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33.同日同時刻
スタッフしか立ち入ることのできない区画を進んでいた。地下へと続く階段を降り、薄暗い照明の通路を奥へ。同行してくれている係員によれば、この先は、配電施設や倉庫、貯水槽などがあるということだった。スタッフでも、ほとんど入ることはなく、専門の業者が行き来するだけだという。
桑島は、もしもの事態を考えて、係員を帰すことを選んだ。
「ここからは、ぼくだけで大丈夫です」
「……わかりました」
係員の緊張が、桑島にも伝わった。いや、桑島の緊張が、係員に伝わっていたのか。
そこからの前進は、桑島一人だけになった。
扉をみつけたら、開けていく。しかし、どれにも鍵がかかっていた。
ただの杞憂だったのかもしれない。桑島は緊張をほぐすように、息を吐き出した。
眼につく扉は、あらから調べた。どこかに潜んでいるとして、当然、鍵をかけていることも考えられる。だが、何者かの気配はするだろう。
桑島は、携帯を手にした。
さきほどは友人の夏美にしかつながらなかった。試合は、いまどのあたりだろう。後半のなかごろだろうか。展開にもよるだろうが、一番盛り上がる時間帯かもしれない。
何度かコールするが、出る様子はない。やはり、試合に集中しているようだ。それとも、まわりの歓声で気づかないだけなのか。
「……ん?」
スタジアムの騒がしさはなく、嘘のように静まり返った地下通路。そのはずなのに、なにかの異音が届いてくる。
そして、思い当たった。
いま耳に聞こえているコール音と、連動しているものだということを。
桑島は携帯をそのままに、音源をさがした。
もっと奥。そこからまだ先に行けるということも、その音がなければわからなかったかもしれない。台車や、なにに使うのか見当もつかない道具の隙間を通り、桑島は奥へと向かった。メンテナンスなどの明確な目的がないかぎり、一般の人間は近づくこともないような場所だ。
扉があった。着信音は、このなかからだ。
桑島は、扉を開けた。普段、あまり開閉されることがないからか、重かった。
話し声が聞こえた。桑島は携帯を切り、今度はその声をめざした。
照明は、薄い非常灯の光だけだ。部屋は、ボイラー室のようにも、配電室のようにも見て取れた。普通の生活を送っていれば、一生来ることのないような空間だ。
室内の中央付近に、足を向けた。薄明かりに、三つの人影が浮かび上がった。
緊迫している叫び声。
「やめて!」
ひよりの声だ。
暗くてもわかった。何者かが腕を振り上げている。
その手には、黒くて光沢のある刃が!
「やめるんだ!」
その何者かの腕が止まった。
仮面をつけていた。
桑島には、その人物がだれなのか、すでにわかっていた。
「もうやめるんだ……高梨巡査!」
仮面の人物が攻撃を加えようとしていたさきには、手足を縛られ、口をテープで塞がれた夏美がいた。
ここが、コウモリの館だ。
最後の生贄が、夏美だったのだ。
ただし、夏美はあのバス事故には関係していないはずだから、彼女でなければならないわけではない。たんに、ひよりと行動をともにしていたから選ばれただけなのだろう。
「くくく! やっぱり、あんたは始末しておくべきだったんだな」
仮面がこちらを見た。
わざとつけたガラなのか、ひび割れてそうなってしまったのかさだかでないが、縦横に歪な四角のモザイク模様がびっしりと入っている。表情は、怒りをあらわしているようでもあるし、虚無をあらわしているようでもある。見る者の心の持ちようによって、変化してしまうのではないだろうか。
なぜだか桑島には、仮面が嘲笑しているように感じられた。
「五年前の犯人は、二人だ」
「ほう」
「高梨巡査、きみと、きみのお父さんだ」
「動機は、わかってるのかな?」
「バス事故で死んだ妹さんだね? 雨宮小夜ちゃんだ」
「よくつきとめたな。さすがは、キャリア警視様だ」
「だが当時、きみはまだ高校生だった。たぶん主犯は、お父さんのほうだったんだろう」
「ちがうよ。おれとオヤジは、同等だったさ……」
本当のことなのか、それとも犯罪者としての矜持がそう言わせたのかは、桑島でも推し量れなかった。
「被害者は、すべて小夜ちゃんと同じバスに乗っていた女の子たちだね?」
「そうだよ。小夜だけが死んで、ほかの人間は生きているなんて不公平だろ?」
「そして、きみも乗っていた」
「ははは、ご名答! おれは、神を呪ったね」
桑島が、かつて思い描いたとおりの心情が、遺族の心に巣くってしまったようだ。
「それで、殺すことにしたのか?」
「あたりまえじゃないか。生贄を捧げて、小夜をよみがえらせなくちゃならないだろう」
当然のことのように、仮面の男──高梨は言った。生贄という荒唐無稽なことも、彼のなかでは常識であるかのようだ。
「なぜ、彼女を……吉原ひよりさんを巻き込んだんだ? 彼女は、旅行には参加していたが、同乗はしていないはずだ」
自身の名を呼ばれたからなのか、ひよりがようやく桑島へ振り向いた。どこか惚けているような、幻を見ているような儚さがあった。
直感した。なにかにかかっている……。
──生贄の儀式では、集団催眠がかけられていたのではないか。
「くくく、それはおれによくもわからないんだよ。だが、助言してくれたんだ。彼女こそ、小夜になれるとね」
言っている意味が不明だ。助言してくれた?
「なにを言ってるんだ!?」
「神だよ。神が助言してくれたんだ。生贄の儀式を彼女の前でおこなえば、必ず彼女自身が小夜に生まれ変わるとね」
その内容は、もはや妄想を通り越していた。
「でもダメだった。五年前はね」
「だから、またはじめたのか?」
「わかってるじゃないか。おれは予感してたんだ。あんたは、おれと同じだとね」
桑島は答えを選ばず、次の言葉を待った。
「考え方が同じなんだ。おれと同じ立場なら、あんたも同じことをしようとしてたさ。生贄殺人をね」
「ぼくは、ちがう。そんなことはしない」
「いや、するね。そう、たとえばこの吉原ひよりさんが殺されたとしよう。あんたは、この女をよみがえらせるために、この友達を生贄に差し出すだろう」
断じて、認めるわけにはいかなかった。
桑島は、鋭く睨んだ。
「話を戻そうか。どうして、五年前は失敗したんだと思う? 六つの試練を、吉原ひよりは乗り越えた。生贄も、二人ずつ。完璧なはずだった。神からも、絶対に成功するとお墨付きをもらえたんだ。なのに、失敗した。神は言った。生贄の時を止めていないからだと……」
時を止める? 理解不能だ。
「でも、それだけじゃダメだと思ったね。もう失敗はできないんだ。おれは、考えた。そうだ。五年前は、球技をしていないじゃないか」
「ポポル・ヴフの神話?」
「そうだよ。五年前──おれは、神と父さんに従ってただけだから、よくわからなかったんだ。これでも勉強したんだよ。六つの試練──六つの館がどういうものなのか。マヤの神話だった。双子の英雄の話だったんだね。球技の音がうるさいと、地下世界の神にうとまれたんだ。そして、六つの館で試練をうけることになったのさ。その途中、最後のコウモリの館で双子の一人が殺されてしまうんだ。頭を切り取られて、球技のボールにされてしまった。残された兄弟は、機転を利かせて、兄弟の頭と、本物のボールをすりかえたんだ。頭を胴体につけると兄弟はよみがえった」
呪文のように、神話のストーリーを口ずさんでいる。
「どうにか、この場所を用意することができたよ。残念だけど、おれ一人だけの力ではムリだったんだけどね」
「だれの力を借りたというんだ?」
「わかりきってるじゃないか。神様だよ」
高梨の言っていることは、あくまでも支離滅裂だった。どこまでが真実で、どこからが妄想なのか判断がつかない。
「球技は、上の世界で繰り広げられている。この地下世界では、生贄の儀式がとりおこなわれるのさ」
なるほど……たとえ異常であったとしても、彼なりの道理があるのだ。彼は、神話をできるだけ再現したかったのだろう。
「もう終わりだ」
桑島は言った。できるだけ早く、こんな悪夢に幕を閉じたかった。
「それはどうかな? おれにはわかる。警視様は、一人だけで来た。ほかのだれにも、ここに来ることは報告してないだろう?」
そのとおりだった。
「あんたとおれは、同じなんだよ。考え方も女の趣味もね」
高梨が──高梨であるだろう仮面の男が、ひよりに視線を合わせた。
「最初は、ただの道具でしかなかったんだ。神様の御告げどおりにね。だけど、いまはちがうよ。永遠に、おれのものにしたいと思うね」
「生贄事件は、これで終わるんだ……もう彼女には近寄らせない」
「まだ終わってない。ここで一人殺せば、彼女は小夜に生まれ変わるんだ。小夜であり、彼女自身でもある! 興奮しないか? 桑島警視」
仮面が取られた。
高梨は、再び夏美に凶刃を向ける。
「やめろ!」
桑島は、一気に駆けた。
取り押さえようとしたが、非常灯を反射した鈍い輝きが襲いかかってきた。
避けたつもりはなかった。身体が勝手に反応していたのだ。
「ほう、ほう」
感心しているかのように、高梨は息を吐き出した。
「ガリ勉のキャリア様だと思っていたが、それなりの訓練はしているようだな」
それは買いかぶりだった。
海外研修では、肉体的な訓練をうけたことはない。国内の警察学校でも、幹部候補生は、逮捕術を熱心に習うことはない。
「……」
だが、そのことを口にするべきでないことはわかる。犯人にはハッタリでもいいから、自分に力があるということを思わせておきたかった。
「凶器を捨てるんだ!」
「捨てるわけないだろ」
「これ以上、罪を──」
そう言ったところで、桑島の声は途切れていた。そんな説得で、彼が投降などするはずがない。
「そうだよ。これ以上、罪を重ねようが、思いとどまろうが、おれは死刑なんだよ。もう何人も殺してるんだから。まあ、いい弁護士でもついてくれたら、精神鑑定で無罪になる可能性はあるかもしれないけどね」
たしかに、もし弁護をするならば、そういう戦術しかないだろう。
彼は、殺人というものが許されない行為であることをよく理解したうえで、罪を重ねてきたのだ。
倫理を問うのも、罪悪感に訴えかけるのも無意味なことだ。
「最後の生贄を殺したあとに、警視も殺してあげるよ。それとも、警視が最後の生贄になるかい? そうすれば、この女を殺す必要はなくなる」
「……わかった。そのかわり、夏美さんを解放するんだ」
そう交渉するしかなかった。
「約束は守るよ。あんたを殺したら、必ずこの夏美とかいう女は逃がしてやる」
「だめだ! さきに彼女を解放するんだ」
「だったら、この女を生贄にするまでだ」
刃の切っ先が、再び夏美に向けられた。
「……」
凶悪犯である高梨を信用するわけにはいかない。かといって、夏美を見殺しにすることもできない。
選ぶとするならば、自らの命を投げ出すしかない。桑島は、いまはじめて警察官という職責の重さを思い知った。一般市民を守るということが、どれほど困難で、勇気のいることなのか。
「わかった……ぼくを殺せ!」
「そうか。ぞくぞくするね。桑島警視を生贄にできるなんて。凶悪犯のことなんて信用できないと考えているだろうけど、おれは裏切らないよ。安心して神の国に行ってくれ」
刃物の輝きが、こちらを射抜いた。
高梨が一歩、迫る。
心臓が高鳴った。
もう一歩。
まるで、その歩みを楽しんでいるように、高梨は少しずつ近づいてくる。
恐怖が膨らむ。逃げ出してしまいそうだった。
逃げるわけにはいかない。
彼女たちを残して逃げるわけには……。
ここで彼女たちを助けられないようなら、警察官である意味はない。
眼の前に立った高梨の腕が突き出された。
咄嗟に、左腕を出した。
熱さにえぐられた。これが刺されるという痛みなのか!
「往生際が悪いぞ。抵抗せずに、心臓を差し出すんだ」
笑みさえ浮かべながら、高梨は言った。
嘘だ。最初から、ひと思いに殺すことなど考えていない。
「最後の生贄なんだから、楽しませてくれるよね?」
左腕の刃を引き抜くと、高梨は二撃目を繰り出した。
ジャケットとシャツの布地ごと、右のわき腹を裂かれた。
再び、強烈な熱を感じた。
自分がどれほど出血しているのか、薄闇のなかでは断定できない。それは幸運だった。もし見えていたら、自らの血液で失神してしまうかもしれないからだ。
折れそうな心を奮い立たせた。
ここで死んでいいのか?
生贄犯を捕まえなくていいのか!?
なんのための五年間だったんだ!
おれは……ノマドだろ!!
「その眼、まだ絶望してないね? これまでに殺してきた人間は、みんなポカンと穴の空く瞬間があったんだよ。瞳になにも映らなくなる絶望の瞬間がね」
「まだだ……」
「なにがまだなんだ?」
「まだ殺されるわけにはいかない……」
桑島は、ジリッと、むしろ高梨との間合いを詰めた。
「まだ、解決していないことがある……もう一人いるだろう! 鈴村聡美さんは、どこだ!? どこにいる!?」
「ああ、あの女か」
今朝食べた朝食を思い出すように、高梨は言った。
「どこにいる!?」
「警視なら、すでにお見通しだろうけど、あの女はまちがったんだよ。当初は、小夜の死んだバス事故に同乗していた女だけを生贄にするつもりだったからね」
やはり以前に推理したとおりだった。
「まさか同じアルバイト先に、あの旅行に参加していた人間が、もう一人いたなんて思いもしなかった。さらってから、まちがいに気づいたんだよ」
「どこだ!? どこにいる!?」
「まあ、待ってよ。もう少し話を聞いてくれよ」
しかし、高梨に緊迫感はない。まるで、世間話でもしようとしているかのようだ。
「おれは、よく考えてみたんだ。そもそも、最初の生贄はオヤジだったんだ。オヤジは、五年前の犯行を後悔してた。裏切りだよ。だから殺したんだ。最初の生贄にしてやったんだ……。ちがうか」
すぐに高梨は否定した。
「心臓をくり抜いちゃったんだよ。ただ殺そうとしたんだけど、ついやってしまった……神の御告げだと思ったね。これはもう、オヤジを一人目の生贄にしろってことだと」
あきらかに、狂った言動だった。もとからこうなのか、犯行を重ねるうちにこうなってしまったのか……。
「だからね、本当ならバス事故の同乗者にしなくてもよかったんだよ。五年前にこだわったから、今回もこだわろうと考えてみたんだけど、中途半端だったね」
「どこにいるんだ!? まだ……生きてるのか!?」
勇気をもって、問いただした。
「どうだろうね。すくなくとも、積極的に殺しちゃいないよ」
殺してはいないが、命の保証はできない……そのようにも聞こえる。
「監禁場所を言え!」
「そうか。この友達じゃなくてもよかったんだね。あのまちがった女でよかったんだ」
桑島の問いには答えず、高梨は、名案をひらめいたときのように発言した。
「ムダなことをしちゃったな。これも、警視の責任だよ。警視の頭が切れるから。おれが犯人だって、わかっちゃったんでしょ?」
「……」
「聞かせてよ。どうしておれだって、わかったの?」
「……佐野を襲ったときだ。犯人が署内に入った形跡はなかったし、犯行後、署外に逃げた形跡もなかった。つまり犯人は、『犯人として』入り込んだのではなく、また、逃げてもいなかった」
「さすがだね、警視」
さして感心しているわけでないことは、あきらかだった。むしろ、皮肉すら込められている。
「高梨巡査、きみが犯人だとすれば、犯人があびたであろう返り血の問題も解決する。仮面や、いま着ているような衣装は、制服の下にでも隠したんだろう。たためば小さくなるはずだ。着替えは更衣室でしたはずだ。巡査は春の移動まえは、西青梅署の勤務だった。着替えるときに、仮面や衣装を更衣室のどこかに隠したんだ。もしかしたら、空いてるロッカーも知っていたかもしれない」
「そうだよ。おれのロッカーは、まだ空いてたんだよ。扉の立て付けが悪かったから、だれも使ってなかったんだろう」
「疑いだしたら、すべてのことに納得がいったよ。巡査の過去を調べた。家族構成も……。両親は離婚していたんだね? 小夜さんとは、母親がちがう」
「妹は妹さ。いっしょに暮らしてはいなかったけど、おれがオヤジと会うときは、よく遊んだものだ。あのバス旅行も、二人で楽しみにしてたんだ」
「妹さんは、よみがえらない……さあ、監禁場所を言うんだ!」
しかし高梨に、応じる様子はない。
「疑われることは、予感してたさ。警視なら、必ずおれにたどりつくと」
「もういいだろう。鈴村聡美さんの行方を言え!」
「やだね。いや、警視を最後の生贄にしたら、その心臓に教えてあげるよ」
悪魔のように、高梨の形相が歪んだ。
笑ったのだ。
古代マヤの神官も、こうやって笑ったのだろうか。生贄を捧げることに歓喜していたのだろうか?
黒い輝きは、一直線に伸びてきた。
今度は、遊びでないことがわかった。
桑島は覚悟した。
* * *
身体が動いていた。
いままでいうことをきいてくれなかったのに、必死に念じたら、どうにかなった。
頭が、はっきりしている。
エコーのような耳の違和感も、いつのまにか無くなっている。桑島と犯人の会話も、正常に聞こえるようになっていた。
ひよりは、犯人と桑島のあいだに飛び込んだ。
無謀なことだという自覚はなかった。
ただ、夢中だった。
彼を失いたくなかったのだ。
『精一杯、がんばりなさい』
いつかだれかにもらった励ましの言葉を、心のなかで叫んでいた。




