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40.?月?日(?)
夢を見ていた。
扉が開く夢だ。
二度と開かないと思っていた扉が……。
この夢、できることなら……ずっと、醒めないで、ほし、い……。
41.六月八日(木)午前二時半
重い扉が、次元の入り口を解き放つように動き出した。
部屋のなかは暗い。なにがあるのか、一見しただけではわからない。
ライトのなかに、いまにも消え入りそうな蝋燭の炎が見えた。
すぐに消えた。
なかに足を踏み入れて、どういう状況なのかを理解した。
空気が薄い。
「聡美さん! 鈴村聡美さんっ!」
危機を察して、桑島は叫んだ。
「鈴村聡美さん、いますか!?」
懐中電灯の光を、縦横無尽に走らせる。
部屋の奥、ベッドのような台があった。
「吉原さんは、そこで待ってて」
桑島は一人、奥のベッドへ向かった。
そこでは、鈴村聡美が仰向けに眠っていた。いや、気絶しているのか……。
手足は拘束され、暗闇なので断定はできないが、顔色も蒼白に感じた。
「鈴村さん!」
彼女の身体を激しく揺すった。
意識は無いが、かろうじて呼吸をしていることは、胸の上下で確認できた。
窓がないようだから、扉が閉まっていたことにより、部屋の酸素が欠乏していたのかもしれない。扉を開けてさえいれば、これ以上の悪化はないだろうが、一刻も早く外へ出したほうがいいだろう。
両手には、それぞれ手錠がはめられ、ベッドの柵につながれている。下半身はロープでベッドにくくりつけられていた。右足に足枷もされているようだが、そちらのほうはどこにもつながっていない。
手錠の鍵は当然のこと見当たらないし、ロープすら簡単に解けそうもない。
桑島は、部屋の隅々を素早く観察した。壁際に斧のようなものが立てかけられていた。
それで手錠の鎖とロープを切断しようと考えた。
それを取りにいくまえに、何者かが斧を手にしていた。
何者か? ここには、あと一人……ひよりしかいない。
「吉原さん?」
次の瞬間、桑島は眼を見張った。
ひよりが、斧を振り上げていた。
本能が危険を察知し、思考するまえに身体が動いていた。
「なにをするんだ!?」
胸のすぐ前を、鋭い風が通過していく。
あまりのことに、懐中電灯を手放してしまった。
「吉原さん!」
ひよりからの返事はない。
落ちた懐中電灯の光は、彼女の足元を照らしていた。
顔は、うっすらとしか見えない。
これまでに感じていた違和感は、杞憂などではなかった。
「キミは、だれだ!?」
* * *
「キミは、だれだ!?」
彼女は、
わたしは、
「雨宮小夜」
* * *
雨宮小夜──。
ひよりは、確かにそう口にした。
高梨の妹であり、十二年前、バス事故で亡くなっている少女。
高梨親子は、小夜をよみがえらせるため、生贄事件に身を染めていくことになった。
高梨は、死ぬ間際に言った。
自らの死をもって、生贄は完了したと。
妹の小夜が、よみがえるのだと……。
そんなことが、ありえるのだろうか!?
桑島はそれ以上、思慮をかさねるわけにはいかなかった。
二撃目が来たからだ。
それまで顔のあった位置に、重量感のあるものが叩き込まれていく。
頭を沈めていなければ、桑島の生涯は、まちがいなく閉じていた。
彼女の立ち位置が移動したため、ライトの光に、わずかだが表情が浮かび上がった。
「キミは、雨宮小夜じゃない……キミは、吉原ひよりだっ!」
しかし、こちらからの声が届いているのかどうか……。
これまでにも、彼女が彼女でなくなっているような瞬間はあった。
ついきさほど、鍵穴を選んだとき。
そして、あのときも……。
あのとき──日付は変わってしまったが、まだ、その夜が続いていることが不思議だった。それほど今夜は、いろいろなことが集約されている。
警察署で、紙飛行機の話をはじめたときも、ひよりはおかしくなっていた。
(いまのこれも……?)
また異常な状態になっているのか、それともべつのものか……。
すくなくとも、生贄によって死者がよみがえることだけは、絶対にない。
「眼を醒ますんだ! キミは、雨宮小夜じゃない!」
「わたしは、雨宮小夜」
「ちがう!」
「どうして、そう言い切れるの? まさか、常識ではありえない……そんなつまらないこと言うわけじゃないわよね?」
ひより──雨宮小夜と名乗る吉原ひよりは、挑戦的な瞳を向けた。どこか惚けたような表情のなかに、眼光だけがはっきりしていた。
桑島の言葉で、彼女の奥底に眠る《なにか》が覚醒したようだった。
「言い切れる」
桑島は、自信をもって答えた。
「雨宮小夜さんが……小夜ちゃんが、人の命を奪おうとするはずがない」
「ハハハハ!」
哄笑が響いた。
「バカみたい! わたしのこと、知りもしないくせに」
「キミが、雨宮小夜でも、吉原ひよりでも、このぼくは殺せない」
両手を広げて、桑島は一歩前へ出た。
「なにを言ってるの?」
「高梨なのか、矢萩なのかは知らない。キミにそれを仕掛けたのなら、大きなまちがいをしている。もし雨宮小夜さんが生きていたとしたら、彼女は人の死を望むだろうか?」
「……!」
ひより──雨宮小夜の動きが止まった。
どちらの心に響いたのか。
聞いたことがある。いくら催眠術で暗示をかけたとしても、殺人を犯させることは困難だと。
だが次の刹那、それが希望的観測だったと思い知らされた。
彼女の眼に、狂気がやどった。
斧が、再び振り上げられていた。
* * *
この男を──桑島を殺さなければ、わたしの……雨宮小夜の生命は、黄泉の国にもどらなければならない。
殺すのだ。
〈殺してはだめ〉
べつの声がした。
〈殺してはだめ〉
あなたは、だれ?
〈よみがえった……あなたのなかで〉
だれ?
〈娘……あの人の……〉
よみがえった……あの人の……娘?
娘? よみがえった……。
雨宮小夜ではない。
雨宮小夜は、あの人の『妹』だ。
では……?
〈パパのこと、ゆるして……報いはうけるはず。天罰が必ずくだる〉
矢萩……先生の……。
〈殺人は、いけないことよ〉
あなたは、だれなの!?
〈わたしはよみがえった。あなたとともにある〉
あなたは……いえ、わたしはだれ!?
吉原ひより。
雨宮小夜。
矢萩先生の娘。
だれだかわからない……。
わたしは……。
〈悪いものは、わたしがはらってあげる〉
わたしは──。
〈精一杯、がんばりなさい〉
その言葉は、あなたが……?
〈ちがいます。あなたとは、いまはじめて会いました〉
では、だれの言葉なの?
〈いずれ、思い出すこともあるでしょう〉
……。
〈いっしょに生きましょう。あなたは、生きることをゆるされた。それは、罪ではありません。生きることもまた、苦しいことなのですから〉
わたしは……。
わたしは、吉原ひより──。
* * *
「わたしは、吉原ひより」
桑島は、死を覚悟した。
だが斧は、寸前で止まっていた。
「桑島さん……」
「吉原さん……?」
「はい」
ひよりは、短く返事をした。
懐中電灯の微かな光が、正気にもどった瞳に反射していた。
「わたしは、もう大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ひよりの返答に迷いはなかった。かといって、作為的なものも感じない。
「……よかった」
「彼女を助けましょう」
ひよりから斧を受け取ると、鈴村聡美を拘束している鎖とロープを切断した。
彼女の身体を抱えると、梯子まで運んでいく。意識は無かったが、息をしていることは確かだった。なにごともなく眼を覚ましてくれればいいが……。
「だれかいますか!?」
梯子の上から声がしていた。
「います!」
「桑島警視!? 下ですか!?」
「そうです!」
応援部隊が来てくれたようだ。別れ道をこちらに向かうように、足跡を強く残してきたかいがあった。
彼らの力を借りて、鈴村聡美を地上へ。すぐに手配された救急車で病院へ搬送した。車が入ってこれる例の地点まで人力で運んだのだが、そのあいだも彼女が意識を取り戻すことはなかった。が、救急隊員の話によれば、命に別状はないだろうということだ。
ほっと胸を撫で下ろしていた。
小屋には、大勢の捜査員・鑑識が詰めかけて、深夜の山は、にぎやかで明るい場所になっていた。さきほどまでの静寂が嘘のようだ。
すぐ横には、ひよりがいる。
「助かったんですね、彼女」
「ああ」
騒がしいといっても、少し小屋から離れると、やはり静かなものだった。
ひよりの声が虫の鳴き声に混じって、クリアに伝わる。
と──、携帯が音をたてた。
桑島は出た。
「……はい」
『生きているということは、失敗したということですか。まあ、そんなものでしょう。暗示で人は殺せない』
通話相手は、言った。
「あなたの目的がわかりました。鈴村聡美さんの監禁場所へ、ぼくと彼女を誘うことだった……ちがいますか?」
『おもしろいと思ったんですがね。鈴村聡美さんをまちがえて誘拐したのは、あなたの推理どおりですよ。で、どうせなら、試してみようと』
「……」
『吉原ひよりさんに競技場で暗示をかけておいたんですよ。まあ、普段から、かかりやすくなるように細工をしてあったからできることなんですけど』
「講義ですね?」
『そうです。わかっていましたか』
講義を暗示につかっていた。ひよりが眠くならなかったのは、ひよりに暗示をかけるためだった。邪魔なほかの学生のほうを眠らせていたのだ。もしかしたら、ひよりも完全に起きている状態ではなく、トランス状態にされていたのかもしれない。
『六つのなかから、どれかを選ぶときに、雨宮小夜になる──と、暗示をかけました』
つまりそれは、六つのどれを選んだとしても、彼女がそうなるように仕掛けられていたということだ。
「正解は、どれでもよかったんですね?」
『思慮深いあなたなら、勝手に妄想してくれると考えたんですよ。あなたたち二人で、六つのどれかを選ぼうとする』
まんまと、相手の──矢萩の術中にはまっていたのだ。
「かしてください」
突然、ひよりがそう言うと、携帯電話をむしり取られた。気のせいか、声音がちがっていたような……。
「悪いことをしましたね?」
『きみは、だれなのかな?』
いまでは、ひよりの耳元にある携帯だが、しっかりと桑島にも聞き取れた。
『きみは……だれなんだ?』
矢萩は、繰り返した。矢萩にも、それがひよりであるということはわかるはずだ。だが、そう問いかけていた。
なぜだか桑島にも、その問いが理解できた。
「悪いことをしましたね、パパ」
『ま、まさか……』
「娘のことを忘れたんですか?」
『バ、バカな……』
「なにを驚いてるんですか? パパは、わたしをよみがえらせるために、悪いことを考えついたんでしょう?」
『そ、そんな……こと……』
矢萩の驚愕が、桑島にも伝染していた。ひよりが演技をしているようには感じなかった。
『む、娘は……加奈は……まだ小さかった、そんなしゃべり方はしない!』
「あの世でも成長するんですよ、人間って。そうそう、ジャガーもこっちにいます」
悪戯っぽく、ひよりは──ひよりではないかもしれない彼女は言った。
『な、なにを……』
「ジャガーのこと、忘れちゃったんですか? 飼いネコだったサバンナキャットのジャガーですよ。六年前に死んじゃったでしょ」
『な、なぜそのことを!』
桑島にも、信じられなかった。
サバンナキャット……そういえば、那須君子の殺害現場にその毛が残されていた。ひよりの口にしたことが真実だとすれば、そのネコはすでにこの世にはいない。矢萩がそのネコの毛を保存しておいて、現場に置いたことになる。
「悪いことをしたら、必ずその報いをうけなければなりません。わたしは、ゆるしません。たとえ、実の父であろうとも」
『か、加奈……』
「どこへ逃げようとも、桑島さんとひよりさんが、パパを追い詰めるでしょう」
まるで、宣戦布告をしているようだった。
『わ、私は……なんてことを……』
届いてくる矢萩の声からは、後悔の念が色濃くあらわれていた。
吉原ひよりを使って、飛行機事故で亡くなった娘をよみがえらせようとした。高梨親子も、そのための道具だった。
五年前に十二人。そして、さらに四人──合計十六人の女性を葬った。たとえ実行犯は高梨親子だったとはいえ、その罪は限りなく重い。
その罰が、一瞬で矢萩に襲いかかっているようだった。
『か、加奈──』
なにかを言おうとする矢萩の声が、急に途切れた。
一方的に、彼女が通話を切ったのだ。
「キミは……?」
「わたしは、ひよりです」
「……電話に出たのは?」
「加奈さんです」
ひよりは、淡々と答えた。
「いまも、わたしのなかにいます」
「……」
「心配しないでも大丈夫だと思います。桑島さんが、さっき言ったように──雨宮小夜さんがよみがえったとして、殺人を望むわけはない。それと同じです。加奈さんは、悪いことを望んでいません」
多重人格のようなものだろうか……それとも幻覚・幻聴のたぐいだろうか?
だが、ひよりではわかるはずのない飼いネコのことを知っていた。
「わたしを助けてくれました」
「で、でも……」
「いまは、結論を出すときではないはずです」
ひよりは言った。それまでの、どこか自信のない彼女はいなかった。彼女のなかで、この不可思議な現象も、すでに消化されているかのようだ。
ならば桑島も、それを信じるしかなかった。
「終わりましたね……ひとまずは」
「そうなるかな」
矢萩は、おそらく海外へすでに逃げている。これだけ用意周到な計画を立てたのだから、日本警察の権力がおよばない国に渡ってしまうだろう。日本は、アメリカと韓国の二国としか、犯罪人引渡し条約を結んでいない。その他の国とも外交ルートを使って、地元警察を動かすことはできるだろうが、すべての国々でそれができるわけではない。下手をすれば、このままどこかの国の裏社会に溶け込んで、二度と会いまみえることはないのかもしれない。
それとも、またこの国へもどってくることがあるのだろうか?
「わたし、進路を変えようかなぁ」
唐突に、話題がうつろった。
「え?」
「警察官めざすのって、どうですか?」
「考古学のほうは?」
そこで気がついた。もし、これまでの推理どおり、矢萩の催眠や暗示で、ひよりの嗜好が操られていたのだとしたら、考古学の道を進もうとしたこともまた、矢萩の思惑かもしれないのだ。
「桑島さんみたいに、キャリア警察官っていうのも悪くないですね」
応対に困ることを言われた。
「そうすれば、ずっといっしょにいられるかも……なんて」
少し照れながら、彼女は言った。さらに返事の困る内容だった。
「部署が同じにならなけりゃ、そうはいかいないよ」
「夢のない言い方ですね」
彼女は笑った。
桑島も、つられて笑う。
「ま、ゆっくり考えてみます」
「そんなに簡単じゃないよ、国家公務員試験は」
「精一杯がんばれば、なんだって叶います。それに、わたしをだれだと思ってるんですか? わたしに不可能なんてありません。だって──」
自信たっぷりに、彼女は続けた。
「わたしも、《ノマド》なんでしょ?」




