テレパシー
その男は、見かけはどこにでもいそうな普通の会社員だったが、実は特殊な能力を持っていた。テレパシーの使い手だったのだ。とは言っても、人の心を読むことまではできない。自分の考えを相手に悟らせることだけができたのだ。半テレパスとでも言ったところだろうか。
そんな能力を持っているのなら、さぞかし便利だろうと人は思うだろうが、男はテレパシーでいい思いをしたことがあまりない。
たとえば、ある日、男が洋服を買いに店に行ったときのことだ。
「実は服が欲しいのだが……」
そう言いながら、男は店員に対して自分が欲しい服のイメージを送った。だが、店員はにこにこしているだけで、何もしてくれない。
「はい、どのような服でしょうか」
と言うだけだ。当然だ。店員は、自分の心に浮かんだ服のイメージが、まさか目の前にいる男がテレパシーで送ったものだと思うはずもない。結局、男は言葉で服の特徴を伝えることになるのだ。
会社でもテレパシーはあまり役にたたなかった。それどころか、場合によっては邪魔ですらあった。男は営業の仕事をしていたのだが、取引先の相手に受注してもらう際、希望の金額を頭に浮かべてしまうと、きまって相手はそれよりも安い金額を提示してくる。仕事がやりにくことと言ったらありはしない。
ただ、同僚に書類の作成を頼むときには便利だった。頼みながら完成した書類のイメージを相手に送れば、望んだとおりのものができあがってくるからだ。
しかし、上司から書類の作成を命じられたときにはこの能力は使えない。こちらのほうがケースとしては多いのだから、結局、テレパシーは役にたたないことがほとんどだった。
家でもそれはかわらない。妻に、食べたいものやして欲しいことをテレパシーで送っても、そのとおりになったためしがない。食事は冷蔵庫の中になにがあるかで決まってしまうし、他のことを心に念じても、たいていは無視されてしまう。妻の希望が優先されてしまうからだ。口に出して言うのと何ら変わらなかった。
唯一、応じてくれるのが子どもだった。
「あ、パパ、今お酒が飲みたいと思ったでしょう」
などとテレパシーに応えてくれる。だが、だからといってお酒を用意してくれたり、飲み相手になってくれたりするわけではない。面白がるだけなのだ。子どもなのだから仕方のないことだった。
そんなわけで、男はいつも、自分の特殊能力が何のためにあるのか疑問に思っている。むしろないほうがマシだ、とすら考える。そしてそんなときは決まってこうつぶやくのだ。
「以心伝心なんて、どこの誰が言った言葉だ。そんなもの、この世にあるわけがない。現実は結局、以言伝心だ」




