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ひよりが飛び出してきたことによって、高梨の表情が変わった。
そうだ。彼にとって、ひよりは妹なのだ。
殺せない……ひよりだけは、殺せない。
桑島は、前に出た。隙は、一瞬しか生まれない。
そこからは、世界が時を止めたようだった。
突き出された刃物。ひよりが割り込んだことにより、高梨の殺意は鈍っている。
桑島は、刺されて自由にならない左腕を、懸命に伸ばした。
ひよりの位置を越え、刃物の切っ先に吸い込まれていくようにつかんだ。
手のひらが痛みを訴えた。
かまわない。
ひよりを右腕で振り払い、高梨の眼前に迫った。
高梨は、余裕の笑みを浮かべた。すぐに、驚愕へ転ずる。
凶器を封じられたことに、ようやく気づいたのだ。
桑島は左手を握りしめた。
絶対に放さない!
力のかぎり、身体ごとぶちあたった。高梨の上に覆いかぶさるように、倒れ込んだ。
右の前腕で、高梨の喉を押さえつける。
「終わりだ!」
「ま、まだだ……」
左手で押さえている刃物が、息を吹き返したように突き上げてくる。
さらに強く握った。
どれほど流血しているのか、考えてはいけない。
惨状を見てしまったら、全身の力は、たちどころに抜けてしまうだろう。
高梨も必死に抵抗している。凶器を握る左手が押し上げられ、腹部に刃先が当たっていた。
それにかまわず、右腕に全体重をのせる。
「ぐ、ぐうう」
高梨の呼吸を一時的に止める。頸動脈を絞めて血流を止めることができれば簡単に失神させられるが、桑島にその技術はない。
首全体を圧迫して、呼吸を止める。
窒息させるしか勝機はなかった。
「う、ううう……」
殺す気で、体重をかけた。
左手への抵抗が無くなった。
高梨の口からは、泡のようなものが吹き出ていた。白眼を剥いている。
桑島は、喉にあてていた右腕をはずした。
左手を開いて凶器を放そうとしたが、しかしうまく動かなかった。
薄暗くてもわかった。手のひらと前腕部から、相当量の血が流れている。それを知っただけで、気が遠くなっていく。どうにか刃物を手放して、高梨から距離をとった。
「桑島さん!」
「大丈夫だ……」
呼吸が乱れ、ドクドクと血管の音が耳の奥に伝わっていた。
「おなか、刺されてます!」
腹部──シャツが染まっていた。二撃目で裂かれた右脇腹の出血は、痛みにくらべれば、あまりないようだ。
「大丈夫だよ……」
同じ言葉を繰り返した。
腹部に痛みはなかった。脇腹とは逆で、痛みにくらべ、出血はしているようだ。が、刺されていたとしても、表面を少し切ったぐらいだろう。それよりも、左腕のほうがつらかった。感覚がない。激痛というよりも、腐り落ちてしまう寸前のような虚脱感。それが左手に集中している。このまま、一生使えなくなってしまうのではないかと、絶望のような感情がわきあがってくる。
「これで縛ります」
ひよりがハンカチを取り出していた。
「いや、友達のほうをさきに」
いまだ拘束されている夏美に眼を向け、言った。
ひよりが、夏美に駆け寄っていく。まずは、口のテープを剥がした。
「ひより……?」
どうやら、彼女もなにかしらの術に──集団催眠のようなものにかかっていたようだ。状況をよくわかっていないようだった。むしろ、それは幸いなことだといえる。
「怪我はない!?」
「う、うん……」
縄を解こうとするが、なかなかできない。切るものが必要のようだ。
桑島は、高梨に近づいた。
まだ彼の手にある凶器を奪うことにした。
白眼のままだった。意識はないが、死んではいないはずだ。
凶器を手にする直前、高梨の瞳に力がやどった。
マリオネットが立ち上がるように、高梨は起き上がっていた。
「桑島さん!」
ひよりの声が、悲鳴のように聞こえた。
左手が使い物にならないこの状況では、もうどうすることもできない。
「最後の生贄だ!」
しかし刃は、べつのものを刺し貫いた。
高梨自身の首筋!
自らの喉を掻き切ったのだ。
「これで……小夜は、よみがえる!」
血がしぶく。
桑島は、ただ呆然とその光景を眺めていた。
起き上がったときと同じように、高梨はマリオネットのように崩れ折れた。
「鈴村聡美さんは……どこだ!?」
無駄なことはわかっていたが、訊かずにはいられなかった。
予想どおり、答えはない。
すでに息絶えていた。
「わたしは、あなたの妹さんじゃない……」
そのつぶやきが、すぐとなりで聞こえた。
ひよりの瞳は、正常にもどっている。もちろん、彼女以外のだれかでもない。
高梨の妄想に、幕が下りたのだ。
──コウモリの館でフンアフプーは、カマソッツにより頭を切り落とされる──首を刺しつらぬいた高梨の亡骸と、イメージが重なった。
そのかたわらに、ポツンと、コウモリの死骸が転がっていた。
試合が終わったちょうどそのころ、警察が大挙して押し寄せることになった。救急車も呼ばれたが、桑島は乗ることを拒否した。
ひよりと夏美に、怪我はないようだった。
「桑島さん、病院に行ってください!」
捜査員と鑑識が動き回っているさなか、ひよりに強く言われた。まるで、責められるように。
「まだだ……鈴村聡美さんが……まだだ」
最後まで、高梨は口を割らなかった。
意地だと思った。自分への。
みつけたければ、みつけてみろ──そう挑戦されたのだ。
「いまでも、どこかに監禁されている……もしかしたら、命が危ないかもしれないんだ」
高梨の言動からは、その可能性が高い。
「で、でも……」
ひよりの横では、夏美が座り込んで毛布にくるまっている。殺害されそうだったことは、あまり覚えていないようだが、高梨が自害した場面はしっかりと眼にしたことになる。かなりのショックだろう。噴き出した高梨の血流で、周囲は地獄絵図となっている。しかも鑑識が持ち込んだライトによって、いまでは室内は明るい。血の赤が鮮明だ。
「事件は終わってないんだ……まだ」
それは、鈴村聡美の件だけではないような気がしていた。
「ほかにも警察官はいっぱいいるでしょう!? 桑島さんばかりが危険なめにあうことはないはずです!」
ひよりの語気は厳しかった。
桑島の胸に、驚きが駆け抜けた。こういう部分も、彼女にはあったのか……。
「このお嬢さんの言うとおりだよ、桑島君」
声をかけてきた者がいた。管理官の津本だった。神奈川県警だけでなく、警視庁の捜査員も多く臨場している。
「いまは、おとなく救急車に乗りなさい」
「しかし……」
「君だけが動くことはない。君の武器は、むしろ頭脳だろう? 病院でも、頭は使えるはずだよ。連絡をくれれば、優秀な捜査員が、君の指示どおり的確に行動してくれる」
ため息をついた。仕方なしに、桑島は従うことにした。
「お嬢さんたちは、署のほうでお話をよろしいですか?」
ひよりが、津本にうなずいた。夏美も、軽く頭をさげる。
そのさまを見届けると、桑島は会場の外まで自力で歩いた。
捜査員たちが、血にまみれた姿に驚愕していた。遠くからの野次馬たちの視線も、恐怖と好奇心に満ちている。待機していた救急車に、桑島は乗り込んだ。
左手──前腕と手のひらからの出血は、ひよりと夏美のハンカチのおかげだろうか、いまのところ止まっているようだ。もちろん、素人の見立てでしかないが……。腹部と右脇腹は、もともと大した傷ではない。
救急隊員が傷口を確認して、心配ありません、と安堵させてくれた。
まもなく、救急車は動き出した。
(……)
心に引っかかることは、たくさんあった。
ひよりが、催眠術のようなものにかかっていたこと──彼女自身は、よく覚えていないようだった。夏美も、同様だ。
当時は、高校生……父親との共犯とはいえ、高梨親子だけで生贄事件をおこせただろうか? そうは思えない。しかも新たなる犯行では、父親はいなかったのだから。
そもそも『生贄』という発想は、高梨親子のものだったのだろうか──考えづらい。
高梨は、神の御告げ、という言葉を連続していた。
それは、妄想などではなく、本当に神託をくれる何者かがいたのではないか……。
胸の奥のもやもやが、暗く膨らんでいく。
なぜ、ひよりを選んだのか──高梨は、その答えをもっていなかった。そこでも、「神の御告げ」と表現していなかったか。
もう一人いる……。
いや、共犯ではなく、そちらのほうが主犯だ。
高梨親子を、その人物が操っていた。
「……」
桑島は、自らの想像に悪寒が走った。
高梨の父親──雨宮小夜の父親が、かつて商社のメキシコ支店に勤務していたことはわかっている。そのときに、ひよりの父親──吉原隆敏との交友も生まれている。
《飛行機事故》
そうだ。ひよりが迷子になったために、搭乗できなかった飛行機が墜落した──と、ひよりの両親は語った。話の筋を読み解けば、それはメキシコ旅行のときだったということになる。
中米の国々にゆかりのある人物を、もう一人知っている。
《集団催眠》
その人物が口にしたワード。
メキシコ。生贄。催眠。
そして、吉原ひより。
桑島は、いてもたってもいられず、右手だけで携帯を操作した。
『もしもし!? 桑島さん!?』
別れたばかりで連絡がきて、戸惑ったような声が返ってきた。
「どうして、あの大学を選んだんだ?」
『え!? どうしたんですか、いったい?』
「キミは、どうしてあの大学に!?」
『そう訊かれても……』
とても困っているようだ。
「メキシコに行ったことは覚えてる?」
『いえ……ほとんど記憶にありません』
飛行機事故。サバイバーズ・ギルト。よみがえる──。
もしかしたら、そのときに接点ができたのかもしれない。
「わかった。ありがとう」
電話を切ると、すぐにべつのところへかけた。
『桑島さんですか?』
通話相手は言った。まるで、かかってくるのを待っていたかのように。
「いまは、どちらに?」
『どこだと思いますか?』
「たぶん、もう手の届かないところなんでしょうね」
『よくわかりましたね』
ここまで用意周到で、塵一つの証拠も残さない完璧な手際をみせる人物が、いまだ近くに居つづけることなどあるはずもない。
『もうしばらくすると、日本の領海を出ることになります』
「用事というのは、それですか」
『まあ、そういうことです。そちらの会場にも寄り道しましたので、過密スケジュールでしたよ』
「あなただったんですね、矢萩先生」
『先生はつけないでください、と言ったはずですよ』
「矢萩さん、鈴村聡美さんの居場所を知っていますか?」
『ヒントは残しています。吉原さんとともにさがしてみなさい』
それは、どういうことだ!?
「矢萩さん!」
『私は、消えますよ。今回は、あなたの勝ちです』
「……」
『そうですよ。まだ、次があるということです』
「あなたの目的は、なんなんですか!?」
『桑島さんになら、わかるでしょう。高梨君の動機がわかったのなら』
「ちゃんと答えてください! 矢萩さん!」
『六つの館から救い出せますか? では──』
しかし、一方的に切られてしまった。
何事なのかと、救急隊員が桑島のことを見ていた。
車内が、重い沈黙に包まれた。




