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35

         35.同日午後十時


 病院では応急手当てだけにしてもらい、桑島は西青梅署に向かった。

 ひよりと夏美も、西青梅署に移されて事情を聞かれているということだった。競技場からは離れているが、彼女たちの生活圏であり、警視庁の管轄で、しかも捜査本部でもある西青梅署のほうが良いという判断があったようだ。

 桑島に聴取する目的でやって来た神奈川県警の捜査車両に乗せてもらって、西青梅署まで移動した。刑事課のオフィスに行くと、来客用のソファに、ひよりと夏美は座っていた。

 周囲には、二人の精神的ショックをケアするためか、数人の婦警が配置されている。

 二人は、向かい合うように座る男性刑事から、話を聞かれていた。

「吉原さん!」

 桑島は、強めに声をかけた。

「く、桑島さん! 病院は!?」

「そんなことはいい! 矢萩先生から、なにか預かったり、なにか言われたことはない!? なんでもいい! とにかく、おかしなことはなかった!?」

「矢萩先生……ですか?」

 とても、困惑した様子だ。

 だが桑島はかまわずに、ひよりへ迫った。

「先生がどうかしたんですか!?」

「メキシコへ行ったときのこと、なにか思い出すことはないかな!?」

「そ、そんなこと言われても……さっきも答えましたけど、小さいころだし……」

「どうしたんだ、桑島君!?」

 彼女たちとここへ戻り、捜査本部に詰めていたであろう津本管理官が顔を出した。

「事件は、まだ終わってません!」

「わかってる。行方不明になっているという女性は、なんとしてもみつけだす」

「ちがいます。犯人は、もう一人……いや、真の犯人がいるんです!」

「どういうことだ!?」

「彼女たちの大学で講師をしている矢萩という男を調べてください」

 その言葉に、ひよりも夏美も、驚いたように反応する。

「……わかった。矢萩だな?」

「そうです」

 しかし……もう彼は、おそらく手の届かないところに逃げているはずだ。その思いが、表情に出ていたのだろう。

「どうした、桑島君?」

「……残念ですが、すでに矢萩は──」

「逃亡しているということか!?」

 桑島は、うなずいた。

「とにかく、捜査を進めてみよう」

 津本は刑事課を出ていき、捜査本部にもどっていった。臨時の部屋を引き払って、いまでは会議室に再設置されたようだ。

「本当なんですか、桑島さん!?」

「本当だ」

 信じられない様子のひよりに、桑島は断言した。

「メキシコ旅行で、矢萩に会っていないかな?」

『先生』を取って、問いかけた。

「で、ですから……当時の記憶は……うちの親なら」

「すでに問い合わせたんだ。ご両親は、会ってないって」

「だったら、会ってないと思います」

「だが、必ず矢萩は、キミと過去に接点をもっているはずなんだ。なにか、心に引っかかってることはないか? 記憶のすみに追いやってることはないか!?」

 桑島は、ひよりの瞳をみつめた。

 鈴村聡美へのヒントは、ひよりに残したと矢萩は言った。ひよりとともに、みつけだしてみろ──とも。

 ひよりに、かけるしかなかった。


        * * *


 桑島の眼光が、とても痛く身体に突き刺さっていた。

 まるで、攻撃をうけているようだった。自分が、なにをしたというのだ。

 なぜ彼にまで、こんな態度をとられなければいけないのだろう……。

 熱いものがこみあげてきた。

 涙が、頬を伝っていく。

「泣いてる場合じゃないんだ!」

「……」

「キミの記憶に、一人の女性の命がかかってるんだ」

 たとえそうだとしても……。

 わたしなんて、やっぱりあのまま助からなかったほうがよかったんだ──ひよりは、またあの感情に支配された。

 自分一人だけが生き残った。

 わたしも、あのまま死んでいたほうが!

 ふいに、抱き寄せられた。

「……え!?」

「キミも、《ノマド》だ」

「ノ、ノマド!?」

 どんな意味だろう?

「ぼくと同じだ。キミも、一人でさまようライオンなんだ」

「……」

「一人じゃない……」

 桑島の声が、心の奥に届く。

「二人で、さがすんだ!」

 ひよりは、自らの体重を彼にあずけた。

 体温が伝わる。

(飛行機)

 頭のどこかで、そのワードが浮かんだ。

 飛行機に、なにかがあった。

 そう。それはわかった。だが、詳しくは知らない。まだ小さかったから。

 だれかが見ていた。

 幼かった自分のことを、だれかがみつめていた。

「飛行機……、たぶん事故だったんです」

 ひよりは、つぶやいた。

 桑島の抱きしめる力がゆるんだ。

「帰りの飛行機に乗ろうとしたとき……」

 迷子になってしまった。

 そのために、自分たち家族は助かった。

「だれかに、見られてました……わたし」

 それが、矢萩先生だったのだろうか?

「そうか」

 なにかに気づいたように、彼が声を出した。

「似ていたんだ……キミに」

「似ていた?」

「矢萩の部屋の本棚にあった写真……娘さんの」

「お嬢さんの?」

 娘さんの話なら、何度か聞いたことがあった。幸せな家庭だと、うらやんだことがある。

 自分と同じ、大学生のはずだ。

「キミに、似ている」

「ま、まさか……」

「たぶん、そのまさかだ」

 彼は顔つきを鋭くし、刑事の一人に声を放った。

「管理官のところへ行って、矢萩のお嬢さんが存命しているかを調べるようにお願いしてください!」

 そのときになって、抱きしめられていることに恥ずかしさをおぼえた。夏美などは、口をあんぐりとあけて、好奇心に満ち満ちて、こちらを凝視している。まわりの婦警や、刑事たちも同様だ。

 声をかけられた刑事が、思い出したように部屋を出ていく。

「あ、あの……桑島さん……」

「あ、ああ」

 彼も恥ずかしいシチュエーションに気づいて、慌てたように身体を離した。

「い、いま……愛の告白したよね?」

 夏美が、よけいなことを口にする。

「というより、プロポーズ!?」

 顔が赤くなっているのを、自覚していた。

「そ、そんなんじゃないわよ!」

「そ、そうだ、そんな場合じゃないし……」

 彼も、あきらかに冷静さを失っている。

 ひよりは、落ち着くように深呼吸を繰り返した。いまは、甘い感情など不謹慎だ。

「矢萩の娘さんは、おそらく死亡している。メキシコの飛行機事故で。悲しみに暮れていた矢萩は、空港で娘に似た少女を目撃した」

「それが……わたし……」

「高梨親子と同じだ。ポポル・ヴフの神話。球技の試合で、双子の一方をよみがえらせようとしたんだ。ちがう……高梨親子は、矢萩に利用された」

「どういうことですか?」

「高梨は、キミを選んだのは、神の御告げだと言った。それはつまり、矢萩の指示だったんだ」

 意識が朦朧とするさなか、たしかに二人のそんな会話を聞いていた。

「キミが小さいころから、矢萩はキミに眼をつけていた。キミは、どうしてあの大学に行こうと思ったんだ? なぜ、考古学を専攻しようと考えたんだ?」

「それ、電話でも訊いてましたよね?」

 答えは、自分でもわからなかった。

 ひよりは、首を横に振る。

「キミは、あのとき正気じゃなかった」

「あのとき?」

 すぐに理解した。試合会場でのことだ。

「催眠術のようなものにかかっていた」

「そんな……」

 信じられなかった。神秘の力にかかっていたなど、SFの世界ではないか。

「催眠は、超能力のようなものじゃない。れっきとした技術だ。精神科の治療にも使われている」

 もちろん、そんなことは知っている。ひより自身、催眠療法を受けたこともある。

 しかし、それを利用して人を操るなど、荒唐無稽もいいところだ。

「生贄の儀式では、集団催眠がおこなわれていた……矢萩は、そう持論をもっていた」

「それは……授業で聞いたことがあります」

 桑島が乱入したときだ。

「矢萩が、催眠術にたけていたとしても不思議なことじゃない」

「じゃあ、わたしは……先生に催眠術をかけられていたんですか?」

「今夜だけじゃない」

「……」

「幼いころから、かけられていた可能性がある……いや、それは催眠術ではないのかもしれない。だが心理的トリックを使って、キミを考古学の世界に導いた」

 やはり、信じられる内容ではない。

「五年前、キミはどうやって誘拐された? 証言では、帰り道を歩いていたら、意識をなくしたと言っていたね? 気がついたら、あの洋館にいたと」

「そうです……」

「こうは考えられないか? 今日のように、キミは催眠術のようなものをかけられた。もしかしたらそれは、被害者全員かもしれない……」

「そ、それ……わたしもですかね?」

 発言したのは夏美だった。夏美も、気がついたらあの地下室にいた、と言っていた。

「そうかもしれない」

 それでも、信じられる内容ではなかった。

「それに、気になることがある。あの講義だ」

「講義?」

「矢萩の講義。みんな眠ってしまうんだよね?」

「そ、それって……催眠……術……」

 そのつぶやきは、途切れてしまった。

「でも、ひよりは眠ったことないですよ」

「そ、そうですよ。わたしに催眠をかけるために講義を使っていたなら、わたしがまっさきに眠くなってるはずです」

 夏美の言葉に、そう続けた。

 桑島にも、その疑問の答えは用意できていないようだった。だが催眠うんぬんは置いておいて、先生が犯人であるという説を否定する材料がないのも事実だ。

「本当に……犯人なんですか? 先生が」

 桑島は、返事をしなかった。うなずきもしない。強い瞳で、みつめ返してくるだけだ。

 その眼光が、ゆるがない事実だと告げていた。

 覚えているともいえないほどの、かすかな記憶。

 飛行機事故。

 空港で見ていたのは、先生?

 飛行機。事故。

 全員が死亡。

(わたしのことを……)

 娘だと妄想しているのなら──。

(死んでいない)

 一人だけ、生き残った。

(わたしだけが、生き残った)

 サバイバーズ・ギルト。

(わたしは二度、生き残った)

「吉原さん? どうした!?」

 わたしは、矢萩先生の娘……。

「どうした!?」

 飛行機。

 飛んでいる。

「しっかりしろ! キミは、だれだ!?」

 どこかで飛んでいた。

 ふわり、ふわり。

「キミは、だれだ!? 答えるんだ!」

 ふわり、ふわり。

 飛行機。

 軽やかに飛ぶ。

「正気にもどれ! キミは、だれだ!?」

 あれは、紙飛行機。

「飛行機……」

「キミは、だれだ!?」

「わたしは、ひより。あなたは、桑島さん」

 ほっとしたような、彼の表情。

「紙飛行機です」

「大丈夫か?」

「大丈夫です。正気です」

 紙飛行機が飛んでいた。

「さがしに行きましょう」

 ひよりは言った。

 まだ心配げな彼の顔を見ながら、ひよりは繰り返した。

「さがしましょう」


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