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         11.五月二九日(月)


 平和なキャンパスライフのはずなのに、心のなかは不気味なさざ波が絶え間なくわきたっていた。

 講義の声も、耳を素通りしていく。

 来るべきときが来た──そういう覚悟にも似た圧迫感が、胸のなかに広がっている。

 彼は……桑島刑事は、だからここに来たのだ。

(わたしの無事を確認するために)

 あの犯人が復活した。

 生贄殺人……。

 自分だけが生き残った。

 十二人。

 そして、新たに三人が……。

 なぜ、自分だけが助けられたのか。

 助けられた?

(ちがう)

 あれは、助けられたのではない。なにかの意思をもって、生かされただけなのだ。

 ひよりは、ふと思うことがある。

 あのまま自分も、殺されたほうがよかったのではないか。

 そのほうが、楽だったのではないか……。

 一度だけ、この思いを心療内科の先生にぶつけたことがある。事件のあと、定期的にカウンセリングを受けていたのだ。何人かの医師に診てもらった経験はあるが、一番信頼できて、一番好感をもてる先生だった。

 その先生には、『サバイバーズ・ギルト』だと診断された。

 聞き慣れない言葉だった。

 たとえば、飛行機事故などで、たった一人だけ生き残った場合などに発症する、特殊な心理状態だという。

 自分だけ死ななかったことに、罪悪感をおぼえる。

 いっしょに死んでしまえばよかったと、本気で考えるようになる。

 人によっては、自殺願望が芽生えることもあるそうだ。

 先生からは、こうアドバイスをもらった。

 もし、自分の存在を罪に感じるようになったなら、犯人のことを憎みなさい──。

 すべての感情を超えるものは、「怒り」だけなのだと。

 あなたは、まだ恵まれている。事故などの場合には、憎悪を向ける対象がいないことも多いのだ……と。

「ひより?」

 夏美に声をかけられた。どうやら講義は、いつのまにか終了していたようだ。

「なんだか、よくぼうっとしてるよね」

「そんなことないよ」

 そう口にしてはみたものの、そのとおりだと思った。

 講義の内容も全然覚えていないし、この会話も、うわのそらなのだ。

「ねえ、いいかげん教えなさいよ。なんで、あの不動産屋さんがテレビに出てたの? なんで、ひよりに会いにきたの?」

「それは訊かないで」

 ひよりは、力なく応じた。

「あの人、警察の人なの?」

 一昨日の電話でもそうだし、今日になっても同じようなやり取りを繰り返している。

 ひよりは、桑島刑事と会っていたところを見られたのが、夏美一人だったという現実にとても安堵していた。身近な人間で、すべてを知っているのは、寮母の藤崎だけだ。しかしこれが、もっと多くの人たちに知られる事態となったら……。

 ひよりは、憂鬱な気持ちを振り払うように立ち上がった。

「次、なんだっけ?」

「矢萩先生よ。どうする、サボっちゃう?」

「わたしは出るよ」

「よく出る気になるね。あんな退屈な授業」

「単位どうすんの?」

「あの先生、そういうの甘いみたいだよ。どうにかなっちゃうって、先輩が」

 矢萩という講師は、メキシコを中心としたユカタン半島を専門にしている考古学者だった。たしかに生徒たちからの評判はかんばしくなかったが、ひよりは、矢萩の人柄も授業の内容も、嫌いではなかった。

「夏美は好きにして。わたしは出席するから」

「しょうがないなぁ。いくよ、いく、わたしも」



 授業から開始五分で、となりの夏美は、すこやかな寝息をたてていた。

 生徒の数は、まばらだ。お世辞にも、人気のある講義とはいえなかった。講師の矢萩の年齢は、四十前後だろうか。けっして醜男というわけではなく、線の細い文学系の顔だちをしている。若いころはそれなりにモテただろうと推察することもできる。もう少し女生徒からの支持があってもよさそうなのだが、なぜだかそうなっていない。

 性格も、陰険というわけではなく、むしろ気弱で、草食男子の元祖のようだ。夏美のように、とても広いとはいえ王道のストライクゾーンなら話はべつだが、独特な趣味をもつ女子からも、好かれているという話はいっこうに聞かなかった。

 もしかしたら若いころは、桑島のようだったかもしれない──と、そんな想像が脳裏をよぎった。

 桑島刑事。一瞬、彼の顔が頭のなかを占領した。

 頬が紅潮するのを自覚した。

 どうしてしまったのだろう!? これではまるで、恋い焦がれる乙女心のよう……。

 土曜夜の、生贄犯に宣戦布告した姿が、自然に思い描かれた。ひよりは、われを取り戻すようにかぶりを振った。

「古代マヤ文明の神官は──」

 耳を、講義に向ける。

 まるで、催眠術でもかけているような抑揚のないしゃべり方が、退屈とレッテルをはられてしまう原因なのだ。

(ん?)

 矢萩が、なにかに気づいたように、表情をわずかだが変えた。

 いや、思い過ごしだろうか……。

「今日は一つ、おもしろい話をしましょう。マヤ文明に関することです」

 矢萩が、それまでの講義の内容を中断し、話を転じた。が、そもそも講義を真剣に聞いている生徒自体が少ないから、混乱は生まれなかった。

 次の瞬間、あるワードが、突き刺さるように、ひよりの鼓膜を直撃した。

「マヤ文明では、神々に『生贄』を捧げていました」

 生贄……。

 もちろん、ひよりだって、それぐらいの知識はもっている。マヤ文明だけでなく、生贄の儀式がおこなわれていた文明は、数知れない。近代まで継続していた種族もいるのだから。

 だが矢萩は、それを前後の脈絡無しに語りはじめたのだ。それだけに、生贄、という言葉だけが妙に浮き上がっていた。

 矢萩は、だれに向けて講義をはじめたのだ!?

 生徒に……では、ないような……。

「心臓をくり抜いて、剥いだ皮を被り、神官は踊ったといいます。地獄絵図ですね」

 やはり、生徒へ向けたものではない。

「……ん、どうしたの?」

 夏美までが異変を察知したのだろうか、眼を醒ましていた。

「生贄に選ばれることは、とても栄誉なことでした。球技──サッカーとバレーボールを混ぜたような競技なんですが、勝敗で負けた側の選手ではなく、勝ったほうが生贄になったという説も有力です。現代に生きるわれわれとは、考え方も価値観もまるでちがうんです。よろこんで生贄となっていた」

「なに、この話?」

 夏美の問いに答える気持ちにはなれなかったので、そのまま無視をした。

「しかしそれだけでは、説明はつかない。いかに栄誉なことであるとしても、死の恐怖は現在も古代も変わらないはずです。生贄の儀式に、キノコやヒキガエルから抽出した幻覚剤を使用していたことは知られていますが、その効果もあるでしょう。……ここからは私見になりますが、それだけではなく、催眠術のようなものを神官はほどこしていたのではないでしょうか。多くの観客も熱狂していたといいます。それは集団催眠だったのではないか……と。それにより、死への恐怖をなくし、観客の熱狂を呼び覚ました」

「……」 

「なにか、質問がある人はいますか?」

 矢萩の講義で、実際に質問をする生徒など見たことがない。しかし今日の矢萩は、必ずだれかが質問してくるであろうことがわかっているような雰囲気があった。

「では、お言葉に甘えて質問させていただきます」

 教室中に、その声は響いた。

「宗教のバックボーンがない人間が、生贄の儀式をおこなったとします。その場合、なにを意味していると思われますか?」

 ひよりは、発言者を見た。いや、眼で確認などしなくても、それがだれなのかわかっていた。

「宗教観というものは重要ではありません。神を信じていなくても、無意識のうちに宗教家と同じ行動をとっていることもある」

 矢萩は、なにごともないかのように答えていく。部外者が質問をしていることは気にならないようだ。

 というより、それをよく承知しているかのよう……。

「それは、犯人が──たとえば快楽殺人者だとして、生贄儀式のような殺人を犯したとしましょう。本人は、自分の欲求のままに殺害したと思っていても、無意識のレベルでは、目的をもって神に生贄を捧げていた……そういうことでしょうか?」

「私は、犯罪心理学者ではないので、それについては、どういうふうにも答えることはできません」

「先生の見解を教えてください。なんの目的をもって、神に捧げたのでしょう?」

「それを考えるのは、あなたの役目でしょう? 桑島さん」

 教室中が、異質な空気に包まれていた。

 普段の講義にはない、緊張感があった。

「ね、ねえ……あの人……」

 何人かが気づいたようだ。桑島の正体を。

「テレビ出てた人だよね?」

 たちまち、まばらだった室内に、ざわめきがおこった。

「ひ、ひより!? どうなってんの!?」

 夏美の顔にも、驚きの色がありありと出現している。

「しかし先生もご存じのとおり、事態は急を要します」

「大丈夫ですよ。あなたは私の教え子のなかで、最も優秀でした。必ずや、つきとめることができるでしょう」

 そして、終業を告げるベルの音が放送で流れた。

「今日は、ここまでです」


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