1章-2
端的に言うと、人型の魚を救出した。冗談ではない、真面目な話である。
とある国のとある王様に政治の道具に使われていたというのだからあきれた話である。ノエルという人型の魚は厳密には魚との混血の合成種であり、水、特に淡水では無く塩分濃度の高い海水を好む。しかし好みなだけで水であればひとまずなんでもいいらしく、目を離すと水気のある場所へ飛び込んでいってしまう。おそらく陸地での生活より水中での生活が好ましいのだろう。
上記の考察からナノは本部から少し遠くにある湖を彼の住処として提供した経緯があった。
湖は総合外交機関ユピテルの敷地内に、職員たちにより植えられた木々が鬱蒼と茂る林を抜けると、林に守られるように鎮座している。先代達が今はもう数少ない原生の湖だけは蹂躙されぬようにと作った林のメイズ。それがここである。と、先代の手記に記されていた。
木を隠すなら森、魚を隠すなら水辺。まだ彼には不透明な点が多くある。少なくとも、国政に利用されるような秘められたものがあるのだろう。
それが分からないうちから、隠す術を教える前に自由を与えても、また拘束されるか、あるいは研究所へ送られてしまう事になるだろう。自由なき生など、死と同じである。本能的にそう直感して囚われの彼に手を差し伸べたのだ。
周囲の木々や鳥、虫にへと落ち着きなく視線を動かしながら、自分にしがみついてたどたどしく二足歩行するノエルから目を離し、ナノは点々と降り注ぐ木漏れ日を見上げ目を細め一人思う。
ユピテル本部は1軒の不動産を基準とした適切な広さの事務所である。ディアナよりは狭く、ミネルヴァの支店よりは広い。
3階建ての事務所は横に広く、東館、中央館、西館の三つに分かれており、中央館が運営の中枢として機能している。また屋上には大きな時計と鐘が設置されユピテルの目印、シンボルとして存在していた。
東館2階の一室を自室として与えられたナノはベッド下の収納棚からバスタオルを一枚取る。
一人で使うには広い部屋に必要最低限の家具のみが配置されているのがより殺風景さを際立たせている。部屋の中央に木製の椅子を設置し、ノエルに座るよう促せば素直に座るノエルの濡れた髪を手慣れた動作で拭き始めた。
「もしかしたら食事は人のものがいいかと思ってここまでお呼び立てしたのですが……」
ノエルは分かっている、と言うように頷く。機嫌がいいようで小さく歌を口ずさんでいる。外は先ほどののどかな温さはいつの間にか身をひそめ、しとしとと雨が降っていた。雲は薄い、時期にやむだろう。
ささやかな雨音をかき消すような荒々しい足音が聞こえる。階段を駆け上り長い廊下を駆けその音は段々と近づいてくる。音の停止と同時に自室の扉が勢いよく開かれた。開かれたというよりはぶち破られたという表現の方が似合っているかもしれない。ぼんやりと思考して手を休める。
「おはようございます、エンさん」
「もう!!いつまで寝てるのナノ!!朝御飯の時間に間に合うようには降りて来てって昨日言ったのに!!噂の合成種……あれ?」
イヌ科の獣耳を怒りに震わせてエンは一気に捲し立てる。全長はおよそ1mと少し。小柄な少女は尾の毛を逆立てて部屋の中へズンズンと侵入して来て面を食らったように立ち止まった。
「起きてる……?」
「失礼ですね。私だって早起きすることくらいありますよ」
表情を変えずに応じる。ノエルはぱちくりと眼を瞬かせていた。
物珍しそうな眼差しを自分の耳に向ける少年に、同じように好奇心交じりの視線を不躾に注ぐ。
「この子が例の合成獣?」
「ええ。ノエルさんです。ノエル=カーティス」
ノエルは肯定をするようにお辞儀をするように頭を振ってから少し迷ったような表情をした。
「ああ、ごめんなさい。こんにちは、私はエン=ハティ」
「エ、ン……」
「そう。エン。この名前はナノが付けてくれたの。ナノの国で言うところの人と人との繋がりを表す言葉なんですって」
「ゥ、ウウ。ウ」
唸り声のような声を絞り出すように発声するノエルにエンは腰を折り曲げて目線を合わせて相槌を打つように頷く。
「そうでしょう。……喋れないのね、珍しくないわ。練習すれば大丈夫だから」
「……彼の言葉、わかるんですか?」
タオルを椅子の背もたれに投げ掛けていそいそと布団の中に潜り込もうとしながらナノは驚いたように尋ねる。
「同族だもの。分かるわよ。」
当然でしょと付け足したその顔は自慢げな笑みが浮かんでいた。仁王立ちに尻尾が左右に大きく振られ、褒められたことに対し嬉の感情を視覚的に振り撒くエンはノエルに向き直ると両手を握る。
「そんなことより!朝食!!」
歩行を補助するようにノエルと両手を繋いだエンに叱咤され肩を竦める。二度寝は許してもらえないらしい。