上編
目の前に、一面に広がるのは緑の大地だ。
花々もあちこちに咲きほこり、僅かに甘い匂いが嗅覚を刺激する。
地平線の先には山々の影、遠くでまばらに生える樹木の中央には、澄んだ水色の湖が見える。
そして空も、限りなく澄み切った青が広がり、どこまでも果てしなく続いていた。
柔らかい草の感覚を足に感じ、吹き抜ける澄んだ心地よい風が頬をくすぐる。
とても穏やかで温かく、楽園とも思えるようなこの場所。
もし、いつまでもここにいられたら、どんなに良いか……
ジリリリ……
目覚めの時間を知らせるサイレンが、薄暗く狭い部屋に響く。
さっきの光景は、ただの夢。
最近はずっとそうだ、夢に見るのは美しい地上の風景……。
僕にとっては辛い夢でしかない。どんなにあの場所に居続けたいと願っても、夢である以上はいつか覚める。そして、辛く惨めな現実を目の当たりにして、ただ絶望するだけだ。
やっぱり、興味本位であの場所に行ったのがまずかったな。下手な希望なんて、持たない方が幸せなんだ。
目覚めてすぐ目の前には、殺風景な灰色の天井。ダクトから空気が供給される音が断続的に聞こえる。
鉄パイプで作られた質素なベッドから起き上がり、俺は肌着の上から作業着を身に着ける。
全身を包む厚手で不格好な、土色の作業着。
それを着終わると、近くに置かれた工具類を、作業着に複数備え付けられた多目的ポケットの一つに突っ込んだ。そして、壁に掛けられた薄汚れたヘルメットを手に取る。
今日からの仕事は船外、つまり宇宙空間での修理作業。今着ている作業服は、ヘルメットを被せれば簡単な宇宙服になる。
この前までは重力装置の整備だったが、昨日それが終わり、早速次の仕事が回って来た訳だ。
次から次へと、過酷な仕事ばかり…………、正直うんざりする。
僕が住んでいるのは、船の底部に位置するC級市民の居住区画の一つ。
準備を済ませて部屋から出れば、他の居住区画である、何本もの巨大な柱が辺り全体に立ち並ぶのが見える。
船に居住する人間はすべて、最上級の市民階級であるA級市民の、更に選ばれた一握りのエリートにより運営される政府、イプシロン・ガバメント、通称『E・G』により支配されている。
政府は千年以上も昔から、厳密な社会制度と身分階級により人々を支配していた。上流階級で船の管理、支配を主とするA級市民、食料・物資の生産、船内のサービス・流通の管理を行う中流階級のB級市民。そして、動力部の整備や、宇宙での船体修理と、人々の生活で用いる資源の回収と言った、過酷な作業を任される最下層の階級、僕たちC級市民だ。
これらの柱は更に上層のB級、A級市民の居住区、そして船そのものを支える支柱だ。この柱を核に、表面全てを覆う粗末で乱雑な住居群こそが、僕達の住む世界、その全てである。
そして柱の遥か下、つまり船の最下層には、船全体に重力を働かせる重力装置と、動力源である巨大熱核リアクターと言った、船の主力装置が置かれている。けど唯一、酸素を供給する酸素生成機だけは、上層のA級市民区の、更に上に設置されている。その気になれば、彼らは他の区域を隔離し、酸素供給を停止させる事さえ出来る。
つまり酸素と言う僕たちの生命線を握っている以上、逆らう事は許されない訳だ。
数世代か前にはC級市民の、大規模な反乱があったらしい。けど、その時に当時のE・Gは、C級居住区全ての酸素を停止させた。酸欠寸前にまで全C級市民が追い詰められ、もはや反乱どころではなくなった。
その当時の様子については、じつに酷いものだったようだ。少ない酸素を巡り、同じ境遇の市民同士の争いや混乱……、たったの一週間足らずで、C級市民の半数が命を失うほどのパニックだったらしい。
住居と住居の間は細い通路や桟橋で繋がり、さらにそれらの道は、長い年月をかけた度重なる増築、建設のせいで、表面全体を覆うまでになった住居群の内部、つまりその核となっている宇宙船の支柱に元から組み込まれて設置された、幅が広い中心通路へと繋がる。
通路は螺旋状に、支柱に彫り込まれるかのように建築され、上層と下層の層へとそれぞれ続いている。
リアクターの廃熱は煙や蒸気とともに上へと昇り、居住区には常にスモッグがかかって、遠くまでは見通せない。
僕たちC級市民の仕事は下の主要設備の整備か修理、もしくは宇宙空間での船体修理や資源回収などだ。ただ、同じC級でも身分が良ければ、C級とB級居住区の中間層に位置する、工場区の労働者として働く事が出来た。そこにはB級市民も共に働いており、労働対価も彼ら程ではないが、C級の中では良い方、つまり準B級の地位と言うことだ。
けど、残念ながら僕はそうじゃない。
今回からの仕事場へ向かうために、中央通路を降りながら支柱の下へ、下へと向かう。
周囲のあちこちには、E・G管理下の円盤型小型ドローンが、人々の監視をしている。
かつての反乱以降、政府が警戒を強めた結果だ。
移動手段は徒歩と、中心階段と同じく支柱に組み込まれている、大型エレベーター。複数あるエレベーターは全て下までつながっているが、同じく仕事へ向かう人間が多く、よく人で混む。
結局、今日もそうだった。エレベーターの周囲には人だかりが多く、全員次のエレベーターを待っている。
幸いと言うべきか、僕の住む場所は柱のまだ低い位置で、歩いて下へ降りた方が早い時がある。
今日は、歩いて降りた方が早いらしい。
下へと降りる坂道や階段は、住宅群を通りながら下へと続く。
特に中央通路の幅は、全長8メートル以上もあり。かなり広い。中央には路面車両が通る道もあって、上や下へと向かう路面車両が通っているのが見える。
ただ、路面車両も人がギッシリと詰まっている。今日は本当に運がない。
人間用の通路スペースも広く、そこにも大勢が歩いているが、混んで動けなくなると言うことはない。
「ようスレイン! 相変わらず暗い顔してるな」
その中の一人、俺と同い年の陽気な好青年が、俺に声をかけて来た。
「何だ、リースか」
彼はリース、数年前にいつの間にか、僕の友人となった青年だ。
「全く、せっかく親友が挨拶してるのに、まるで死んだ魚のような目じゃないか」
そう言いながら、リースは笑う。
リースの性格にはいつになっても慣れないし、そもそも『サカナ』だって? 一体何の事だよ?
こいつは時々、今のように訳が分からない言葉を使う。リースに言わせれば、『トショカン』と言う場所で学んだらしい。
ああ能天気に見えても、実際は頭は良いらしく、暇さえあればその場所で、色々と学んでいるようだ。
「……その言葉も、トショカンとやらで学んだのか?」
するとリースは、図星だったのか照れ笑いを見せた。
「あはは、バレたか。けどまぁ悪い事じゃないだろ? 多くのC級達は、
そんな余裕はないだろうって思っているけどね。確かにここでの生活は過酷だけど、時間なんてその気になれば、いくらでも作れるのにな。
けどスレイン、いつも以上に機嫌の悪い顔で…………何がそんなに気に入らないんだ? この前せっかく俺が図書館から借りてきた、一冊の本に見入っていたじゃないか? どうだ? あれ、気に入っただろ?」
「そのせいさ。あれを見てから、俺は変な夢を見るようになったからな」
僕が見た夢、それは今朝みたいな、此処とは違う風景の夢だ。
「変な夢? つまり……あんな風景が夢に出たりか……。ははっ! 羨ましいじゃないか! こんな場所では絶対見られない光景だからな!」
リースはまるで自分の事のように、とても嬉しそうにしている。
あいつはとても良いやつで、悪気がないのは分かっている。けど、僕の気持ちが分かる訳じゃない。そもそも……性格が違いすぎる。
「そうだ! 仕事の割り当てを確認したが、今回俺たちは管轄が一緒らしいぜ。とにかく……数少ない親友と一緒で、俺は嬉しいぜ」
そう言って、リースは僕の背中を軽くたたいた。
僕とリース、そして同じく仕事に向かう大勢の人間とともに、下へと降りる。
下にある装置のせいで、下に降りるにつれて気温は上がり、体にかかる重力は強くなり、身体も重くなる。
そして、しばらく降りた末に、ようやくC級居住区の真下へと辿り着く。
そこには六角形の大きな黒いパネルが一面に並び、その間がら伸びる無数のパイプから、廃熱や煙、水蒸気を吐き出している。
一面に並ぶパネルは、甲高い電子音を立てて起動している。この辺りの作業経験から僕は、このパネルが全て、船内に隈なく重力を発生させている、重力装置だと知っている。
無数のパイプは、居住区より下の最下層、船の主要動力層から伸びたものだ。
そこでは大勢の人間が修理・点検作業を行っている最中で、共に降りて来た人々の一部も、ここでの作業へと加わる。
「ここでの作業は、まだ楽だったな。パネルの一つ一つを、点検や部品交換を行う果てしない単純作業だったけど……そこまで過酷って訳じゃないからな」
それには、僕も同意だ。
けど、今回の仕事は単純なものじゃない。一歩間違えれば命さえ簡単に失うほどの、過酷な作業だ。
最下層、主要動力層には階段で降りる道はない。
僕達は今、最下層へと向かう大型エレベーターに乗り換えて、更に下へ降りる最中だ。
重力装置の影響はもはや存在しない。それでもこうして床に立っていられるのは、足底の電気磁石で固定しているからだ。
酸素すらこの場所は薄く、その上、辺りの熱気のせいでかなり辛い。
外では、とてつもなく巨大な機械が大音量で稼働していた。一見ドラム缶や樽、そして円盤や螺旋型などの様々な機械は、チューブと電線が組み合わさった物が幾つも生え、それは上のパイプや、他の機械類に繋がっていた。
これらの動力は全て、この巨大な宇宙船を、動かすために使われている。そして、もちろん此処でも、作業する人間は多い。
途中途中でエレベーターは止まり、その度に人が降りて行った。
外の構造は降りるにつれて密集していき、やがて周囲は機械の壁に阻まれて何も見えなくなる。
やがて、大きく揺れるとエレベーターは止まった。ここが終着点だ。
僕達はエレベーターから降り、先へと続く薄暗い通路を進む。
通路にもパイプやチューブが張り巡らされていて、道も無数に離合を繰り返して迷路のようになっている。
壁には半分劣化した標識が掛けられている。それには通路が繋がる行先が示されていて、船外へと出る各エアロックや、上へと上がるエレベーターの場所が書かれている。
僕が向かうのは『C09エアロック』。標識に従って、通路を進む。
仕事場に到着したのは、僕とリースが最後らしい。
船外へと出るエアロックは複数存在していて、全てのエアロックの前には、人が何十人も入るくらいの大部屋がある。
この部屋は作業前の集合場所、及び船外作業に使うツールの倉庫として使われ、すでに多くがそこに集まり整列していた。全員、すでにヘルメットを着用している。
幸い、まだ仕事は始まっていない。僕達もすぐにヘルメットをかぶり、今のうちに整列に紛れる。
船外作業班の班長が来たのは、そのすぐ後だった。
「全員揃っているようだな。では、説明を始めよう」
班長は整列している全員の前に立つと、話を始める。
「作業内容は、船のブースター部分の点検と整備だ。分かっていると思うが、お前たちが作業を行っている最中も、ブースターは稼働している。せいぜい不注意で、高電圧で丸焦げにされたり、噴射口で蒸発しないようにな」
そして全員に、部屋に掛けられているをバックパックを各自用意し、再び同じように整列するようにと言った。
その後、再度整列した中の、右前から四人を選び出すと、エアロックの前へと連れて来た。
「仕事は四人で一チーム。細かい内容と場所は、通信で各自連絡する。チームは見ての通り、整列している順からだ。さぁ、モタモタするな! 早く仕事を済ませたいなら、早く行動することだ」
こうして、次々と四人のチームごとにエアロックに入り、宇宙空間へと出て行く。
「これで。残ったのはお前達だけだ。これ以上私を待たせるなよ?」
僕たちの順番は、最後に回って来た。
目の前のエアロックの厚い扉が、重々しく開く。
僕とリース、そして他の二人を含めた四人は、その中へと入る。
エアロック内部に入るとすぐに、後ろの扉は閉まる。
そして壁のダクトが音を立てて作動を始め、中の空気を抜いてゆく。
最初は大きかった音は、空気が減るに従って小さくなり、やがて完全に聞こえなくなった。
空気は全てなくなり、目の前の出口が、ゆっくりと開いた。
僕達は両足の電気磁石を弱め、背中のバックパックから有線ケーブルで繋がっているコントローラーを握る。
僕はコントローラーを操作、バックパック後部に複数取り付けられた小型スラスターを作動させ、船外の宇宙空間へと出て行った。
外の景色は、船内とは比べられないほどに広い。
辺りはかつて大昔に建造された、一面銀色の地形が続く。
全長二キロメートルを超える巨大なブースターユニットが、同心円状に数十基並び、一番縁には、ユニットとほぼ同じ全長の、壮大な外郭が全てを囲い込んでいる。
これらは、A級、B級、C級居住区、さらに最下層の主要動力部の底部に位置する、言わば宇宙船の底と言える。
現在は修理のために幾つかは停止しているが、多くのユニットは、上部から、主要動力層の大型熱核融合炉で加熱された、超高温の水素ガスを噴き出していた。人が触れれば、例え宇宙服を着ていても、一秒も足らずに蒸発するだろう。
ユニットの基部からはチューブや導線、金属の足場が無数に伸び、それらは他のユニットや、更に下の主要動力層へと繋がっている。しかし、下までの距離は遠く、ユニット間のそれら覆う外殻の切れ目からは、先が見通せないほどに深い闇が広がる。
そして上には宇宙空間が見える。けど、ユニットや外郭に阻まれているせいで、この場所からだと殆ど見えない。
僕達が出てきた場所は、各ユニットの基部に存在する、作業員区画の一つ。先に出て行ったグループは、すでに指定されたあちこちの場所で、作業を始めていた。
ヘルメットに内蔵されている通信装置から、班長からの連絡が入る。
〈お前たち四人が整備するのは、この八番ブースターの噴射口内部だ。整備のため、今はブースターは休止しているが、それも四時間の間だけだ。
それまでに作業を終わらせろ、いいな!〉
必要な事のみを連絡し終わると、通信は切れた。
ブースターの噴射口は……頭上にそびえる巨大構造物の頂上だ。
バックパックのスラスターを全開にすると、たった数秒でブースターの頂上にたどり着いた。
直径が一キロ以上ある、銀色のボウルのような頂上を移動し、今度はその中央に空く噴射口へと降りて行く。
その大きな穴は、深く暗い。そして長く続く縦穴の縁は、長く噴射で使われていたために、損傷や劣化のあとがいくらか見られる。
これらを整備し、元通りにする事が仕事だ。
早速、僕たちは仕事に取り掛かる。
長年の使用により、劣化した外壁。バックパックから取り出した熱線熔解銃でその部分を溶かし、チューブによって半液状となったそれを吸い取る。
チューブはバックパック内の再生装置へと繋がり、そこで再加工した外壁の素材、強化セラミック合金を塗りつけて壁の修理をする。
僕たち4人は二手に分かれて、 この作業を続けている。
僕はリースと一緒に、仕事をしていた。
仕事の間中、しばらくは互いに、黙々とこなしていた。
「なぁ、少しは笑ってみたらどうだ? 笑えば気分だって良くなるさ」
するとリースが、そんな質問を僕に振ってきた。
何かと思えば、そんな質問か……。僕は正直、かなりうんざりしながら答える。
「……僕たちの境遇が笑えるか? こんな事の繰り返しで、ずっと最下層のC級市民として、ここで一生はい回っていくしかない人生なんて」
結局、それしかない。どれだけ頑張ろうとも、どこまで行こうとも、俺たちはずっとこの生活だ。希望なんて、何一つない……。僕から見れば、それで笑える方がどうかしている。
「けどスレイン、この船は今でも、誰もが幸福に、そして自由に暮らせる惑星『プロミス・プラネット』へと向かっているんだ。
そこではこんな苦労もせずに、ずっと良い生活が出来るって話だ。そう思っているから、みんなこんな中でも頑張ってんだぜ」
まさか、リースの奴がそう思ってるなんて……。僕はがっかりした。
「それって、本気で言っているのか!? 確かに船は、『プロミス・プラネット』とやらに向かっているかもしれない。でも……それは、いつになるか分からないだろ。明日か? 十年後か? いや……百年後になるのか? 船は僕たちが生まれる前から、数千年も航海を続けているんだ。
それなのに、いつ辿り着くか分からない希望をただ待つなんて、僕は嫌だね」
するとリースは、何故か笑った。
「良かった。やっぱり……スレインは期待通りだ」
そんな訳が分からない事を言って、彼は続ける。
「確かに、深く考えてみればそうかもな。けど……希望はそれだけじゃない、もう一つあるんだ」
「――? どう言う事だ?」
「ああ、それは……」
だが、その時突然、通信機から警報が鳴り響く。
〈これより、当船は第二巡航速度に移行する。船外作業員は速やかに、船内へと戻るように。繰り返す、当船は第二巡航速度に移行する……〉
そして今度は、班長の通信へと切り替わる。
〈お前たちも聞いただろ。間もなく第二巡航速度に入る、早く戻らないと、宇宙空間に置いて行かれるぞ!〉
「……そんな! 聞いてないぞ!」
僕は溜まりかねて叫んだ。
〈E・Gが決めたことだ、悪く思うな。だが、文句を言うくらいなら急いで戻れ。宇宙に放り出されてからでは、それも出来なくなるからな〉
「班長に当たってもしょうがないだろ! それよりスレイン、言われた通り、早く中に戻るぞ。仕事はここまでだ」
僕とリース、そして残りの二人は、急いで噴射口から出た。
ブースターは音を立てて稼働し始め、底からは熱量が上昇しつつあるのが分かる。
なのにまだ僕達は、ブースターの上にいる。頂上から離れないと、宇宙に放り出される前に、水素ガスの噴射で蒸発してしまう。
あと少しで、下に降りられる。しかし……。
「ああ、畜生! 不良品を掴ませやがって、スラスターの調子が悪い!」
僕達のうち一人が、進むのが遅れている。
「なら俺の手を掴め! 引っ張って行ってやる」
「そうか……助かる」
リースはその遅れた作業員の手を掴み、引いて先へと進む。
僕ともう一人は先に脱出し、残るはリース達二人となった。
「ほら、後少しでたどり着く。あと少しで……」
二人はもう、目と鼻の先まで迫っている。
けど、その時僕は、その向こう側……さっき抜けた噴射口がパッと輝くのが見えた。
「……っつ! 危ない!」
ついそう叫んだと同時に、噴射口から一気に、白熱した水素ガスが噴き出した。
「ぐわっ!」
噴射の圧力に吹き飛ばされ、リースは何とか間一髪でガスから逃れた。
しかし――
さっきまで、リースが握っていた腕の先には……何も残っていなかった。
水素ガスを直に浴びて、塵も残さず、残りの体は蒸発してしまったようだ。
「……間に合わなかったか、くそっ!」
ヘルメットで顔はみえないけど、リースの声からは悔しさが滲んでいた。
すると残りの知らない誰かが、初めて口を開いた。
「残念だけど、今はそうしている暇もない。すぐに船は加速を始める、それまでには、船内に戻らないと」
その通りだ、まだ僕達は安全じゃない。今度は、船中へと戻らなければ。
入口は、出口と同じく作業員区画のエアロックとなる。
ブースタの基部に向かい、僕達は降りて行く。
しかし、スラスターを全開にして降りているはずなのに、次第に作業員区画へと向かう速度が、確実に落ち続けている。
いや、僕たちの速度が落ちてるのではなく、この船そのものが、加速しているだけだ。
まだこうして、接近している分はいい。僕達の速度が、船の加速より上回っているからだ。
すぐに船の加速は、僕達を上回る。そうなれば、もう手遅れになる……。
先を行くのは、知らない作業員。その次が僕、そして最後がリースだった。
船は段々と加速し、僕達が作業員区画へと向かう速度は落ちて行く。
それでも、区画へのエアロックには、着実に接近している。
そしてやっと、一人がエアロックのハッチに辿り着いた。
続いて僕も、その中へと入る。
「ほら! リースも急いで!」
残るはリースだけだ。しかし、目の前にいる彼はそこに留まって、少しも進もうとはしない。
「どうしたんだリース? 早くしないと……」
「……これでも、最大出力にしている。けど……それ以上は……」
見ると、リースの姿はゆっくりと遠ざかりはじめている。
僕はエアロックから、手を伸ばす。
だけど、もう少しの所で届かない。
「もう、駄目のようだ。俺の事はいいからエアロックを……」
そう言っている間にも、リースはエアロックから離れていく。
「ごめん、そこを退いて」
すると後ろから、声が聞こえた。
言われた通り、すぐにエアロックの扉から退いた。
その瞬間、今まで一緒にいた作業員が、バックパックから延ばした金属繊維のロープを壁に結び付けて、エアロックから飛び出した。
そしてすぐさま、リースを掴む。
「君、そっちからも引っ張って。巻き戻すには時間がかかるから、とにかく、ロープが切れる前に急いで」
言われた通り、僕はロープを引っ張って中に引き戻す。
船の加速は増していて、その負荷がロープにかかってミシミシと音を立てる。
二人分の重量が腕にもかかり、こうして引っ張るのも辛い。
でも何とか、リース達はこっちに接近している。
そしてようやく、二人をエアロック内に引き入れる事に、成功した。
三人とも中に入ると同時に、僕はスイッチを押してハッチを閉じた。
エアロック内部に、気圧と酸素が注入される。
小窓から外を見ると、何人もの人影が虚空に浮かび、遠ざかっているのが見えた。
初めから知らされていれば、こんな事にはならなかった。所詮上にとって、僕達C級市民は、使い捨てみたいなものか……。
この光景を見ると、嫌でもそう思えてくる。
酸素と気圧が元通りになったことを示す、扉のランプが緑に光る。
そして船内側の、エアロックの扉が開いた。
「はぁ……、一時はどうなるかと思ったぜ」
息苦しいヘルメットを脱いだリースは、安堵の表情で息をつく。
「誰だか知らないけど、助けてくれて、ありがとうな。でなければ、今頃は……」
そう、助けてくれた見知らぬ人物に、彼は礼を言った。
当の本人も、ヘルメットを脱いで、僕とリースを見た。
「……別に、ただ助けられると思ったから、そうしただけ。さっきの貴方と、同じことよ」
そこにいたのは、僕たちより少し若い、少女の姿だった。
灰色の髪は後ろに束ね、目や顔つきは鋭く不愛想な表情だけど、よく見れば美人の部類に入る女の子だ。
「とにかく君は命の恩人だ、良かったら名前を教えてくれないかな。俺はリース、そして、そこの陰気な奴が俺の友達、スレインさ」
「おい……陰気ってのは余計だろ」
友人の余計な一言に、思わず僕はツッコんだ。
そんなやり取りに、彼女は表情を少し緩めた。
「ふっ、面白い人達ね。私はリエナ…………よろしく」
わずかに素気がなかったけど彼女、リエナはそう名乗った。