いたら、あいつあの翌朝すぐに行商に出て行ったって事でした」
「そうですか、ではそちらはひとまず安心ですね」
こんなに焦っている時、桂介はまったく落ち着いている。さすがに凛と伊助もイライラしたようだ。
「桂介、どうするのよ!」
「そうですよ、どうするんですか!」
「捕まっているところは分かってるんです。今おたおたしてもどうにもなりません。それに元太は大丈夫だと私は考えますね。奴らの当の目的は凛さんの持っているかんざしを取り返す事です。伊助さんを呼び出す切り札にするなら、若様より元太の方が身近ですから」
と、聞いて納得して何も言えなくなった凛と伊助であった。
「とにかく明日一番に、お屋敷の方へ行きますから。それまでここで休んでいかれませんか?」
ずっと考えていた。どうしたらこの場所を桂介達に伝えられるか。もしこれが伊助に関わる抜け荷だけの件であれば、桂介達も承知している事だから無理にどうこうしようとは思わない。しかしこの後藤が生きている事やまた謀叛をたくらんでいる事は、まだ誰も知らないはずだ。後藤の事は何かの時に、兄から聞いていた。詳しくは分からないが、まだ自分が生まれる前に月影暗殺を企て、あと一歩と言う所で捕り押さえられたという男で、直後に首を切られたと聞いている。首を切られたのは身代わりでも立てたのか・・・。とにかく今騒動を起こさせるのは、まずい。何とかして政平に知らせないといけない。鷹月はまわりを見渡した。客人扱いされていたのは昨日の夜までで、すぐに蔵の中に入れられてしまっていた。まわりは真っ暗で何も見えない。しかし奥の方の高く積まれた荷物の奥の方から薄く光りが漏れている事に気がついた。よく見ようと縛られたまま立ち上がった時、突然入口の戸が音を立てて開いた。
「いてっ!」
「騒ぐんじゃねえぞ。ここはお侍様の屋敷だからな」
すぐに戸は閉まる。閉まるとすぐ鷹月はその閉じ込められ者に声を掛けて見た。
「おい・・・元太・・・か?」
「鷹月のお兄ちゃん!」
やはり元太だった。中の様子がよく分からない元太を言葉で誘導した。
「怪我してないか」
「うん」
「今までどこにいたんだ?」
やっと目が慣れてきた元太は、縛られたまま鷹月の前に座った。
「店屋の裏みたいな所に連れて行かれて、鷹月のお兄ちゃんはそのままそこにいたお侍に連れて行かれて、おいらはそのままその家の暗い所に入れられていたよ。だけど夜になって、戸が開いて、手と目と足と縛られて、駕籠に乗せられて、ここに連れてこられたら、お侍さんがいて、ここに入れられたんだ」
鷹月は状況が少し読めた気がした。伊助が無事に桂介の所へ行って、役人が調べに来たか、それとも来る前に知ったかしたのだろう。
「そうか。元太安心しろ、職人の兄ちゃんは無事だぞ」
そう言って勇気づけた後、また明かりの方を見た。荷物は綺麗に積まれてはいない。元太の足なら何とか登れそうである。しかし両足を縛られているままでは到底無理だ。何とかして縄を切らなければいけない。
「何か切る物は・・・・」
まわりを見回すが、角のある物や固そうなものは一切無かった。刀も当然取り上げられている。刀?と思って鷹月は気がついた。
「ちょっと元太。オレの袴の帯の間探ってくれるか?」
元太が体を寄せて、不自由な手で鷹月の帯を調べた。
「あった、これ?」
元太が取り出した物を見せると、それは北原の紋の入った小柄だった。本来なら刀の鞘の外側に差しておく物だが、凛や他の者に気付かれてはいけないと思って、この頃は、帯の間に入れておいていたのだ。鷹月は頷くとその小柄を口にくわえた。
「いいか元太。今から手の縄切るからな。もし手を切ってたら小さい声で『痛い』って言えよ」
元太は小さい声で『うん』と頷いた。
後藤が部屋に入ると、そこには井筒屋の亭主と初めに鷹月を殴った武士が控えていた。
「どうだ、手入れの方は無事に済んだか?」
「はい、これも小松様が手入れの話をすぐに持って来て下さったからでございます」
井筒屋はその武士に丁寧にお辞儀をした。実は小松は現役の町役人で、数年前に井筒屋から後藤に引き合わされてから、金の力で忠誠を誓うようになったのである。
「もうしばらく品や人質はここへ置いておいた方が良い。今は見張りが井筒屋についているからな」
小松の言葉に、井筒屋は承知しましたと頷いた。
「何、すぐにこんなこそこそとやらなくて済むようになる。わしが権力を握ればな」
「と、言う事はとうとう、事を起こす気でございますか?」
「近々城主殿を呼び出すつもりだ。もちろん、鷹月殿を餌にしてな」
井筒屋の顔が、不安に曇る。
「それでは藩の兵が動くのでは?」
後藤はそれを鼻で笑い飛ばした。
「鷹月は北原の嫡男だ。それがどうして町のチンピラ共に拉致されるのだ?鷹月が町へ出たなどと言う話は一度も聞いた事がないぞ」
つまり後藤が言いたいのは、鷹月が拉致された事実を藩の中に知らす訳にはいかないと言う事なのだ。
「たとえ中継ぎといえど、あの様な骨のない城主はわしの敵ではない。その日の為にこの腰の物を研ぎに出したのだ。二人の首をこの両手に持つのが待ち遠しいわ」
自信に満ちた声で言う後藤だったが、その顔は憎悪に燃えていた。後藤の北原に対する憎しみはまだ燃え尽きてはないのである。
「よし!」
くぐもった声と共に、元太の手に縛られた縄がぱらりと取れた。元太はすぐに足の縄も解き、鷹月の手の縄も解き始めた。
「いいか元太。この積み荷を登ってあの明かりの見える所を見てこい」
「うん」
元太はすぐに上り始めた。さすがはやんちゃ坊主、するすると登って行く。
「どうだ?出られそうか?」
がたがたと物を退かす音がして、少し静まり返った。小さい声で鷹月が呼び掛けると、元気のいい声が返って来た。
「外だよ!」
「ばか、声がでかい。気づかれるだろ。で、出られそうか?」
鷹月も登れそうな所まで登って、その窓の様子を見た窓は荷物でずっと隠されていたらしく、格子もない状態で、元太の体なら何とか外に出られそうである。
「でも、高いし・・・」
鷹月は背の高い方だったが、それでも窓の位置は鷹月が手をいっぱいに伸ばした辺りの高さである。子供にして見れば、随分高く感じるだろう。
「元太走るの好きか?」
「うん」
「大きな子と喧嘩するか?」
「うん」
「伊助の兄ちゃんに会いたいか?」
「うん!」
慌てて元太の口を押さえた鷹月だか、にっこり笑って元太を覗き込むと、その小さい肩を勇気づけるように叩いた。
「大丈夫だな。外に出て先生達に知らせられるな?」
元太はしっかりと首を縦に振る。鷹月は頷くと、小柄を元太の帯の間に入れた。
「もしなんかあったら、これ振り回せ。小さいけど切れ味はいいんだ。それといいか、ここを出たらお城が近くに見えるはずだ。町に出るにはお城から遠くに行くんだ。遠くに行く道を走るんだぞ」
「うん」
鷹月はもう一度肩を叩いた。
「よし、行け!」
元太は窓に手を掛けて、目をギュッと閉じると思い切って飛び出した。思ったより高くなく、すぐに立てたが回りを見渡して一つ問題が見つかった。元太は上を向いて、自分が飛び下りた窓を見上げると、元気よくその問題を鷹月に問い掛けた。
「お城見えないよー!」
「ばか!だからでかい声で言ったら----!」
どうやら塀が高くて元太の背では城が見えないらしい。鷹月も窓の外を見ようと一生懸命飛び上がるが、そうこうしている間に門番に見つかった。
「おい、お前!」
ばたばたと数人の足音。目の前を通り過ぎて行って、遠くなる。元太はどっちに走ったか、もし城の方へ行ってしまったら、堀で行き止まりになる。頼むから桂介の所へ行ってくれ。そう願っていたら、今度は蔵の外が騒がしくなってきた。
鷹月はそれに気がつくと、急いで荷物を移動して入口に積み始めた。
「おっ、こらっ!開けんか!」
「ばっかやろー、絶対に出てってやらねーぞ」
人質が押し込められた蔵に立て籠もるなどと、普通の人間はやらない。
元太は走った。確実に城の方へ向かって走っている。仕方がないといえば仕方がない。町の方角からは大きなお侍が追って来ているのだ。元太は一生懸命走って逃げ場を探したが、回りは高い塀ばかりで曲がり角もない。
「小僧!いくら逃げても無駄だ」
余裕を含んだ声が飛んで来たが、その途端元太が消えた。侍達は驚いて消えた場所を見に行くとそこは唯一の曲がり角であった。しかし奥は堀があって行き止まりのはずだったが、侍達が探しても元太の姿は何処にもなかった。
「くそ、あのガキ何処へ行った。手分けして探すぞ!」
その声を元太は植え込みの中で聞いていた。元太が消えたのは屋敷の裏門に入ったからだった。侍達が気が付かなかったのは、門が閉まっていたのと、その屋敷は大人達には容易に潜りにくい所だったという事もあった。取り合えず無事に侍達から逃げた元太はそろそろと顔を出して見た。後ろに新たな敵がいる事も知らずに・・・
「こらっ!」
襟首を掴まれて、撮み上げられた。体格のいい武士だったが、どうやらこの家の警護をしている者だろう。
「子供と言えども、屋敷内に勝手に入ると首を切られるぞ」
じたばた暴れる元太。つまみ上げた武士は呆れ顔で元太を外の方へ持って行こうとした。
「放せ、ばかー!」
まだ外にあのお侍達がいるとでも考えたのか、元太は一段と暴れると武士の手の甲に噛みついた。
「痛っ!」
落とされると屋敷の方へ走った。走るとすぐに誰かにぶつかった。その拍子に鷹月が差してくれた小柄が落ちる。
「こらこら子供を手荒に扱うものではない。町人の子供のようだが、どこから参った?」
元太が見上げると、それは着流し姿の政平であった。そう、元太は偶然にも政平の屋敷に飛び込んだのである。それが誰なのか知らない元太ではあったが、そのやさしそうなお侍にホッと安心感を覚えた。政平はしゃがみ込んで、その顔を覗き込んだ。そしてふと気がついた。ここは武家屋敷の中でも一番城に近い屋敷だ。町人の子供が迷って入り込んでしまうなどめったにはない。
「そなた、元太か?」
そう聞いてから、落ちていた小柄に気がつき、何気なく手に取る。手に取ると妙に馴染みのいい感触にすぐに気がついた。表に返して柄を見て、それが鷹月のだと確信した。
「誰かすぐに桂介を呼んで参れ。火急の用じゃ!」
桂介、凛、伊助が部屋に飛び込んで来た。一礼したのは桂介だけで、凛と伊助は入ると同時に口を出す。
「元太!」
「元太、怪我ない?」
政平の横にいた元太を見つけて、飛びついた。当の元太はいつもの様に屈託ない笑顔で頷いている。桂介は立場上、手放しでは喜べなかったが、それでも元太の頭をポンッと叩いて笑いかけた。
「これを見てくれ。鷹月の物に間違いないな?」
政平は元太の持っていた小柄を前に差し出した。桂介は手に取ったが、見覚えのある物にすぐ事をした。
「そうです。元太が持って来たのですか?」
「うん。元太が言うにはこの武家屋敷のどこかに閉じ込められ、鷹月が元太だけを逃がしたらしい。特徴を聞き家臣の者にその屋敷を探し出させたのだ」
そう言うと、部屋の襖の後ろに控えていたあの武士が前に出た。
「この子が申す辺りと、昨晩私が見失った辺りを見回った結果、この時刻に商人の出入りがある所があったのでその蔵の中に捕まっていると思われました。蔵の様子を見ようと、塀を越えて見たのですが、屋敷の中には警備の武士と浪人がいたる所にいるものですから、中の様子までは見られませんでした。しかしその屋敷の主人と思われる人物が商人と一緒に歩いておる所を見たのでございますが」
そこまで言うとその武士は政平の方に視線を移した。桂介もつられる様に政平を見ると、すでに深刻な顔をして唸っていた。
「ただの抜け荷の黒幕を追い詰めたと思っておったが、まさか後藤が----」
「御前、後藤とは一体?」
桂介が聞くと、やっと政平は顔を上げた。桂介は事が尋常ならない事であると気付き、凛と伊助の目を避ける為に部屋を変えるように提案した。
「そうかまだあの時も桂介は小さかったから、栗原殿も話しておらんかったのだな」
政平は座ると同時に話し始めた。
「あれは丁度鷹月がお母上の腹にいた時の事だ。後藤三長という男はその昔徳川から目付けと言う形で家臣になった男でな。しかし後藤には城持ちの大名になりたいと言う野望があったらしく、日頃からその機会を狙っていたのだ。そしてある日、寺参りに出たお母上を連れ去り父上を呼び出した。結果は父上の采配に後藤が破れ、幕府へ許しを貰い後藤は首を切られたのだ」
「切られたのでございますか?」
「そのはずなのだが・・・。何せ首を切られると言う日に、お母上は鷹月を出産後に体調をお崩しになられ奥に籠もられていたし、父上は江戸に行っておられて誰も確認をしていなかったのだ。体の方はあったのだが、頭は切った後に家臣の誰かが持ち去ったと言う事で見つからずじまいになってしまったてな」
桂介は背中にヒヤリとした物が走った。
「それは、後藤が身代わりを立てたと言う事ですか?」
「そう考えられる・・・。いや、近見・・あの探索の武士だが、近見が言うその男の人相はまさに後藤三長なのだ。あの時身代わりをたてて生き延びていた。それも逃げもせずこの城下で、抜け荷をし、そしてまた北原に楯突こうと言う気なのだ」
日頃は物静かな政平の言葉にも、さすがに怒りがこもっている。事情の分かった桂介はその男の執念に恐ろしさを感じ取った。その時、二人が黙り込んでいる所に、そろそろと障子が開いて、凛と伊助が顔を覗かせた。
「あのー・・・お話中ごめんなさい。今ね、裏手の門から誰か来たらしいんだけど、出てみたら誰もいなくてこの手紙が置いてあったの。北原政平様・・・って」
それを聞き政平と桂介は、しまったと思って凛を振り返った。凛は唖然とした様に手紙を差し出して、政平の顔を見つめていた。
「それでは、北原のご城主様があなた様で、それが鷹月のお兄上様で、じゃ鷹月が・・・・って事ですか?」
政平と桂介が顔を見合わせる。どうしようと言っている。
「あのー、何のお話で?」
いやに明るい声で伊助が聞いて来る。それにも同じ口調で凛が答えた。
「この方はこの藩の藩主様で、鷹月がその弟。で私は北原の嫡男と縁談があって、その嫡男が鷹月」
しばらく間があった。伊助の顔が止まる。しばらくじーっと考えて、やっと大きな声を出して驚いた。
「じゃ、じゃあ、あの働く気のねえお侍が殿様?で凛さんはその人の嫁で・・・・じゃ凛さんは隣藩から来た姫様ですかい!」
凛が頷く。伊助が政平と桂介を見ると、二人も頷く。驚きすぎで、半分宙に浮かせていた手が、すとんと畳に落ちて、放心状態になってしまった伊助だった。
「桂介、これは後でゆっくり話して聞かせなければな」
「はっ」
苦笑いして頷くと、凛の手から手紙を取った。そして政平に渡す。政平はさっと目を走らせ、怒りに満ちた笑顔を桂介に見せた。
「後藤からだ。名前は偽名を使っているが、内容は明らかに昔父上を呼び出した手と同じだ。『我が屋敷にて能を催すのでぜひ見にこい』と、最後には鷹月にも来てもらうように言っていると書いておる」
桂介もさっと目を走らせた。
「御・・・いえ、殿。若様の為にお命お預かりしてもよろしいですか?」
「わしは父上から鷹月の事を頼まれておるのだ。鷹月の為なら何でもするぞ」
するとここまで聞いていなかったように見えた凛が口を開いた。
「桂介、私も行く!」
「凛さん・・・・」
思いつきではないようだ。凛はちょっとふて腐れた態度で、低い声で答えた。
「はっきり言って、まだ混乱しててどうしていいのか分かってないの。でもね、言える事は鷹月も桂介も私の大切な友人でしょ。友人が大変な事になってるのに、ほっとくなんて嫌だわ。やれる事があったら何かやらせて」
桂介は思わず目を細めて凛を見た。
「凛さんのそういう所が大好きですよ」
そう言って頷くと、凛も満足して頷いた。
「お、オレもやります!」
「伊助さんまで・・・」
今度は伊助が名乗りを上げた。何だか伊助はすでに燃えている。
「その、オレも事情はよく分かんないんでやすが、とにかくこんな事になっちまったのは元はと言えばオレの責任です。それに凛さんが行くって言ってるんだったらオレも行くのが当たり前でしょう。オレ凛さんの事好きなんですよ」
今度は凛が口許を綻ばせる番であった。本当にいい人だと思った。まっすぐでやさしい、いい人だと思った。
「そういう伊助さん、大好きよ」
すごく期待を持った伊助だったが、その後に『ね、桂介』と言ったのを聞いて、一気に複雑な気分になった。
「分かりました。それから元太は連れて行きます。もちろん若様の居場所を知っていると言う理由からです」
元太は元気よく片手を上げる。元太にはこの美しい友情の様子は分かっていないらしい。
「屋敷に入り込んでから、ある程度動きを決めておきましょう。なんと言っても相手は抜け荷の件が表ざたになっても北原を潰したいと願う者達ですから、お互いが助け合えるようにしないといけません」
隅にあった机を引き寄せて、その上にあった紙に筆を走らせる。全員の頭がその上に吸い寄せられて行った。
西の空が燃えるように赤い。東の空にはちらちらと星が輝き出していた。ある武家屋敷のまわりに薪が焚かれ始めた。門では出迎えの武士が緊張の面持ちで立っていた城の方から二つの提灯の明かりが見えて来た。近づくと数人のお供を連れた駕籠が二丁、それも駕籠の戸には北原の紋がかがり火に浮き上がっている。羽織に傘の桂介が行列の前に出て、門で迎え出ていた取次の者に言った。
「藩主北原政平様、ならびにご息女凛姫様、只今御到着と御主人にお伝え下さい」
「はっ、只今」
礼儀正しさも、どこか殺気を帯びている。桂介の胸にふと嫌な考えが浮かんだ。計画は綿密だし失敗しないと確信している。ただ上手く事が考えているように運ぶか・・・・・。ここに来る手前で、塀と壁が一緒になっている蔵を見つけた。多分そこに若様がいるのだろう。そう頭の中の考えを切り換えた時、また桂介の意識は門の奥へ消えて行った男へ戻った。これからが勝負なのだ。まだ不安がるのは早い。
門の中から屋敷の入口まで、服装を整えた武士達が両側に並んで二人を迎えた。後ろの駕籠が開くと、赤い布地に色とりどりの牡丹をあしらった打掛け姿の凛が出てきた。きれいに結った髪は素晴らしいかんざしに埋められていたが、中でも伊助から貰ったかんざしを一番手前に挿しているあたり、こちらもやる気だと見せつけている様であった。凛がちらりと後ろに視線をやると、箱持ち姿の伊助が、傘の下からボーッとした顔で見ている。その次に政平が駕籠から出ると、屋敷の主人が玄関の下に控えて、それを迎えた。
「殿には御機嫌うるわしく。今日は我が趣向にようおいでくださいました」
政平はいつもの穏やかな笑顔を浮かべて満足そうに頷いた。
「いやいや。このごろ忙しくてなかなか外に出れなかったのでな。今回の誘い、嬉しく思ったぞ」
「ははっ」
「そこでだな。そちらに断りなく娘を連れて来たのだがよろしかったか?」
政平が凛に向かって頷く。凛もにっこり笑って口を開いた。
「お父上に無理を言って付いて来てしまいました。御迷惑ではありませんか?」
「いえいえ、私には妻も子もおりませんゆえ、むさくるしい趣向になる所でございました。姫様のようなお美しい方がおられた方が、こちらも嬉しゅうございます」
袖を口許に当てて礼を言う。
「それでは殿。さっそく奥へ」
話の切れ目を見つけて、桂介が促す。立ち上がった後藤の目が鋭く光った気がした。
当主は東と名乗っていた。隣から愛想よく酒を勧めてくるその顔は、昔確かに罪人用の丸駕籠で牢に運ばれる所を見たその男の顔であった。誰もが死んだと思っていた男の顔が、当然だと言うように自分の横にあるのである。そしてまた、鷹月と自分を巻き込んでまた同じ企みを立てているのだ。政平は宴を楽しんでいるその表情とは裏腹に、立ち上がって後藤を切り捨てたい気持ちだった。しかしそれでは折角の計画が台無しになってしまう鷹月が見つかるまでは、騙されていなければならないのだ。そう言い聞かせて、自分の隣の凛を見て、それからその後ろの席を見る。そこにいた筈の桂介の姿はない。能の笛の音が天に響いていた頃に、すでに行動は始まっていたのであった。
「元太、おい元太」
玄関の横に置かれた駕籠に、伊助が話し掛けると、ガタガタと戸が動いた。手伝って開けると、中から元太が出て来た。元太は初めから政平の駕籠の中に隠れていたのである。
「遅いよ、に---」
「しーっ、おめえは声がでかいんだよ」
あわてて口を押さえた時、もう一つ人影が伊助のよこに滑り込んできた。
「わっ!」
「しーっ、伊助さん声が大きいですよ」
人影は桂介であった。三人は顔を見合わし頷くと、壁づたいに奥へ入って行った。中は政平の家臣近見が言ったように、警備の武士、浪人、そして町人の悪そうな奴らがやたらとうろうろしていた。その間を上手く抜けながら、鷹月のいると思われる蔵を探した。
しかし壁は途中で行き止まりになって、その前はもう屋敷の一部だった。
「おかしいですね。元太、この辺だよね?」
元太が頷く。壁の向こうの離れのような屋敷は、屋根の高さも低く、蔵のようには見えない。元太の話では鷹月でも手の届かない所に窓があったと言うのだ。
「桂介さん、あれなんでしょうかね?」
「えっ?」
伊助につつかれてその方を見ると、その屋敷の少し離れた壁に、簡単な木戸が付いていた。ある場所があまりにも不自然だ。
「見に行きましょう」
三人は用心深くその木戸に近づく。木戸には頑丈そうな南京錠が掛かっていて、桂介が戸の隙間を持って引っ張ったが、予想外に重くびくともしなかった。
「やはり・・・。多分この建物が蔵でしょう」
「でも、高さが・・・」
桂介はいたずらっぽく笑って、伊助に言った。
「中から見て高いからって、外から見て高いとは限らないって事ですよ」
一瞬なぞかけでもされたのかと、ぽかんとしていたがすぐにその言葉の意味に気がついた。
「なるほど・・・分かりやした。それで元太が怪我一つしなかったんですね」
桂介が頷く。しかしこの鍵が開かない事には、と桂介が思った時。
「そうとなりゃ、さっさとこの鍵開けてやりましょう。ちょっと待ってくだせえ」
と伊助は言って、懐からやすりのようなものを取り出して、鍵穴に入れた。何度か動かしてグッと押し込むと同時にカチッと音がして、南京錠の錠の部分が外れる。
「い、伊助さんって・・・・」
見事なお手並みに唖然としている桂介に、今度は伊助がいたずらっぽく笑った。
「何、オレの師匠がかんざし職人になる前は錠前師だったんです。言っときますけど悪用した事はありませんからね」
役者が最後の舞を披露して、政平の前で挨拶をしている。予定の時刻より随分早い。凛は表向きはにこやかにしていたが、内心どきどきしていた。こんなに早く能が終わる事を、桂介は知らないだろうし、知っていてもこんな短い間で鷹月を助け出す事はできないはずだ。
「予定より少し早うございますな。いかがでございます?今日はかなりお寒うございましたゆえ、部屋で茶でも一服」
後藤は人当たりのよい笑顔で、政平を誘った。政平は凛を振り返って頷くと、後藤の申し出を受け入れた。
「馳走になるとしよう」
来たな、と凛は思った。立ち上がる時思わず小太刀に手を当ててしまった。政平の方もそう思ったらしく脇差しを自分の手で持って立ち上がった。
「そう言えば東。我が弟の鷹月も招いておると言っておったが、一向に姿を見せぬな」
東はしばらく黙っていた。
「はっ、お城の方へ書状を持って行かせましたが。どうもお城にはおいでにならぬとの事で。殿は鷹月様が何処におられるか知っておられるのでしょうか?」
そのぬけぬけとした言葉に、さすがの政平も頭に来たらしい。少し黙ると、その顔から笑顔が消えた。
「・・・・だいたいはな」
重い扉をゆっくりと開けた。そこには下へ続く階段があったのだ。
「やっぱり、蔵の入口は地下だったんですね」
「すっげー」
階段を下りながら、伊助が口を開いた。
「桂介先生」
「先生は要りませんよ」
「はぁ・・・じゃ、桂介さん」
「はい」
「やっぱり桂介さんも、お城の人達の一人なんでしょうね?ほらだって、鷹月・・・様は北原のぼっちゃんで、ご城主様ともあんなに気軽に話してるし」
桂介は、その言葉にしばらく伊助を見つめてしまった。よく考えたら、今伊助のまわりは藩の最高位の人達ばかりなのだ。呑気に見えるが、内心とても心細いに違いない。ただでさえ武士と町人の壁は厚いのに、普通なら顔も拝めないような身分の人達の中に入っては、孤独感を覚えるのも当然だろう。桂介は伊助の肩をポンッと叩いた。
「今の私は手習いを教えながら、長屋で暮らしている浪人です。それでは駄目ですか?」
伊助は立ち止まって桂介の顔を眺めていたが、ホッとしたように溜め息をつくと、いつもの元気な顔で照れたように頭を軽く下げた。
「先生、兄ちゃん。入口があったよ」
先に下りていた元太が、戸口の前に立っている。どうやら目的の蔵にたどりついたようだ。入口の鍵をさっきと同じようにして開ける。
「若様!」
戸を勢いよく開けて飛び込もうとした桂介だが、戸は開かなかった。引き戸の方は開いたが、もう一つ奥の押し戸は開かないのだ。格子の向こうに見えるのは、びっしりと積まれた荷物の山。
「わ、若様!」
桂介が呼び掛けると、中からがたがたという音がして、くぐもった鷹月の声が聞こえてきた。
「桂介?桂介か?」
「はっ・・・・。しかし何で入口に荷物が積んであるんですか?」
「もちろん、戸を開けさせない為だ」
「はぁ・・・」
今いち鷹月の言っている事が分からない桂介である。それもそうだろう。唯一鷹月がどうしてこんな事をしているか分かりそうなのは、元太だけだ。
「とにかく若様、早くこの荷物どかして下さい。これじゃ助け出せませんよ」
敵地に乗り込んで緊張していたはずなのに、鷹月の様子を見て桂介もいつもの調子に戻ってしまった。
「おっ、それもそうだな。よし外すぞ。・・・・おおっと・・・痛ってえ!積む時は張り切って積んでたからこんなに乗ったけど、外すのは一苦労だな。おい桂介、そっちから押してくれ」
「潰されても知りませんよ」
呆れ切ったように言って、伊助と顔を見合わせた。始めは鷹月にどういう顔をして会おうか緊張していたみたいだが、桂介の顔を見ると、茶目っ気たっぷりに吹き出した。やはり鷹月相手だと、計画は上手くいかないものだ。
政平が不穏な空気に気付いたのは、一度出て行った後藤が再び入って来た時だった。先程まで忙しく行き来する女中の足音がぴたりと止まったのだ。
「時に後藤殿。鷹月はどこにおる?」
東の顔が後藤に戻った。座敷につけた頭が、ゆっくりと持ち上がる。
「どういう事でしょうかな?」
二人の間に、嫌な空気が流れる。側で見ていた凛は胸が並み打つような感覚を覚えた。
「後藤三長・・・・。顔も隠さずよう生きておったものだ。すぐ目の前で、それも藩を悩ませていた悪事の張本人が、そなたとは、気付かなかったわしの方が恥ずかしいわ」
言葉の一つ一つに重みがある。いつもは穏やかな政平だが、今まで数々の幕府の役人や、有力武将と掛け合って来ただけあって、いざと言う時の口調は相手の調子を崩していくのだ。
「鷹月は北原の正式な跡継ぎだ。逃げるならばいざ知らず、城下へ止まり、また世代を越えて同じ謀叛を起こそうとは、たとえ死んでも許されるものではない!」
睨み合いながら口を閉ざしてはいたが、膝に置いた手は袴を握り締め、強く握り過ぎて震えていた。そして政平が一喝を入れると同時に、顔に筋を作り立ち上がった。
「だまれ・・・黙れ黙れ黙れ!」
政平は凛を後ろに庇いながらゆっくりと立ち上がる。
「許される?許されようとは思わない。お前達などに分かるか。わしは権現様が江戸に入られた頃から勤めておるのだ。後から来る者達が自分と同じ地位にいようとも殿の側にお仕えしている事で幸せだったのだ。それを、それを表向きは格を上げられたと同時に、このような片田舎に送られ……。そこで気が付いたのだ。なぜ権現様がわしをこのような所へ送ったか。それはこの藩をわしの思い通りにさせると言う事なのだと。
わしにはその力があるのだ。その権威もあるのだ。力のある者が権力を得る。その昔お前達もやって来た事だろう!」
「下剋上か・・・・・。今は徳川の世ぞ。家康公は平和を願いそなたをここへ送ったのだ。そんな事も分からないのか」
政平の最後の言葉には、哀れみのような問い掛けるような意味がこもっていた。後藤の青白い光りを帯びた目には政平以外映ってはいない。
「凛殿、今の内に外へ」
「でも、殿様・・・」
「そろそろ桂介も鷹月を見つけているだろう。さ、早くしなさい」
やさしいが有無を言わせない口調に、凛は何も言えなくなり近くの障子を開けると部屋を出た。それでも後藤は何の反応を示さず、政平だけを睨み付けている。
二人っきりになった。今まで気を張り詰めていた政平の背筋が、自然な形に伸びる。政平は後藤の動きを探りつつ、ゆっくりとその場に座り直したのだった。
桂介と伊助と元太が見守る中、まず刀の大小が二本飛んで来た。それから草履が飛んで、鷹月が出てきた。
「やれやれ、やっと出られたぜ」
多少やつれてはいるものの、大した怪我はなさそうである。なんだかんだ言っていた桂介もその姿を見てホッとした様子だ。
「御無事で何よりです」
鷹月が笑顔で頷くと、伊助が二、三歩下がってその場にひれ付した。
「お、おい。何だ?」
「ええっと、その。若君様にはー、失礼の数々ホントにすいませんでした」
変な敬語にきょとんとする鷹月。
「オレが全部悪いんですので、どうぞ元太はお助けくだせえ!」
「桂介、何で職人の兄貴はこんな事を言っているんだ?」
そこで桂介は凛も伊助も政平に会い、そこで鷹月が北原の嫡男である事を知った事。そして今、政平と凛も後藤の誘いに乗ってこの屋敷にいる事を話した。
「なんだって、じゃ兄上と凛は後藤の所にいるのか」
鷹月の顔に真剣なまなざしが走った。あの男は何がなんでも北原を潰す気なのだ。
「まずいぞ、よしすぐ行こう!」
鷹月がそう言って、階段をかけあがる。三人もそれに付いて地上に出た。
「やっと出てきやがったな」
表には井筒屋の主人以下、やくざ者がぐるりとその出口を取り囲むように立っていた。やる気満々の井筒屋に対して、鷹月と桂介は迷惑顔である。
「ここを逃したら、私達の面目がないのでね。死んでもらわないといけないんですよ」
と、言いながら井筒屋は後ろに下がって行く。鷹月と桂介はしょうがないという顔をして刀を抜いた。
「伊助、お前元太と先に兄上と凛を探しに行ってくれ」
鷹月はそう言うと、襲いかかってくる町人達を上手く退かして逃げ道をつくった。
「す、すぐ来てくださいよ」
伊助は元太を抱えると、その間を走って抜けた。
「こら、待て!」
海岸で睨みを効かしていた男が逃げる伊助の後を追おうとした。それを鷹月が衿首を掴んで引っ張り戻す。
「おっと、行かせる訳には行かないんだよ。特にお前には海岸での借りがあるからな」
そう言って刀を裏にして二、三発みね打ちをくらわす 何の障害もない鷹月と桂介には町人達などまともな相手ではなかった。匕首を叩き落とすと、蔵への階段の方へ叩き落とす。表にいる人数がだんだん少なくなって、最後は逃げようとする井筒屋を引きずるように階段の入口に連れて行き、その下に落とすと入口の戸を閉めて鍵を掛けた。
「おーい、出してくれ。頼む出してくれ」
「役人が来るまでそこに居るんだな」
ベーッと舌を出して、鷹月は満足そうに言った。
「では若様。急いで殿様達を探しましょう」
「よし」
鷹月と桂介は、屋敷の中へ飛び込んで行った。
伊助は屋敷の奥の渡り廊下を走っていた。明かりは月と廊下に並べられた油の明かりだけで、うすきみ悪い雰囲気が漂っていた。廊下から向かいの廊下を急いで歩いてくる人の姿を見つけた。まだ遠目でよく分からなかったが、伊助は後先考えずに叫んだ。
「凛さんですか!」
まぐれかそれは本当に凛で、凛も大きな声で伊助を呼ぶと、足を早めた。
「伊助さん鷹月は?」
「助けはしたんですけど、井筒屋達に捕まっちまって」
凛は打ち掛けを脱ぎ捨てている。そう聞いて凛は政平が後藤と向き合っている事を心配声で言った。
「とにかく伊助さんでもいいわ。早く来て!」
伊助が頷いて、元来た廊下を戻ろうとすると・・・。
「な、なんだお前!」
廊下を塞いでいたのは小松だった。小松はにやりと笑って刀を抜いた。
「姫をつけて来たら、お前まで来おった。指示では姫だけ始末せよとの事だったが丁度よい。お主も一緒に始末してやる」
小松の剣の腕は確かなものだった。横一直線に刀を振ると、ヒュンと言う音がした。二人は慌てて後ろに下がって避けたが、すぐに刀の刃は二人の頭上ち襲いかかった。海岸では鷹月に助けられた伊助は、自分の気持ちの為にも凛を護り通したかった。伊助は歯を食い縛ると、振り下ろされる刀の様子をじっと見極め、小松の柄を握る手を掴む。
「伊助さん!」
しかし一介の町人が武士に叶う訳もなく、小松が伊助ごと横に振ると、見事に吹っ飛んだ。
「面倒かけさせるな」
そう言って近づいて来る。伊助が座ったまま逃げていると、その目の前に誰かが飛び込んで来た。
「大丈夫だな」
伊助が見上げると、それは政平の家で見た近見であった。姿は侍だが刀は刃が短いもので、片手で横に握る姿は忍のようであった。近見は小松と向かい合うと、じりじりと足を進めた。小松も狙いを伊助から近見に移している。
伊助は二人の様子を見ながら這うように凛の側へ行こうとした。小松と近見は攻めと護りを繰り返し、お互いの剣の腕を確かめ合った。するといきなり小松がニヤリと笑った。そして素早く小柄を抜くと凛達へ向かって投げつけた。
「危ない!」
伊助がとっさに凛を倒して、小柄は柱に刺さった。それが近見に油断を作らせたのだ。ハッとして振り返った瞬間、鳩尾に焼けるような痛みが襲って息が出来なくなった。
「うっ・・・・」
近見の体に小松の刀が深々と突き刺さっている。凛と伊助は青ざめたまま何も言えずに固まってしまっていた 小松はもう一度嫌な笑いをすると、突き刺した刀を更に押す。しかしその時、近見の左手が小松の衿を掴んでいた事に、小松は気付いていなかった。逃れようとした小松を離さず、右手の刀を振り上げ小松の首を切る。小松が崩れ落ちるのと一緒に近見もその場に崩れ落ちた。
「近見さん!」
唖然としている凛を置いて、伊助が近見の側へ行ったまだ辛ろうじて息がある。近見は震える手で使っていない脇差しを取ると、伊助にさし出した。
「守れるな・・・・・・姫様を守れるな」
振り絞るように言う近見に、伊助は無言で頷いて刀を取った。近見は安心したように笑うと、伊助の手を握った。
「殿を・・・姫様を頼む・・・ぞ」
握っていた手がするりと落ちる。頭からも力は抜けていた。伊助は混乱している中で、この近見の言葉の意味を考えていた。なぜ近見は伊助に頼むと言ったのか……もちろんこの場にいたのが伊助だけで、そう言えるのも伊助だけだったと考えれば自然だ。しかし刀から身を守るすべも知らない町人に、そんな言い方をして刀を託すものだろうか。伊助はもう一度近見の顔を見た。安心したような死顔だった。その時、後ろから凛の声がした。
「この人の死を、無駄にしちゃ駄目よ。殿様を助けにいかなくちゃ」
「え・・・」
凛を見ると、目に一杯涙を溜めてじっと近見の亡き殻を見ていた。
「この人本当は殿様を助ける為にここへ来たんでしょ。それを私達の為に・・・だったら私達が殿様助けなきゃいけないじゃない」
それを聞いて伊助は分かった気がした。近見は伊助が凛の為に体を張って守ったのを見ていたのだ。その守りたいと言う気持ちに、近見は伊助に自分と同じ物を見て本気で伊助に後を任したのだ。伊助は近見の脇差しをしっかり握ると、近見に頭を下げて凛に向き直った。
「行きましょう。殿様を助けに行きましょう」
政平は堂々とした態度でまっすぐ後藤を見ていた。間違いなく後藤は困惑していた。あれからしばらく二人は緊張の糸を張り詰めたまま動かずにいる。前当主と比べて武将らしい勇ましさのないこの男が、意外にも大きく見えたのだ。そして何より、腰を抜かして逃げ出すか、武将らしく刀を抜いて戦うかと思った相手が、何も言わずただ目の前に座って自分を見ている事が一番解せなかった。
「おのれ・・・。刀を抜かぬか!それでも武将か!」
困惑が怒りとなって吐き出された。襖の裏に隠しておいた刀を掴むともう一度政平の前に立ち、言った言葉であった。それでも政平は静かにしっかりした口調で切り返す。
「わしは武将ではない」
「何?」
「わしは武将ではない。そして世の中の武士一人としてもう武将ではない」
その言葉がどれだけ後藤に重くのしかかって来たか。武将の時代は終わった----。そう言っている政平がみるみる内に権現様と重なり、その言葉の声も権現様の物となって耳の奥に何度も響いていた。分かっていたのかもしれない。自分のような生き方が時代遅れの上、煩わしい存在だと言う事を。その気持ちを跳ね退ける為、北原を憎み、我が生涯を掛けて潰したいと誓って来たのだ。目の前の政平の顔は家康公の顔のままだ。それならそれで家康公も潰す迄だ。後藤はゆっくりと鞘を投げ捨てる。
「お主が死んで、そのすぐ後に鷹月殿も死ぬ。この罪を北原の身内の誰かに押しつければ、北原はお取潰しだ。あの世からゆっくり見ているが良い」
部屋じゅうが殺気に包まれた気配の中、政平は厳しく引き締めた顔をぴくりとも動かさず、首のすぐ側で冷たい気配を放っている刀先をちらりと見た。
「私を切るなら切ればよい。しかし鷹月は死なせぬ、鷹月はこの藩には必要な男だ。お前のちゃちな野望ごときで死なせはせぬ。そして凛殿の為にもだ」
「何・・ではあの姫は・・・・」
後藤はやっと気がついた。政平の回りには側近の者達が一人として控えていないのだ。鷹月を探し出しているのだ。政平がにやりと笑った。
「初めから死ぬ気でここへ来たのか-----。そうかそれなら望み通りにしてやるわ。しかし鷹月殿のいる蔵の回りには多くの警護の者どもがおる。お主がいくら時を稼いでも、あの人数では手が出せぬぞ!」
大きく刀が振り上げられた。政平は立ち上がった。その時、部屋の外で凛の声が聞こえた。聞いた瞬間政平の体から一気に緊張が抜けた。刀の刃が政平に向かって伸びて来るのを見た。
「鷹月こっち!」
政平のいる部屋へ続く廊下を走って来た凛と伊助は、丁度庭に出てきた鷹月と桂介の姿を見つけたのだ。凛は後先考えずに叫んでいた。しかしその御陰で鷹月達はすぐに気がつき凛が指差す部屋にまっすぐ走って行った。
「後藤!」
障子を音を立てて開けて、鷹月は凍り付いた。続きの部屋の向こうで、振り下ろした刀を握る後藤の姿と、脇腹を押さえて崩れ落ちる政平の姿を見たのだ。
「・・・兄上・・・」
唖然としたまま刀に手をかけた。次に気がついた時は刀を握り締め、政平を庇うように立っていた。すぐ後に桂介が飛び込んで来て、伊助と凛は入口で立ち尽くしていた。
「殿!」
鷹月の顔が今まで見たこともない怒りで引きつっていた。
「貴様、よくも兄上を・・・。絶対ぶち殺してやるからな!」
違う事でびっくりしたのは後藤である。あの警護を突破したというのか。しかし表情の方は意に反して悪意の塊のような笑顔を作っていた。
「安心しろ。すぐにお前もあの世行きだ」
鷹月の方から切り込んで行った。刀と刀がぶつかり合って、火の粉が飛ぶ。鷹月がすぐに切り返すと、後藤が後ろに飛びすさり、すぐに鷹月に向かって振り下ろす。鷹月が半身で避けて構え直した。後藤の剣の腕は鷹月ほどではない。しかしその気迫というか執念というようなものが鷹月に覆い被さるように鷹月の動きを封じていた。鷹月は情け無い気持ちで唇を噛んだ。自分だってこんなに腹が立って殺気に満ちているのに、この男にどうして勝てないのか、と。
「畜生ー!」
大きく上段に構えて後藤に向かって行く。後藤は勝ったとばかりにニヤリと笑い、刀をそのがら空きになっている胸へと突き出した。一瞬早く鷹月の刀が振り下ろされる。後藤もすぐに刀を受け止めようと、鷹月の剣に対して水平に構えた。その途端、皿の割れるような音のもっと甲高い音が走り、後藤の刀が真ん中から折れて飛んだ。鷹月の刀はそのまま驚いた顔をしている後藤の額を直撃したのである。
「お・・・おのれ、おのれ北原め・・・・家・・康・・・め・・・・」
絞り出すような声に一瞬誰もが凍りついて動けなかった。始めに動いたのは桂介だ。政平の体の半身を起こすと二度程呼び掛ける。その後に鷹月が側により、伊助と凛も近くまで来た。
「兄上、しっかり!」
すぐに唸り声がして政平が目を開けた。脇腹に血が滲んでいる。
「無事でなによりじゃ。凛殿も大丈夫だな」
凛が目に涙を溜めて頷く。
「はぁ、まさかこの歳で刀傷を負うとは思わなんだ。父上が若い頃はこのくらい日常茶飯事だったのだと思うとゾッとする」
愉快そうに笑っている政平に、鷹月は気が気ではない。
「兄上、早く医者に」
政平はそれも笑顔で受け止めると冷静に言った。
「何、皆が思っている程怪我はしておらぬぞ。逃げるつもりはなかったが、何せ突然この子が目の前に飛び出してきたので、避ける事になってしまったのだ」
そう言って部屋の隅に目をやる。そこにはいつの間にか一人で行動していた元太が、壁に寄り掛かるように座ってきょとんとしていたのだった。
それから幾日か経った後、井筒屋は抜け荷の品を押さえられ、店は取り潰し主人一同抜けにに係わった者全てに極刑が言い渡された。品物が直接井筒屋にあった訳ではなかったので、罪を認めさせるのは難しいと思われていたが、伊助が罪を覚悟で証人として立った為、井筒屋も認めざるを得なかったのである。とはいえ伊助も抜け荷に係わっていた一人である。当然裁きを申し渡された。
「近見様」
伊助は寺の隅に作られた新しい墓の前に座って手を合わせていた。その姿は今から旅立とうとする井出たちである。
「近見様の志、この刀にかけて継がせて頂きやす。これから近見様のお里に行ってきやすから、ここで見守っててくださいよ」
伊助は墓に笑い掛けると、荷物を抱え直して北原の町を出て行った。この後、何年かして伊助が鷹月の元に帰って来た事は、城下の伊助の知り合い誰一人として知らぬ事である。
桂介は栗原の表札の出ている屋敷の前で立ち止まると複雑な表情で門を見つめた。あの長屋から鷹月と凛が出て行ったのは、二月も前になる。政平の怪我が元で鷹月は正式に北原の家名を継ぐ決心がつき、凛も鷹月と婚儀を行う事に従ったのである。それから何度となく桂介も城へ上がるように誘いが来たが、その度に桂介は何かと理由を付けて断っていたのだ。しかしあの長屋に隠居した政平が直々に尋ねて来た時はさすがに驚いてしまった。
「のう桂介。もう屋敷に戻ってはどうだ」
桂介は黙っていた。政平は少し溜め息のついた時、脇腹を庇って顔をしかめた。あの時の傷は運良く外側を走っていたが、それでも深手であった。それを押して桂介の所に来た事は、それだけで桂介の胸を熱くさせたのである。
「そなたが屋敷を出たのは鷹月のような単純な理由でない事は私はよう承知しているつもりじゃ。竜介殿ももうあの世で父上と仲良くやっておるはず。あのお二人もお前達のように身分を越えた友情があったからな。そなたが屋敷に戻る事も鷹月の元に仕える事もきっと喜んでいる事と思う。竜介殿の供養の為にも、鷹月を支えてやってはくれぬか」
桂介の体のどこかから、ふっと力が抜けた。今まで気負っていた物が、政平の言葉によって解かれて行ったようだった。そしていつものように手習い小屋から帰る時、ふらりと栗原の家に来てしまったのだった。複雑な表情なのは、父親の面影に問い掛けていたからだ。本当に自分はここへ戻っていいのか、と。その時、門の中に父の姿があった気がした。そしてその姿は、桂介に向かって温かく微笑んでいた。
もちろん幻であったが、桂介はその姿に引き寄せられるように門に入った。門に入ると同時に、無償に鷹月や凛に会いたいと思った。もうすぐ会えると思う気持ちに自然と笑顔が零れる。桂介は今気がついた。鷹月と凛が城へ戻り、万事もとどおりになったと思っていたが、自分の事は解決していなかったのだ。多分鷹月も政平もその事を気にしていたのだ。それが分かると桂介はやはり北原の元でしか自分の生きる道はないと気付いた。これで本当にすべてが元通りになる。
玄関につくと、桂介は少し照れたように、しかしはっきりと声を響かせた。
「ただいま戻りました」