1章-4
廊下には人があまりいなかった。もともと旅支度の仮宿のような機関であるため珍しいことではない。
応接室の戸を軽く叩く。間をあけずに木製の扉の向こうから「入ってくれ」の声が聞こえてきた。
「こんにちはスノウさん。報告書の件で来ました」
「うん。まあ掛けてくれ」
ナノは言われた通りソファに腰掛ける。決して広くない応接室には大窓が一つとソファが石製テーブルを囲むように三つ配置されている。10時に来ると分かっていたからかテーブルには紅茶の湯気がたつティーカップが設置されていた。
当のスノウ本人は立ったまま窓の外の様子を伺いながら返事を返している。スノウの目元は眼鏡の奥で穏やかに弧を描いていた。目線の下には花壇の近くで深刻そうな話をする二人の少年少女の姿。
気が済んだのかゆっくりとナノの向かいのソファに腰掛ける。
自分にしては長くなって分厚くなった報告書をテーブルに広げられ、ナノは少しだけ背筋を伸ばした。
「要約するとゲルブ国にて魚との混血の合成種を保護した、ということだそうですね。事の顛末といかに大変だったのかは、普段は報告書の薄いあなたが5枚も書いて多少厚みがある事からよくわかりました」
軽く叱られている気がする。普段からこのくらい書けと言われている気がする。ナノは居心地の悪さを感じて目の前のティーカップに手を伸ばした。
口に紅茶の香りがふんわり広がる。フクシア産の茶葉か、と頭の片隅で考えながらカップを机に置いた。
「ノエル=カーティスは魚類との混血、と、いうのもどうやら人魚と人との間に生まれた……生まされた子供であるようです。
その生まれ持った性質から幼少期を王城にて軟禁状態で過ごし、17歳になると同時に政治の道具として担ぎ出された。その命を道具として捧げるよう強制されていたところを保護しました」
「報告書通りですね。
しかしゲルブで合成種を保護した。いつも通りに彼を孤児施設へ連れて行く。それでは駄目なのですか」
書類から顔を上げたスノウと視線がかち合う。
その問いかけは、いつかきっと問われるだろうとは思っていた
「気になったのですよ。普段ならあなたは報告書もそこそこに次のフロンティアへ向かうのに、今回は3日もここに留まっている」
紅色の水面に映る自分の顔が揺らぐ。問われるとは思っていたが、だがその答えをナノはまだ得ていなかった。
「……私もよく、分からないんです。どうにも頭の片隅に引っかかっていて」
道具のままは嫌だと叫んだ彼の声が耳から離れない。脳裏に張り付いて剥がれない。どこか既視感があるような気がするが、どうにもはっきりと思い出せない。
「とにかく人魚自体が稀少な存在です。いつまたゲルブの時のような恣意的な人が現れるか分かりませんので、最低限の身の守り方を教えたら、私は再び探索に戻ろうと思っています」
「一人で?」
含みを持たせるような物言いである。声色とは裏腹にスノウは優しげにナノを見つめていた。
「それほど気になるならば弟子として迎えればいいではないですか」
「……私は弟子をとる気はありませんと、いつも」
眼光が鋭くなる。睨み付けるようなナノの視線にやれやれと溜め息をつく。自分のティーカップに口をつけ、ほう、と息を吐き眉尻を下げた。
「しかし困りましたね、実は貴方を呼び出したのにはもう一つ理由がありまして……。その人魚の件の後始末、と言ったところでしょう。ゲルブ国の王が何者かに暗殺されました。暗殺を試みた輩は現在領域線を超えてフロンティアへ逃げ込んだ模様です。ディアナとともに現場へ向かい、犯人の回収を頼みたかったのです」
「……暗殺」
「ええ、開国の要求を済ませ返答待ちのところでした。どうせさっさと出かけるでしょうからついでにお願いしようと思って。ですが今の話を聞くにしばらくはここに留まるんですよね?でしたら他の……」
「いえ、行きます。兄の頼みを断るほど薄情ではありませんよ」
その表情筋が死んでいるような真顔っぷりなら薄情と言われても仕方はない気がする。
「すまないね、ナノ。ああ、なんだったら護身術は僕がノエル君に教えておこうか?」
「結構です。眼鏡も満足にかけられないスノウ兄さんに教えられる護身術なんかありません」
辛辣なコメントを残してドアノブに手を掛ける。スノウは慌てたように耳に手を掛ける。眼鏡の上下が逆になって逆さになってしまっていた。
23にもなって情けないドジっぷりである。
「もっと早く言ってくれよ!!」
どのタイミングでコメントすべきだったのか測りかねていたナノはそのまま静かに戸を閉めた。