死なず人
生を望むのは誰
富を望むのは誰
色を求むのは誰
それは皆、人間
私は死なず人
ただ、死に焦がれる
夜の屋上。 フェンスの外。後一歩で。私はこの世界から消える事が出来る。目を閉じて一つ深呼吸。足を一歩、空中に向って踏み出した、その時。
「止めておけ」
突然響いた声に私はバランスを崩しそうになった。ドアの開閉音はしなかったのに。もしかすると声に驚いてそのまま転落していたかもしれない。それが当初の目的だった筈なのに。心臓は全力疾走した後の様に、五月蝿い位自分を主張する。
「死は多かれ少なかれ、自分にも周りにも瑕を残す。その傷が最も浅い時を天命と呼ぶなら、お前の天命はまだ先だ。…止めておけ」
「貴方に…貴方に何が分かるのよっ!!」
淡々とした口調が何故かとても気に入らなくて、思わず噛み付いた。
「お前の事は何も知らない。だが、死についてなら多少は知っている」
目が、合った。 恐ろしく深い色をしたその目は、絶望で塗り潰されたように暗い。
「…ああ、憑いてるな」
意味が分からない事を呟く、私より少し年上に見える青年。
「此方へ」
従う理由は無いのに、何故か身体が勝手に動いた。 手袋を嵌めた手が私の視界を覆う。 その手が離れた時、気付けば死にたいという衝動は随分消えていた。
「夢魔だ」
「…夢、魔?」
「希望を喰らい、絶望を埋め込み、死へ誘う魔物さ」
「…からかわないで」
「からかってはいない。…信じる信じないは、お前の勝手だ」
「……」
「…お前、憑かれやすい体質みたいだな」
私に何が言えるだろう。 事態を全く把握できていないのに。
「時々、衝動的に死にたくならないか?」
「…っ…」
思わず左手首を握り締める。 長袖の服の下には、消える事のない傷があった。
「それも、夢魔の仕業だ」
「…貴方、何なの…?」
「夢魔を狩る者」
改めて青年を見上げる。 右頬に傷があった。 目は濃い藍色。 髪は漆黒。 意外と若いのかもしれない。
「…お前の名前は?死にたがり」
「……冬華」
「トーカ?」
「冬の華、で冬華」
「ふぅん」
自分から聞いてきた癖に興味のなさそうな返事。
「貴方は?」
「名なし」
「ふざけてるの?」
「忘れたんだよ。長い事誰も呼んでくれなかったから」
それは酷く寂しい事だと思った。
「呪いのせいもあるけどな」
「呪い?」
「自分の名前と本当の姿を思い出せなくなる呪い」
「………どうして?」
「オレが起きてると困る奴らがいるって事じゃないか?」
「寂しく、ないの?」
遠慮がちに尋ねると青年は驚いたように目を見張った。
「…寂しい?どうして」
「名前、呼んで欲しくないの?」
「別に」
強がっている訳ではなさそうだ。
「…不便じゃ、ないの?」
「別に」
先程と同じ返答。
「『名なし』で十分事足りる」
「……」
じっと私を見下ろしていた名なしが不意に空を見上げる。
「どうし…」
「黙ってろ」
目の鋭さが増した。 何処からか身の丈程ある大鎌を取り出す。 ああ、私、もしかして夢見てる? だって視線の先にいるのはどう見ても化物だ。 ゲームの中にしかいる筈のない、不気味な生き物が空を埋めている。
「あれが夢魔だよ」
あんなのが憑いてたの!? 心の中で思わず叫ぶ。
「受け口が出来てしまっているからな。 空いた場所を埋めるために集まってきたようだ」
「…私、この先ずっとあんなのに付き纏われるの?」
「それを阻止するためにオレは此処に来た。 …壁を背にして、オレの後ろにいろ」
「無茶よ!数が多すぎる!」
「無茶かどうかはオレが決める」
コウモリに似た、けれど遥かに巨大な夢魔が襲い掛かってくる。 大鎌が一閃すると数匹が一気に消えた。
「風よ、万物を知るものよ、今吹き荒れて、我が敵を討て!」
ああ、本当に夢を見てるみたいだ。 呪文の様な台詞に応じるように風が夢魔達を切り裂いていく。 夢か、ゲームの世界に迷い込んだような錯覚。 鎌が振るわれる。
間に死角を突こうとした夢魔に向って投げられた瀟洒なナイフ。 段々と夢魔の数が減ってきた。 左右同時に夢魔が迫ってくる。 ああ、私がいなければ彼はきっともっと自由に動けるのに。 歯痒い。 悔しい。 情けない。 左手から攻撃を仕掛けてきた夢魔にナイフを投げ付ける。 いなくなったのを確認すると名なしが私を背後に庇った。
一瞬の隙。 けれどそれは致命的なもので。 私の目の前で、名なしの首が、飛んでいった。 そして灰となって消えていく。
「な…なし…?」
応えるものはいない。 夢魔が近付いてくる。 私はただ壊れたように名なしと呟き続ける。
「名なし…名なしっ…!」
「一度で聞こえる」
知らない声。 肩につかない長さの金髪。 翠の瞳。 携えているのは、大鎌。
「…ななし?」
「ああ」
最後の一匹の夢魔を葬り去ると鎌は小さなアクセサリーになった。
「…どうして…先刻、首が…それにその格好…」
言葉が上手く纏まらない。
「呪いだ。オレは死なない。致命傷を負うと別の姿になって甦る。 …自分本来の姿も、名前も、もう忘れた」
姿は別人なのに、何故か違和感は感じない。 根本をなす物…魂の色が、同じだからかな。
「…で、どうするんだ?」
「え?」
「今日みたいに知らない内に夢魔に取り憑かれて自殺するか、オレと生きるか死ぬかの旅に出るか。どちらを選ぶ?」
翠の目が真っ直ぐに私を見ていた。 逸らす事は許されない。 逃げる事も。
「どちらを選んでも、オレはお前を責めない。 お前の好きにしろ。死ぬ確率は同じ位だ」
「…………」
死にたいという思い。 生きたいという思い。 どっちが強い?
「…どうせ死ぬなら、死に時は自分で決めるわ」
掠れた声で呟く。 死ぬのは怖い。 生きるのだって、怖い。 でも。 「自分の知らない内に生死が決められるなんて嫌。連れて行って、名なし」
数少ない選択肢から、選ばなければならないのなら。 少しでも後悔のない道を選びたい。 そう言外に告げると名なしは微かに笑った。
「途中で弱音を吐いたら捨てて行くからな」
「分かってる」
ふっと笑みが消える。 残ったのは真摯な表情。
「…夢魔を殺す覚悟はあるのか?」
静かな声だった。 けれどその声はグサリと胸に刺さった。
「自分が生き延びるために、他の命を奪う覚悟がないのなら、連れてはいけない」
私達は生きるために植物や他の動物の肉を食べる。 生き延びるために他の命を犠牲にする。 けれど私が知っているのは店で売っている『終った命』だ。 刈り取られ、加工されて食用として売られている命だ。
自分の意思で死に場所を選びたい。 選ぶためには夢魔を殺さなければならない。 この手が血で汚れる事を選ぶか、黙って殺される事を選ぶか。 重い。 命と命を天秤にかけるなんて間違ってる。
それを言い訳に逃げたい思いもあった。 名なしはきっと責めない。 頼めばこの命を今此処で終らせてくれるかもしれない。 だけどだけどだけど。 ぐるぐると色んな考えが頭を巡る。 死ぬ確率は同じ位。 黙って死を待つか。 夢魔を殺しながら名なしと共に歩くか。名なしを見上げた。 何の感情も浮かんでいない、凪いだ目。 死ぬ事ができない、ヒト。
「…迷いがあるなら、ついて来ない方がいい。 その悩みがお前の余命を短くするだろう」
先刻首を飛ばされ、全く違う姿で戻ってきたヒト。 このヒトは私を護るために命を張ってくれた。 彼はどれだけの痛みを超えてきたのだろう。 死の記憶も、死の痛みも記憶してるなんて私には耐えられない。 きっと…ううん、確実に気が狂う。何もない空間に足を踏み出そうとした時の恐怖が甦る。 死を望んでいながら、私は死を恐れた。 死とは惨いものなんだ、と名なしの首が飛んだ時に漸く理解した。 本当の意味では理解していないのかもしれない。 けれど理解しようと思うようになった。 手首を切った時は感じなかった思いだ。
『死は多かれ少なかれ、自分にも周りにも瑕を残す。 その傷が最も浅い時を天命と呼ぶなら、お前の天命はまだ先だ。…止めておけ』
私の天命は何時だろう。 どれ程の瑕を、自分に、周りに残すだろう。
「……私、は」
どちらの道を選ぶにしても覚悟はいる。 殺す覚悟か、殺される覚悟が。 名なしは黙って私の言葉を待っている。 どうしよう。 何かを犠牲にして生きる事がこんなに重いのだと、知らなかった。 その重さから逃げたいなら、黙って死を待てばいい。 でも。
「………貴方に、ついていくわ」
「後悔しないか?」
静かな問い。
「その時にならないと覚悟なんて出来ない。 でも…私、死にたくない!」
今何度問いを重ねても答えは同じ。 夢魔を前にして心を痛めずに、無情に殺す度胸なんてない。 でも死にたくない。 我が侭でも、それが正直な思い。
「きっとどっちを選んでも後悔するわ。殺し合いなんて嫌」
「…………」
「私は貴方に命を救われた。その結果、貴方は一度死んだ」
「…そうだな」
「その死を、無駄にしたくないの」
そう。 私というお荷物がいなかったら、きっと名なしは死ななかった。 犠牲にした命がある。
「戦い方なんて知らないからきっと足手纏いになるわ。 もしかしたらまた私を庇って貴方は死ぬかもしれない。 何も返せないかもしれない」
それでも。
「それでも、私はついて行きたい。私が私でいるために。 ――自分が何のために生きてるのか、答えを探すために」
短い沈黙。
「…名なし」
「……分かった」
「え」
了承されるとは思わなかった。 覚悟も決められず、後悔する事は目に見えていて、戦力外どころか足手纏い。 連れて行く理由なんて悲しい程見当たらない。
「お前の目には偽りがない。迷う事を隠さない。 …覚悟は出来ている、と言っていたら同行を拒んでいただろう」
「…そう、なの?」
「覚悟などその時にならねば決められぬものさ」
「名なしも、迷った?」
「どうだろうな。覚えていない」
「そう…」
「…迷う余地など、なかったのかもしれない。 オレにはそれしかなかったから」
「逃げたくならない?」
「逃げても仕方ない。 見て見ぬ振りをしても犠牲者の声が聞こえる。 オレが逃げれば逃げるだけ、犠牲は増える」
一陣の風が吹きぬける。
「…お前は少し、オレに似ている」
「え?」
「オレも探しているのさ。自分の存在理由を、な」
翠の目が空を仰ぐ。
「…転移する。捕まっていろ」
一瞬目を眇めた後名なしに抱き寄せられる。
「え…ちょっと、名なし!?」
「暴れるな。別世界に身体半分で行きたいのか」
「別世界?」
「…お前達の言葉で言うならパラレルワールドだ。 夢魔の侵食は、この世界だけの問題じゃない。 オレは世界を渡りながら夢魔を刈っている」
呆気に取られて暴れるのを止める。 名なしが何か唱えて、それに呼応するようにぐにゃりと空間が歪んだ。
「目を閉じていた方がいい。酔うぞ」
「…そうするわ」
忠告に素直に従う。確かにこれは、酔う。
上下左右の感覚がないし、足元が空だったり頭のある方向から身体に向かって木が生えていたりするのだ。 しかも目まぐるしく景色が変わる。
「もういいぞ」
「…此処は?」
目を開くと森の中だった。
「世界の名前など一々覚えてられるか。 惑星の名の事を聞いているのなら余計に覚えていられない」
「じゃあどうやって転移するの?」
「夢魔の気配を辿れば、分かる」
なる程ね。 分かったような分からないような…。
「来い、死にたがり」
「冬華よ」
「あまり不用意に名乗るな。名前を盗られるぞ」
「…盗られると、どうなるの?」
「お前と夢魔が入れ替わる。お前が、夢魔になるんだ」
「…っ…!?」
予想外の言葉に息が詰まる。
「お前の姿をした夢魔は夜になると人を襲う。 襲われた人は、魂を奪われ夢魔の手下になる」
「…魂は、どうなるの…?」
「この夜で最も邪悪な存在の復活の贄になる。 夢魔を操っているのは、そいつの手下だ」
この世で最も邪悪な存在…。
「…夢魔の気配が近い。行くぞ」
「え、えぇ…」
平凡な女子高生だった私の世界は、思った以上に大きく変わってしまったらしい。
「…これを」
差し出されたのは銃器。
「…使い方、知らないんだけど」
「的に向かって引き金を引けばいい。…逆を言うなら、撃つ時以外は引き金に指をかけるな」
「安全装置…とかは?」
「省いた」
省かないでよ! …って一寸待って。
「…貴方が作ったの?」
「魔法でな」
「弾込めの仕方は?」
「必要ない。オレの魔力を籠めてある。 魔力がなくなったら、銃は消える。 お前は取り合えず死なない事だけ考えておけばいい」
草むらを歩いているのに名なしは足音すら立てない。 …いた。 毛むくじゃらの身体。 腕が六本。 目は血の色をしていて、知性の欠片も感じられない。襲われかけていたのはまだ若い女性。 二十代前半位だろうか。 白を通り越して青い顔が夢魔を凝視している。 きっと恐怖で目を逸らせないんだ。 目を逸らした瞬間、喰われる。
「お前は動くな。オレが片を付ける」
風のように名なしが駆ける。 視認するのが困難な程の速さで距離を詰めると、何時の間にか大きくしていた鎌で夢魔の喉元を薙ぎ払った。 同時に何か呟く。 血しぶきはまるで見えない壁に阻まれたように名なしと女性を避けて散った。 もしかすると呪文は盾を作る物だったのだろうか。 断末魔の悲鳴を上げて夢魔が灰になっていく。
「あの」
大丈夫ですか、と女性に差し伸べた手を払われる。
「近寄らないで!」
先刻以上の、恐怖。 …どうして?
「化物!!」
…化物?………私?鈍器で頭を殴られたみたいに足がふらつく。 それ程『化物』という言葉は私に衝撃を与えていた。
「…行こう、死にたがり。此処にはもう夢魔はいない」
「でも」
「…オレ達がいても、彼女に恐怖を与えるだけだ。 幸い獰猛な生物の気配もないし村が近くにある。 …此処でオレ達が出来る事は、終った」
「…………」
俯いて唇を噛み締める私の手を、名なしが引いていく。
「…悪かった」
「どうして名なしが謝るの?」
名なしはただ、夢魔に襲われそうになった人を助けただけなのに。 助けた相手に化物扱いされるなんて酷いよ。
「…力を持つものは恐れられる。その事を失念していた」
弱者にとって強者は恐怖だというのは何となく分かる。 機嫌を損ねれば自分の立場が、命が危うい。クラスの中でリーダーの機嫌を損ねればクラス中から爪弾きにされるようなものだ。 平等でいられるのはリーダーが『権力』を振るわない間だけ。弱者が出来る事なんて媚び諂うか、爪弾きにされた環境でひたすら耐えるか、自分が強者になるよう努力するか、だ。 努力しても一度爪弾きにされてしまえば強者になるのは難しいけれど。 そうして見えない勝負に負けた人の内何人かは、死を選ぶ。
――私のように。
「普通の者にとって夢魔は恐ろしい。姿だけでなく、自分を殺す力があると本能が知らせる。 そしてそんな夢魔をある程度容易く殺せるオレは…ある意味夢魔以上に恐ろしく見えるのさ。 姿が自分達に近い分、違和感や恐怖も増すんだろう」
歩きながら名なしが言葉を紡ぐ。
「…お前も、オレが怖いか?」
翠の目が一瞬私を捉えた。
「…初めて貴方の目を見た時、怖いと思ったわ」
「目?」
「絶望を凝縮したように見えたの」
深い深い絶望色の目を見た時、確かに私は恐怖した。
「でも今は怖くない」
「何故?」
名なしの眉間に皺が寄る。
「貴方は私を助けた。…命をかけて」
「それは先刻も聞いた」
「命をかけて護ったものを、理由なく殺すヒトには見えないもの」
「邪魔だと思ったら見捨てるかもしれない」
「『見捨てる』と『殺す』は違うわ」
「結果が同じでも?」
「えぇ」
「………」
「………」
少しの間の後。
「…ははっ!」
名なしがいきなり笑い出した。 苦しそうに身体を折り、涙まで浮かべて爆笑。
「…私、そんなにおかしな事言った?」
「いや…はは、そうか。 お前の中でオレは随分美化されているらしい。…だがそれが世辞でも何でもなく自分の思った通りの事を言っているのだと分かっておかしかった…いや、嬉しかったのだ」
目じりに浮いた涙を指で拭って、漸く笑いの発作を鎮めた名なしは大きく息を吐いた。
「こんな風に笑ったのは、随分久し振りだ。 …初めてかもしれないな」
翠の目は楽しげに細められていて其処に影はない。 絶望を凝縮したような目を、していたのに。 私は少しでも救いになったんだろうか。
「ねぇ。名なし」
「何だ?」
「私に出来る事、見えてきた気がする」
「そうか」
目が細められる。
「子供の成長を喜ぶ親みたい…」
「…おい」
「冗談よ」
「…全く…」
怒った訳じゃないのが気配で分かる。 多分こんな風に誰かと話すのが久し振りすぎて困惑してるんだろう。
「いい顔をするようになったな」
「貴方もね」
翠の目が丸くなる。 無表情なのかと思ってたら案外表情豊かだ。
「…強いな」
「え?」
「こんな状況に陥ったら普通は泣き喚くだろう。 理性を保てるのは心が強い証拠だ」
「…私は、強くなんてないよ。 何かあればすぐ死んで逃げようとしてたし」
「では何故今は逃げない?人生最大級の危機だろう」
「多分、分かったから」
「何が?」
「死ぬのは…逃げるのは、何時でも出来るって。 格好悪くても足掻いた方が後悔しないって」
綺麗事だって笑われちゃうかな。 死にたくても死ねない名なしにこんな事を言うのは間違ってるかな。
「未来は自分で掴み取る物で、多分お前は初めて自分から未来に向けて手を伸ばしたんだろうな」
私が掴もうとしている未来はどんな姿をしているだろう。 それはまだ遠くて、全貌どころか一端すら見えてこない。 けれど、けれど確かに、名なしの言う通り。私は自分で選んで此処にいる。 戦いを知ったら日常へは戻れない。 それどころか異世界で命を落とすかもしれない。 それでも、過去に戻れるとしても。 きっと私はこの道を選ぶだろう。
「…移動するぞ」
綺麗な花が咲き、泉のある場所へ辿り着く頃には夜になっていた。 異世界と私の世界、時差はどれ位なんだろう。 一寸考えて止めた。 後の事は後で考えよう。
「今日は此処で野宿だな」
「というか野宿以外の日はあるの?」
「……運が良ければ宿屋に泊まる。が、此処近辺の村はあの女性と行き会う可能性があるから立ち寄れない」
私達を『化物』と呼んだ女性。 心を病んだりしていなければいいけど…。
「あそこまで錯乱されると下手に記憶を弄れんからな。 何かの弾みで思い出した時本当に心が壊れる」
「そっか…」
「あの女性の心の強さ次第、だろうな…」
短い沈黙。
「…何か食べるか? 人間は物を食べなければ生命に障りがあるのだろう?」
「…今日はいいわ。…食べる気力、ない」
「分かった。空腹を感じたら言え」
「うん。有難う」
名なしは食事も睡眠も必要ないらしく、当然寝具なんて物は持っていない。 少し躊躇しながら草むらに横たわる。 星が地球で見るより綺麗。 宝石箱の中身を散りばめたみたい。
「お休み、名なし」
「あぁ。お休み」
不思議と怖くはなかった。
小鳥の囀りで目が覚める。
「お早う」
昨日と変わらない場所に、昨日と変わらない体勢で名なしがいた。
「…ずっとその体勢でいたの?」
「あぁ」
…疲れないのかしら。
「顔を洗ったらどうだ?水は澄んでいるぞ」
「…そうする」
…私、意外とサバイバル生活向いてるかもしれない。 泉の水で顔を洗う。 冷たい水は眠気を飛ばしてくれた。
「これからどうするの?」
「そうだな…お前に必要な物を揃えるか」
「私に必要な物?」
「寝袋とか食料とか衣料とか」
「でも私、お金持ってないよ?」
「オレが持ってる」
好意に甘えちゃって良いのかな…。
「体調崩される方が迷惑だ。受け取っておけ」
「…うん。有難う」
一回世界を渡って行き合せた夢魔を名なしが倒して、辿り着いたのは一軒の小屋。
「此処?」
「あぁ」
促されて中に入ると薬と草の混ざったような匂いが微かに漂う。名なしが色々注文して店主が品物をカウンターに載せていく。 …結構な量だけど大丈夫かしら?
「後は…そうだな。そのロケットを」
意外な物の名前が出て名なしを見上げる。 ロケットってあれよね。 中に写真を入れたりするペンダントみたいなの。 …武器の方じゃないわよね?
「有難う御座いました」
「…収納用だったのね…」
「鞄の類だと物盗りに狙われる可能性があるからな。 終始身に着けていられる物の方がいい」
買った物をその場で小さくしてロケットに入れていく。 ロケット自体にも魔法がかかっているらしく、写真を入れる用途のはずなのに明らかに収納量が違う。 物を小さくしたり大きくしたり出来るなんて魔法って便利。
「ほら」
しまわなかったらしい袋からパンと水か何かが入った瓶を私に差し出す。
「少しは食べておいた方がいい」
「…そうする」
あんまり食欲、ないけど。
「落ち着いたか?」
食べてみると思ったよりお腹が空いていたらしく結局全て平らげた。
「えぇ」
「近くに夢魔はいないようだ。 …が、モンスターはいるかもしれんな」
「夢魔とモンスターって違うの?」
「夢魔はこの世で最も邪悪な存在が復活のために作った手足。 モンスターはオレ達を襲う事もある生物だ」
「私の世界で言う猛獣みたいなもの?」
「魔法を使ったりする奴もいるけどな。まぁ、そんなところだ」
剣と魔法の世界には付き物だものね。
「邪悪な気配はないが近くの町まで足を伸ばしてみるか」
「分かったわ」
結局のところ今私に出来るのは名なしについて行く事だけだ。
「その『世界で最も邪悪な存在』に勝つ見込みはあるの?」
「長い時間をかけて手足をひたすら削ぎ続ければ本体の弱体化に繋がる。 …があまり時間はかけたくないな」
少し考える。
「救えない命が出てくるから?」
「あぁ。犠牲が増えれば手足を削ぐ意味がない」
「難しいわね…」
「大体の位置は掴めているからお前の覚悟が出来たら、向かおう」
名なしの言葉に足が止まる。
「…世界の危機なんでしょう?」
「世界どころの騒ぎじゃないな。この世の危機だ」
「それなのに私の覚悟が決まるまで悠長に待ってていいの?」
「あまり良くないがお前には受け口が出来ている。 気をしっかり持って貰わないと向こうの影響を直に受けるんだよ」
昨日も聞いた受け口という言葉。
「昨日の女の人は大丈夫なの?」
「受け口が出来る程深く侵食されてはいなかった」
「そう…」
逆に考えると私はそれだけ深く侵食されてるって事よね…。 何か情けないなぁ…。
「死にたがり?」
「…何でもないわ。行きましょう。…町に」
「分かった」
あまり時間はないとしても。 今夢魔を造り出した敵と向き合うのは多分無理だ。 私はきっと呑まれる。 名なしの足手纏いには、なりたくない。 夕暮れ近くになって町に辿り着いた。
「割と賑わってるわね」
露天が出たり人が行き来したりしているのを見ると少しほっとする。
「何か欲しい物はあるか?」
首を振る。
「大丈夫。必要な物は揃えて貰ったから」
「必要な物、じゃない。欲しい物、だ」
えっと…。 要不用を問わずプレゼントしてくれるって事?
「お前には苦労をかけるからな。礼位させろ」
…別に自分で望んでついて来たんだし、むしろ名なしに苦労かけっぱなしだし…あぁでも断ろうとする私の考えを見抜いたみたいに眉間に皺がより始めてる。困り果てて視線を彷徨わせると雑貨屋が目に入った。 その店に並べられた物の一つ。
十字架の上…交差する部分に三日月の乗った飾りのあるブレスレット。 何となく名なしに似てる。 そう思ったらそれが欲しくなった。
「じゃあ…あのブレスレットがいいな」
「分かった」
何か名なしにお金使わせてばっかり…。
「ほら」
わざわざラッピングしてくれたらしい。綺麗な蒼のリボンで結ばれた小袋を渡される。
「有難う。…大事に、するね」
「…あぁ」
宿の部屋は当然ながら別々。 …いや、うん。別に不満はないんだけど。 …って誰に言い訳してるんだろう。 小袋は開けずに名なしから預かった生活道具を入れてるロケットにしまっておいた。
開けたら消えてしまいそうな気がした。 馬鹿みたい、って思ったけどどうしても開けられなかった。 何時か名なしの隣に胸を張って立てるようになったら開けられるかな?
「……馬鹿みたい」
生きる時間も、世界も、価値観も何もかも違うのに。 微かに笑うところとか。 私のいう事に一々目を丸くするところとか。 一度だけ見た、爆笑するところとか。
思い出すと息苦しくなる。 馬鹿みたい。 枕に顔を埋める。 昨日より格段に寝るための環境としてはいい筈なのに全然眠れない。 傍に、隣に。 名なしがいないから。 …本当、馬鹿みたい。
「疲れてるだろうから暫く此処に滞在しよう」
朝、名なしが部屋を訪れてそう言った。
「その間は別行動だ。…覚悟が決まるまで、此処にいよう」
「…分かった」
「じゃあ、オレは辺りを見てくる」
今日の会話はそれで終わりと言わんばかりに背を向ける名なし。 …変だ、私。 誰かの傍にいるのが苦痛だったじゃない。それでクラスで浮いて苛めにあって。 家の中にも居場所なかったじゃない。 どうして名なしの傍にいたいの? 離れるのが辛い、とか。 ずっと傍にいたい、とか。私らしくない。 馬鹿みたい。 何度目かの溜息。
――あの男の傍にいたいのかえ?
突然私しかいない部屋に響いた声。
「…誰!?」
――恐がる事はない。妾はそなたじゃ。
私?
――応え。
嫌。
――傍にいたいのだろう?
私、は。
――妾の手を取ればあの男はくれてやろう。
名なしを?
――愛しい者の傍にいたいと思うのは女子として当然の事じゃ。
イトシイ?
――さぁ、応え。
口を開きかけた時、ロケットが急に熱を帯びた。 応えちゃいけない…! こいつがきっと名なしの敵だ!
「死にたがり!」
部屋に満ちていた瘴気が掻き消える。
――忘れるでないぞ。妾はそなた。離れる事はない。
蠱惑的な、囁きを残して。
「大丈夫か?」
「…一寸、危なかったかも」
名なしが大きく息を吐く。
「あれが…?」
「冥府の女王、ヘルだ。この世を常世に変えようとしてる」
ヘル。 私は…私はあいつとは違う。 名なしを愛しいと思う気持ちがあったとしても。 ううん、その気持ちがあるからこそ。 名なしが護ろうとする世界を壊したいなんて思わない。
「…ヘルの元へ行きましょう」
「…え?」
「嫌なの。あいつの思うまま世界が壊れていくのを見るのは」
そして、壊れた世界で貴方が泣くのが。
「行きましょう」
怖くないといえば嘘になる。 でもそれ以上に私は怒っていた。 心の内に土足で入られた事を。 芽生えかけた思いを利用して世界を蹂躙しようとしているヘルに、未だかつてない程腹を立てていた。
ヘルの居城へ名なしと乗り込む。 鳥肌が立つ程濃密な瘴気。
「早い来訪じゃのう。急かした甲斐があったわ」
蠱惑的な声。
「落ち着け、死にたがり。怒りは隙を生む」
名なしに言われて意識的に息を整える。 緩く波打つ薄翠の髪。 紅い唇。 金色の瞳。 姿形は天使のように優美なのに放つ気配は誰よりも邪悪。 それが冥府の女王、ヘルだった。
「そなたらに二つ、選択肢をやろう」
鈴を転がすような声。
「一つは此処で物言わぬ骸となる事。もう一つは妾の傀儡となる事じゃ」
「どちらもお断りだ」
「名なしに同意ね」
「愚かよのぅ…では…死ぬがよい!」
衝撃波が放たれる。 名なしが私を抱き締めた。 あぁ、足手纏いにはなりたくなかったのに。
「呆気ないのぅ。もう終わりかえ?」
ヘルの声に反応するように、光が満ちた。 長身のヘルより小柄かもしれない身体。 黒いロングコートと暗紅色のタートルネックのセーター。 その上を流れる真っ直ぐで長い銀の髪。 背には三対の、黒い翼。 禍々しさは感じない。 むしろその気配は馴染みのもの。
「…名なし?」
「死にたがり。一つ、感謝しよう。お前のお陰でオレは自分を取り戻せた」
少女の様な声。 二つの力がぶつかり合う。 迸る力の奔流。 ヘルは名なしの相手をするのが精一杯で私には気が回っていないようだ。 名なしに貰った銃器を構える。 引き金に指をかけるのは、狙いを定めた時だけ。 撃った事なんてない。 でも迷ってられない。
「…さよなら、私」
手向けの言葉と共に、引き金を引いた。
「ぐっ…ぁ…」
「…死にたがり…お前…」
「私にも背負わせてよ、貴方の重荷」
振り返った目は鮮やかな蒼。 あぁ、貰った小袋のリボンと同じ色。 そんな場違いな事を思った。
「おのれ…小娘がっ…」
グズグズと美しい顔が崩れていく。
「復活に十分な魂さえ揃っていれば…そなた達など…敵ではなかったものを…」
「だがこれが現実の結末だ」
名なしが球体を捧げ持つように胸の前に手を翳す。
「我、神龍の長。世界の行く末を憂う者。 今は亡き同胞の願いを叶えるため、生きる者。 常世の女王よ、闇へと還れ。 復讐を忘れた時、真なる安らぎが汝を包むだろう」
呪文というよりは祈り…或いは誓い。 その言葉が終るか終らないかの内にヘルの身体は土塊と化した。
「…夢魔の気配が消えたな」
「…終ったの?」
「お前のお陰で思ったより早く済んだな」
「…ヘルが言ってた。ヘルは私だって」
「ヒトの心の中には光と闇があるもの。 お前がヘルの言葉に惑わされていればヘルは実体化していた。 …お前の身体を使って、な」
「…私の受け口は消えた?」
答えを聞くのが怖い。 でも聞かなければいけない。
「あぁ。…お別れだ」
予想していた答え。 でもその言葉は予想以上に胸を抉った。
「私も連れて行って、名なし。私、貴方と一緒にいたい!」
困らせるだけだと分かっていたけど言わずにはいられなかった。
「お前は人の世で生きて、年を取って、出来たら笑ってあの世へ往け」
名なしはそう言って仄かに笑う。 笑顔なのに哀しそうに見えるのは、私が哀しいから?
「今なら分かるだろう?天寿を全うする事の難しさと、それを成し得る事の出来る可能性があるという事の素晴らしさが」
死ぬ事すら許されない名なしの言葉。 ずっと独りで生きてきて、助けた人には化物と謗られて。 その孤独を和らげる事が私の出来る事だと思った。 そのためなら故郷だって捨てられる。 あれ程望んだ死が手に入らなくたっていい。名なしの傍で永遠を生きたかった。 それが生物として歪んだ在り方だとしても。 名なしの傍にいたかった。 名なしが好きだった。 失いたくないと、心から思った。
「お前を不死にする事は難しくない。 だがオレはその選択肢は選ばない」
「どうして!?」
「お前がオレに抱いている感情は同情だ。 …憐れまれるのは嫌いなんだよ」
「同情なんかじゃないわ!」
何時の間にか彼に惹かれていた。 理由なんて知らない。 もっと傍にいたい。 もっと知りたい、知って欲しい。 初めてそんな感情を抱いた。
「お前の瞳は恋してる瞳じゃない。 お前が愛し、お前を愛するのは…オレじゃない」
「勝手に決めないで!お願い…一緒に連れて行ってよ…!」
「錯覚だよ。…さぁ、悪夢から覚める時間だ。 オレの事は忘れて、本来の生活に戻れ」
「嫌よ!」
「死にたがり」
静かな呼びかけだった。
「何れ分かるよ。本当の恋をしたら。 此処で別れるのが互いにとって最善だったと、何時か納得できる日が来る」
独りぼっちの天使は幼子に諭すように言葉を紡ぐ。 ねぇ、名なし。 貴方、とっても苦しそうよ? 私が我が侭ばかり言うから?それとも…少しでも私を想ってくれているから? これ以上言葉を重ねる事は貴方を傷付けるだけ?
「…名なし」
「何だ?」
「貴方の名前、教えて?思い出したんでしょう?」
名なしは一つ溜息を吐く。
「ルナエル=フィリア=ドラグネス=ドラス=ミスト=ドラグニール。 近しい連中はフィリエルとかフィルって呼んでた」
『今は亡き同胞』達だろうか。
「……貴方、男よね?」
「国のくだらない規則で女として育てられたんだよ」
「フィリエル」
「……?」
「貴方が何と言おうと、私、多分貴方が好き。…だから」
私、ちゃんと笑えてる?
「私を振った事を後悔する位いい女になるわ」
「…あぁ」
「だから忘れないで。貴方と共に生きたいと願った女がいた事。 貴方が救った命がある事」
「…分かった」
穏やかな笑み。
「さよなら」
一陣の風が吹いて私は目を閉じる。
「…朝…?」
ベッドの中で目を覚ます。 何だか不思議な夢を見た気がする。 身を起こすとシャラン、と澄んだ音を立てて何かが落ちた。 見慣れない素材で出来た小さな袋。 口を結んでいるのは鮮やかな蒼のリボン。
「……?」
こんな物、買った記憶も貰った記憶もない。 不思議に思いながらリボンを解く。 十字架の交差した部分に三日月が乗った飾りの付いたブレスレット。 やっぱり、見覚えがない。 それなのにブレスレットを見た途端涙が溢れた。懐かしいような、胸が締め付けられるような、焦がれるような。 得体の知れないブレスレット。 普段の私ならきっと捨ててる。 でも私はそれを身に着けた。
「…学校、行かなきゃ」
身支度を整える。 昨日までと同じ顔。 違うのはブレスレットが左手にある事。 誰かが傍で笑った気がした。
――少女の記憶が消え、左腕の傷が消えても 少年が彼女を忘れる事はない――
あの時の選択を
後悔しない
君が隣にいなくても
君が覚えていなくても
僕は此処にいるし
僕が覚えているから
四歳の娘は家族での買い物にご満悦の様子だ。 娘の手を引き、夫と歩く。 短大卒業と共に結婚して、二年後に娘が生まれた。娘の名は月夜。 十七の時からだっただろうか。 時折、無性に月が懐かしくなる事があった。 左手に嵌めたブレスレットが私の前に現れてからかもしれない。
自分で買った記憶も、誰かから貰った記憶もないブレスレット。 十字架の交差する部分に月が乗ったデザインのそれは現れて以来、共にある。 信号が赤になったので立ち止まる。
雑踏の中『その人』はいた。 月光を紡いだような長い銀色の髪。 透き通るような白い肌。 夏だというのにタートルネックのセーターを着ている。 そして、その目。何処までも深く、それなのに不思議な程澄んだ、鮮やかな蒼。 ブレスレットが入っていた小袋に結ばれていたリボンと同じ――。
初めて見る人だ。 こんな綺麗な人、一度見たら忘れる筈ないもの。 でも何故か懐かしい。 月に似ているから?
その人は何故か驚いたように目を瞠って私を見ていた。 …面識は、無い筈なのだけど。 信号が青に変わる。
「てんしさま?」
「…え?」
容姿に相応しい、澄んだ声。性別を感じさせない人だ。…年は…高校生位かしら。
「ごめんなさいね、この子が変な事を言って」
天使と呼ばれたその人は月夜の頭をそっと撫でて私に向き直ると微かに笑った。
「いえ。…貴方の娘さんですか?」
「えぇ。…似てないかしら」
「似てますよ。…お若いから、姪御さんかと」
「ふふ、有難う。…日本へは、観光で?」
「えぇ、まぁ」
曖昧な返事。
「日本語がお上手なのね」
「…敬語は、正直苦手なんですけどね」
苦笑気味に笑った後その人はふと真剣な目をして不思議な事を尋ねてきた。
「今、幸せですか?」
「えぇ。月夜…娘と、夫がいて。とても幸せよ」
「…良かった」
「…何処かで会った事、あったかしら?」
初対面の、擦れ違っただけの間柄で聞かれる事ではない。 何よりその人は私の問いに本当に安堵したようだったから。
「……初対面、ですよ」
「…そうよね。…ごめんなさいね。何だか懐かしい感じがしたの」
緩く首が振られる。 その動きに伴って首から下げたロケットが揺れた。何となく、見た事のあるようなデザインだけど…ロケットには詳しくない。 ロケットをじっと見ているとその人は微かに首を傾げた。
銀の髪がサラサラと靡く。 あぁ、本当に。 月の精霊か、月を守護する天使の様だわ。
「…それじゃあ、行くところがあるので」
「えぇ。行きましょう、月夜」
「うん。ばいばい、てんしさま」
「さよなら、小さいお嬢さん(リトル・ミス)」
やっぱり外人さんなのね。
「…お幸せに」
「有難う」
冬華は娘の手を引いて再び歩き出す。 かつて恋をした少年の事を、最後まで思い出せないまま。
擦れ違った後、少年が本当に優しく、何処か寂しげで、けれど満足気でもある笑みを一瞬だけ浮かべた事にも、気付かないまま。
「…綺麗になったな。――冬華」
少年は空を仰いで、小さく呟いた。少年が冬華の名を疑問形ではなく、正しい音で呼んだのはこれが最初で最後だった。
――二人の道は、もう交わらない――
幸せを祈ってくれた名も知らぬ人へ
貴方の幸せを、私にも祈らせてくれますか?
笑顔の中に垣間見える影が消える事を
願わせてくれますか?
月に似たひと 貴方に
懐かしさを感じたのは どうしてかしら