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37.六月八日(木)
一時間半以上をかけて、どうにかたどりついた。すでに日付は変わっている。山梨との県境に近い。幹線道路を離れてからは、心細げな山道が続いた。本当に正しい道を進んでいるのか、何度も不安になった。
こんなところの公衆電話を使う人間がいるのかどうか……桑島には推測することもできない。すくなくとも、こんな深夜に使用する者は絶対にいないはずだ。
周囲は真っ暗なのに、電話ボックス自身の灯と、すぐ真横に立っている常夜灯の明るさだけが、ひどく目立っていた。
「ここですか……?」
ひよりが、意を決したように問いかけた。
「ああ」
桑島は、短く答えた。ひよりには、車のなかで待っているように伝えたのだが、聞き入れてもらえなかった。
時刻は、深夜一時を過ぎようとしている。
懐中電灯を、まわりの闇に向けた。
どちらの方角へ踏み出せばいいのか、まったく見当がつかない。
そのとき、激しい光に眼を射抜かれた。
「だれですか!?」
桑島は、鋭く声を発した。
「桑島警視ですか!? ここの駐在です!」
制服を着た警察官が自転車にまたがっていた。
ここへ向かう途中に津本管理官へは連絡を入れてあるので、彼が手配してくれたのだろう。応援の捜査員もこちらに急行しているはずだが、西青梅署からの距離を考慮すれば、あと十分から二十分はかかるはずだ。
「いやあ、ここまで遠かったでしょう」
駐在員の話を聞いてみると、駐在自身も、ここへ来るのに三十分以上かかっているという。車と自転車のちがいはあれど、駐在所からここまでも、ごく近い場所とはいえないようだ。
ここは、木の伐採をおこなっている山へと続く分岐点らしく、だから公衆電話が設置されているということだった。普段は営林署の職員が立ち入るだけで、一般の人間を見かけることはないという。しかも、いまは先月の大雨で何本もの木が倒れ、この先へは、車は通行止めになっているそうだ。
「山小屋のようなものはありませんか?」
「わかりません。ただ、この先を行けば伐採場所ですから、もしかしたら休めるようなところがあるかもしれません」
桑島は、そこへ向かうことにした。
「真っ直ぐですね?」
「はい、ここを。途中、倒木があって、進めなくなっていると思いますが……」
「歩きで行くので大丈夫です」
駐在員に案内してもらうこともできたが、このあと、ここに応援の捜査員が駆けつけてくれるはずだ。彼には、そのためにここへ残ってもらったほうがいいだろう。
ひよりもここへ置いていくという選択もあったが、絶対に聞き入れてくれないことを悟って、口に出すこともしなかった。
懐中電灯を頼りに、山道を進む。
かろうじて道のようになっているが、舗装もされていないし、車一台通るのがやっとの狭さだ。伐採所があるということは、大型のトラックも出入りしているはずだが、ここを通過するなど想像するのも難しい。
街灯のたぐいはない。闇のなかを泳いでいくようだった。
懐中電灯を向けても、そこには樹木の姿しかない。
ひよりの緊張した息づかいが、震えるように伝わってくる。いまにも、この闇のどこかから襲われる恐怖があった。もし自分一人だけであったなら、足が竦んで動けなくなっているだろう。
ほぼ前方にしかライトをあてていない桑島だったが、ひよりのほうは不安をかき消すためか、方々に懐中電灯を向けている。
「あ!」
ふいに、彼女が声をあげた。
胸が張り裂けそうになった。
「どうしたの!?」
「あれ……」
ひよりは、道の左側頭上を照らしていた。
木の枝葉に、なにかが引っかかっていた。
思わず息をのんだ。
「……!」
紙飛行機だった。
高いところにあるので、取ることはできそうもない。
予感があった。
「こっちか……」
見れば、左へ伸びる小道があった。
いや、道と呼べるような代物ではない。もちろん、車など通れないし、徒歩でも簡単な道ではなさそうだ。獣道よりはましとはいえ、とてもではないが、そこを進もうとは普段なら考えない。
「ん?」
下を照らした桑島は、小道の脇にスペースがあるのを見て取った。ちょうど、乗用車一台分の空間だ。そこだけ草が折れ、タイヤ痕も残っていた。だれかが最近、ここへ駐車したということだ。
営林署の職員とも考えられる。通行止めになっているとはいえ、ここまでは倒木などなかったからだ。ここまで車で来て、徒歩に切り替えたのかもしれない。だが桑島は、もう一つの可能性を信じていた。
ここへ車を停めて、この小道を進んでいった。
数秒で、確信に変わった。
「こっちへ行こう」
紙飛行機は、道標だ。そちらへ導くための──。
二人は、さらなる闇へ足を踏み入れた。
念のため、小道の入口付近に、わざと足跡を濃くつけておく。後続の応援部隊にわかってもらうためだ。
どれぐらい進んだだろうか?
弱気になっていることを、桑島は自覚していた。犯人が潜んでいるのではないか、という想像は、まだまともなほうだ。
この地域に生息する野生動物のことも脳裏をよぎった。熊は、奥多摩にいるだろうか……そのほかに危険な生物は、日本にいただろうか!? 狼はいないにしても、野犬はいる。深夜にここを通過するということが、危ないことなのかどうか──それすらもわからなくなっている。
道を踏み外しても斜面にはなっていないだろうから、転落することはないはずだ。熊のことはよくわからないが、ここは東京だ。それほど危機的状況ではない。
そうだ。ただ暗いだけだ。
冷静にならなくては……。
自分が恐慌をおこせば、ひよりはどうなってしまうのだ。
「あれ」
ひよりの声が、天使の救いのようだった。
灯のなかに、一軒の小屋のようなものが浮かび上がった。
電気はついていない。人が住むような小屋ではないのだろう。
煙突らしきものが見える。桑島は、小走りに近寄った。ひよりも、同じスピードでついてくる。
「これ、焼き物?」
煙突の根元には、大きな窯のようなものがある。地面を照らすと、壺や皿が散乱していた。
「日本のものじゃありません」
ひよりが言った。
「どういうこと?」
「これ、マヤの遺物です」
そういえば、土偶のようなものもある。たしかに日本では眼にしたことがない形だ。
(いや……ある)
桑島は、思いなおした。矢萩の部屋に飾られていたものと似ている。
では、ここは……。
矢萩は、焼き窯をもっていると語っていた。
ならば、ここに鈴村聡美が監禁されているはずだ。
人の気配はどこにもない。窯の奥が小屋になっているようだ。そこへ向かった。スライド式の扉がある。鍵はかけられていない。どうやら、焼いたものを保管しておくところらしい。
「だれもいませんね」
ここではないのだろうか……!?
焦りがつのる。もし、この推理がまちがっていたら、はたして鈴村聡美に続くヒントは、まだ存在しているのだろうか?
いったい時間は、あとどのくらい残されているのだろうか!?
小屋のなかをくまなく調べた。
だれかが囚われている気配はない。
床を歩く靴音だけが、虚しく響いているだけだ。
コツ、コツ、コツ。
それに、木の軋む音が混じる。
「どうしますか?」
ひよりの問いかけは、ある意味、残酷だった。ここには居ないから、べつのところをさがしましょうと、うながしているのだ。だが、そうしたくても、そのあてはどこにもない。
「ここなんだ……ここしかないんだ、もっと調べよう」
コツ、コツ、コツ。
軋む音。
「ちがうと思います……ここじゃありません」
「まだなにかあるかもしれない。ここじゃなくても、次につながるヒントが隠されてるかもしれない」
「……ここは引きましょう」
コツ、コツ、コツ。
「ぼくは、あきらめない」
「桑島さん!」
「……救えないのか……」
絶望感にうちひしがれた。
「あきらめるわけじゃありません! 必ず救い出しましょう! そのために一旦、引き上げるだけです」
言い聞かせるように、ひよりは語った。力強かった。もはや、ただ一人生き残った被害者ではなかった。
彼女も、戦う側の人間だ。
「わかってる……わかってる……」
それでも、桑島は小屋のなかを見回った。
すがるような思いだった。
コツ、コツ、コツ。
軋む音。
コツ、コツ、コン。
「え?」
ひよりの声が、なにかの異変を知らせていた。桑島にはわからない。彼女の顔へ振り向いた。
「そこだけ、音がちがいます」
……そこだけ、音?
よく理解できない。
なんの音だろう?
すると彼女が、わざと音をたてるように、足踏みした。
コツ、コツ。
木の床と靴底が、乾いた音を響かせる。
コツ、コン。
「あ」
音のちがう箇所がある。
桑島も、そこに靴底をあてた。
コン!
金属製の響きだった。
棚のある付近だ。
懐中電灯をあてる。
棚のある位置と重なるように、そこだけ鉄でできていた。
「これ……」
桑島は、棚に手を触れた。
「動く」
それほど力を入れなくても、棚は移動をはじめた。壁と平行に横へスライドさせる。底部に車輪がついているのだろう。
棚をどかすと、床に1メートル四方の鉄板があらわれた。蓋になっているようだ。
「地下……」
鉄の板を二人で持ち上げると、そこに正方形の穴が出現した。
梯子もかけられている。
穴の底を照らす。
よく見えない。下りてみるしかなかった。
「ぼくが合図するまで、下にきちゃだめだ」
この先に、どんな危険が待ちかまえているかわからない。かといって、上が安全ともかぎらない。できるかぎり、いっしょに行動していたほうが賢明だ。
桑島は、梯子に足をかけた。
下ってゆく。
底も暗かった。懐中電灯で、辺りの様子をさぐる。
コンクリートの壁が両側を塞いでいる狭い通路となっていた。
「大丈夫だ」
すぐに、ひよりも下りてきた。
桑島が先頭になって、通路を歩く。といっても、数歩で行き止まりになった。
鉄扉が行く手をさえぎっている。
「ここでしょうか?」
桑島は、扉に手をあててみた。
引いても、押しても、横へスライドさせても、扉はビクともしない。
もしここに鈴村聡美が監禁されているのならば、当然、鍵が厳重にされているはずだ。
「聡美さん! なかにいますか!? 鈴村聡美さん!?」
返事はない。そもそも、こちらの声がなかまで届いているのかも疑問だ。
「どこかに鍵があるはずだ」
「犯人が持っているのかもしれません」
そうだとしたら、厄介なことになる。強引に蹴破れるような扉ならべつだが、ここまで重そうなものだと、数人がかりでも壊すことは困難だ。開錠のプロにお願いするか、金属を切断できるほどのカッターを使用するしかない。どちらにしろ、手配するのに時間がかかる。
「鍵穴は、これですか……あ、ここにもある……」
本当だった。鍵穴が一つではない。
「ここにも……」
合計で、六つもあった。
「六個も必要ってことですか!?」
たとえ小屋のなかに鍵が隠してあったとしても、そのすべてを集めることは簡単ではない。すべてが一つの束になっていることも考えられたが、矢萩のことだからバラバラに隠してあるだろう。
これは、挑戦なのだ。
鍵は、この小屋──もしくは小屋近辺にあることは、まちがいないだろう。だが、普通ではわからないようなところに……。
どちらにしろ、時間がかかる。
いったい、なかはどうなっているのだ!?
鈴村聡美は、どれほど危険な状態なのだろうか!?
「鍵をさがしましょう」
勇気づけるように、ひよりが言った。
桑島もうなずく。さがすしかないのだ。
すぐに上へ登った。
「あるとしたら、このなかとかじゃないですか?」
ひよりが、落ちていた、ひと形の焼き物を手に取った。
振ってみる。
コロン、コロン、と音が鳴った。あきらかに、なにかが入っている。
おたがい言葉を交わすことはなかったが、桑島もひよりも、それが鍵だということを予感していた。
ひよりが、床に人形を叩きつけた。
破片にまぎれて、鍵が落ちていた。
「ありましたね」
「ああ」
これについても、おたがいが疑いの眼を向けていた。
こんな簡単にみつかるはずがない。
「どういうことでしょうか?」
「とりあえず、一つを手に入れた」
そう言いはしたが、桑島は釈然としなかった。
「次をさがしましょう」
「……」
「桑島さん?」
「……本当に、鍵は六個あるのかな?」
「どうしたんですか?」
「いかにも、みつけてくれと言わんばかりだったよね?」
「そうですね……あの土偶、目立ってましたし」
桑島は、矢萩の言葉を思い出した。
──六つの館から救い出せますか?
「鍵は、一つだ」
「え?」
「鍵をみつけるまでは、犯人にとっては挑戦でもなんでもない。ここからなんだ。扉へもどろう」
再び、地下へ向かった。
「その鍵一つで、開くんですか?」
「開く。でも……」
「でも?」
「差し込む穴をまちがえたら、二度と開かなくなる」
* * *
開かなくなる──。
桑島の言動に、ひよりは薄ら寒さを感じた。
いまだに矢萩が犯人だと、ひよりは信じきれていない。あの誠実な先生が、こんな凶悪なことを思いつくだろうか。桑島の言うとおりの仕掛けがほどこされているのなら、まるで名探偵と天才犯罪者の頭脳くらべのようではないか。
「みて、それぞれの鍵穴の下に、模様が描かれてる」
桑島の指の先を確認した。懐中電灯の光のなかに、それがたしかに浮かび上がる。
剣。
ネコ科の動物……豹?
火……炎?
コウモリ……。
一つには、なにも描かれていなくて、残りの一つには、やはり豹のような動物なのだが、ひどく薄っぺらい。
「六つの館だ」
「マヤ神話の?」
「キミも、体験してるだろう?」
桑島の言わんとしていることがわからなかった。六つの館のことなら知っている。
闇の館。
剣の館。
寒冷の館。
ジャガーの館。
炎の館。
コウモリの館。
マヤ神話『ポポル・ヴフ』に出てくる内容だ。書籍や資料で眼にしたことがある。
「……あ!」
ひよりは、思わず声をあげていた。どうして、いままで思いつかなかったのだろう?
檻から出されて、つれていかれた六つの部屋……。
あれは、六つの館──六つの試練をあらわしていた……。
サッカー場で犯人の語っていたこと……数々の謎の言動にも、すべてではないが、納得がいった。
「この、なにも書かれていないところが、闇だと思う」
「じゃあ……この、薄っぺらい動物が」
残っているものは一つしかない。『寒冷』を表現しているのだろう。剥いだ動物の皮。寒いときに羽織るから……。
「このなかの一つだけが正解なんですか?」
「たぶん」
たぶん、と言っておきながら、桑島には確信に似たものが心に鎮座しているようだった。
「正解は、どれですか?」
「わからない」
ここにきて、その言葉が出てくることに、苛立ちすら感じた。
「どうにかならないんですか!?」
彼にあたることは、筋違いなのも承知している。しかし、ここまできて、こうして手をこまねくことしかできないなんて。
「考えるしかない」
「……」
「ぼくだけじゃない。キミも考えるんだ!」
桑島の強い視線が、ひよりをとらえていた。
「ぼくたち二人しかいない。力を合わせよう」
心の奥に、いまの声がこだまする。
「……はい!」
不謹慎かもしれないが、桑島の言葉に、ひよりは嬉しさを感じていた。




