1章-5
暗く静かな闇に包まれて、ノエルは未だ眠れずにいた。
共にフェレットを目指す。自分が自由になった後のことなど、考えたこともなかったのだ。
水底に静かに揺蕩う。目を瞑って思い出される記憶はやはりナノに救われた時のことだった。
ふっと目を開く。水面に揺れる三日月のきらめきに手を伸ばす。
いつも、一人。どうしてなのだろうか。自分たちの面倒を親切にみてくれる彼女が、一人が好きなようにはどうしても見えない。そういえばゲルブに乗り込んできたときも単独だった。巡る考えにすっかり頭が冴えてしまう。
水底を蹴って水面から顔を出す。濡れた髪が顔に張り付いて鬱陶しい。
彼女の役に立って恩返しがしたいと、心の底からそう思っている。
迷う事はない。林の一画に植えられた桃色の花の花弁が水面に落ちる。物珍しそうに救い上げればゆらゆらと揺れた。ゲルブには咲いていなかった花の一種だ。
ノエルはようやく考えに整理がついたようで口元を緩ませた。
明日、この花の名前を聞くと共にこの気持ちを伝えよう。
「ウ!!」
意気込むように飛び出した声に苦笑いした。まずは人語を取得しなければ。自分の口から彼女に意気込みを伝えることはできない。
さんさんと照りつける陽光は、しかし穏やかな温かみだった。エンリケ島の北部、活気のある商業の街である東部から離れた位置にある学問街。
そびえ立つ一際人目を惹く大きい図書収蔵保管庫に目を奪われる。横長く鎮座する保管庫は前門を大きく堂々と構えていた。人の往来も激しく活気があって賑やかだ。
「すごいでしょ!」
こくこくと頷くばかりのノエルにエンは噴き出す。
ユピテルがあるエンリケ島は三区に分かれ、北部は学問区、東部は商業区、西部は居住区とも呼ばれる。ユピテルは中でも学問区の中心地に位置し、この図書収蔵保管庫は学問区の中でも商業区に近い位置にある。
「政府機関があるとはいえその職業上、ユピテルはどこの国にも贔屓をしてはならない。他国からは政治的な意味における不可侵領域とされているわ。そのために本部がこういう『島』におかれているの」
おそらくフェレットを目指し入島してきたであろう様々な人種が道を行き来している。ユピテル内部も様々な肌、目、髪の色の人々が行き来していたが街に出るとそれは如実に目に映った。
「フロンティア探索を担うだけあって、ここには世界中の名産なんかが集まるの。海路を持っている商業区を中心に毎日物が運ばれてくるのよ!もちろん書物なんかもね」
なるほど、だから図書収蔵保管庫はこの位置にあるらしい。海路を使って搬入されてきた書物がすぐにこの保管庫へ保管されるのだろう。
中は自分を取り囲むように聳え立つ本棚が規律を持って整列している。自分が読める文字もあれば読めない字で書かれた本もある。
一見無秩序に配列されているように見える本のラインナップに首を傾げる。なぜ言語の違う本が隣合って置かれているのだろうか。
両脇の本が借りられて一つだけぽつんと取り残された赤い背表紙の本が目に留まる。取ろうとして、しかし身長が足りず手も届かない。
「その本棚の本、取ってもいいか」
「ウ……ウ!?」
邪魔になってしまったと申し訳ないと言うように軽くお辞儀をして退いてからその顔を見て思わず驚きの声が漏れる。
ウルラは前と同じ冷徹な目でこちらを見ていた。
「アリアケの新しい子飼か。今日はうるさい犬はいないようだな」
エンは自分も借りるものがあると別行動をしている。かなりタイミングが良かったと言える。渋い顔をするノエルに、ウルラは不可解そうに眉を潜める。
「なんだその顔は。文句でもあるのか」
文句ならば沢山あるが、ひとまず自分が彼に聞きたいのは一つである。
「なぜ、嫌い?」
絞り出すように吐き出すように端的な問を投げかける。ウルラは簡単な単語の羅列に不意をつかれ、拍子抜けしたように目を見開き、ノエルの眼差しから逃げるように本棚へと向き直る。
「お前に語る理由はない」
自分には読めない文字のタイトルが印字された赤い背表紙の本に手を伸ばし、そのままノエルの方めがけて軽く投げてくる。
焦って受け止めようとし、なんとか落とさず受け止められたがおでこに本の角がぶつかった。パリッという音と共におでこから鱗が剥がれ落ちる。二重の意味で物凄く痛かった。ノエルは額をさすりながら頭の中で恨み言を並べる。
「異形の者。たとえお前に罪がなくとも、俺はお前達を許さない」
投げた本が収納されていた棚の下の段から目当ての書物を抜き取りノエルに背中を向けそう言い残す。つかつかと歩き去る背中からはたしかな憎悪が感ぜられた。
赤い背表紙の本は、どうやら児童書らしい。児童書程度の文言であればなんとか音読できるだろうか。
額を擦りながらウルラの背中を見送った。
「お待たせ!じゃあ商業区の方回って帰ろう!」
ナノは司令で出かけてしまった。行き際に少しだけ話をしたが一週間ほどで戻ってくるらしい。それまでに自分の言葉で伝えられるようになるのだ。意気込むノエルは本を抱え込みエンと共に街へと踏み出した。
踏み出したと同時だった。
「怪我人だよ!どいてどいて!通して!」
やや甲高いようなそんな声が響き渡る。商業区の中心、各種店が並ぶような大通りは騒然としていた。
「……なんだろう?」
エンは耳をピンと立てて聞き耳を立てている。不安げな顔をしながら大衆の間を小さな体ですり抜けつつ騒動の中心へ向かおうとした。
慌ててノエルもそれに続く。
「落ち着いてよ、リオンが追っているから!だからここは体勢を立て直そう?だから一旦休んで、ナノちゃん」
血塗れのナノが、そこにいた。自分で歩こうと肩を貸す憲兵の小柄な少年の制止も聞かずに自力で立ち歩こうとして、膝から崩れ落ち地に手をつく。血がどっと零れ落ちた。ぜえぜえと荒い息をつきながら吐き出すように声を絞り出した。
「駄目……です……あの人は……あの人には聞きたいことがあるから……!!
私が追います……!!」
頭部を強打したのか額からだらだらと生暖かい血液が流れる。赤い瞳が一層赤みを帯びて刃物のように鈍く光る。
そうか、と口にしたつもりの声はただの呻き声になってしまう。
一人である理由。小さく華奢な体に、彼女は確かに鬼を飼っていた。