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32

         32.同日午後八時


 覆面パトカーを試合会場の正面入り口前につけた。一般車両がこんなところに停車すれば、すぐに係員から注意されるか、警察を呼ばれるだろう。パトランプを点灯させたまま、桑島は車から降りた。

 周囲の人影は、まばらだ。数人が通行しているだけだった。当然のことながら、観客はすでに入場を終えている。入り口には係員が二人。さらに警備員の制服を着ている者が四人いた。制服の四人は、危険物の持ち込みなどをチェックする役割のようだ。

 仮に、試合開始が七時だったとしたら、後半がはじまったばかり。いや、サッカー中継をほとんど観たことのない桑島だったが、試合前に主催企業の挨拶など、セレモニー的なことをしている印象がある。ナショナルチームの試合ではないようだから国家斉唱はないのだろうが、それでも十五分から三十分は、そういうものに時間を使うものだ。

 七時三十分開始だとしたら、現在は前半の終了間際。

 桑島は入り口の係員たちに、警察手帳をかかげた。

「なにかありましたか?」

 そう問われて、桑島は答えに窮した。

 緊急事態、という言葉を使うには確信がなさすぎる。強制的に立ち入らなければならないほど、切迫はしていない。

「なかに入れてもらえませんか?」

 係員たちも、答えに困っていた。

「は、はあ……」

 ドラマなどでは、警察手帳を提示すれば、ほいほいとなかに入れてくれるのだが……現実は、そうもいかないようだ。

「どこの警察署でしょうか?」

「警視庁です」

「事件の捜査ですか?」

「そうです」

「では、警視庁のほうに問い合わせてもいいですか?」

「かまいません」

 手帳のレプリカなど、ネットでいくらでも買うことのできる時代だ。偽警官の可能性も考えているのかもしれない。

「お名前は?」

「桑島です。警視庁刑事部特別特殊捜査室の──」

 そこで、警備員服の一人が、なにかに気づいたような表情に変わった。

「あの……会見、出てた人?」

「そうです。ぼくのこと、知ってますか?」

 会見という言葉で、ほかのみんなも思い当たったようだ。

「ってことは……」

 とても大きな危惧を抱いたのは、当然のことだろうか。

「まさか……あの事件の!?」

 彼らは、おたがいの顔を見合って、どうするかを検討しているようだった。

「大丈夫……なんですか!? 観客を避難させなければならないとか……」

 もちろん、それを彼らだけで決定できるわけはない。上に報告して、そこから複雑な経路をたどり、意思決定がくだされる。それらの、面倒で重い最初の行動を求められるのではないかと心配しているようだ。

「いえ、まだ捜査の一環でしかありません。なかに入れてくれるだけで……」

 係員の眼を見て言った。そのさきは、くみ取ってもらいたかった。

「わかりました。どうぞ」

「ありがとうございます。警視庁のほうから、こちらの競技場へは、あらためて話を通しておきます。みなさんに迷惑をかけるようなことはしませんので」

 彼らが、この会場に雇われているのか、それとも試合を企画した会社の職員なのか、それとも、もっと複雑な雇用体系で働いているのかわからない。しかし、権限を持たない人間が独自の判断をくだすということが、どれほどその人の立場を悪くするものかは、容易に想像がつく。超縦社会の警察官にも、あてはまることだからだ。

 桑島は、ゲートをくぐった。

「ここの会場に、地下はありますか?」

 振り返って、そう問いかけた。

 闇雲にさがしまわることはできない。あたりをつけて、そこにかける。

 双子の神話では、シバルバーという地下世界で球技がおこなわれたのだ。

「地下ですか……? 一般の人は立ち入れませんけど、配電設備とか、倉庫などがあります」

「そこへ案内してもらえませんか?」

「……わかりました」

 係員の一人が承諾してくれた。桑島は、その彼と競技場のなかへ向かった。


        * * *


 なぜ、足を動かしているのか?

 わかっている。

 わかっているが、わからない。

 たどりついたそこは、よく知っている場所だった。

 いや、そんなはずはない。はじめて来たはずの会場であり、たとえ過去に来たことがあったとしても、ここへ足を踏み入れたことなど、あるはずもない。

 そもそも、ここはどこなのだ?

 ……とりなめなく、ひよりの思考は流れていく。

 自分は、正気ではない。それは、なんとなく理解できる。だが、それがどれほどのことなのか推し量れない。

「来たね。来たね」

 だれかに声をかけられた。

「すごいね。すごいね。本当に、かかってるんだ。かかってるんだ。何度も見るけど、あの人の術は本物なんだ。本物なんだ」

 その声は、ふわっとしていて、エコーがかかっているようだ。

 どこかで、メロディーが聞こえる。なんの音だったかな……。思い出せない。

「コウモリは、ここで死んでるよ。死んでるよ」

 ひよりは見た。

 座っていた。あれは、夏美だ。

 夏美が手足を縛られ、口をふさがれて拘束されている。

「夏美! 夏美!」

 夏美の眼は、見開かれていた。

 生きている。死んでいるのは、夏美のことではないようだ。

 コウモリ?

「最後の生贄だ。生贄だ」

 生贄──。

 その言葉が、静かに心へ染み入っていく。

 生贄。これは、生贄事件なのだ。

 それがわかっても、平静をたもてるのはどうしてだろう……。

「わたしを殺すの? 殺すの?」

「死ぬんじゃない。死ぬんじゃない。よみがえるんだ。よみがえるんだ」

 死ぬのではなく、よみがえる。

 死んでいないのに、よみがえる。

「意味がわからない。わからない」

「六つの試練をうけていれば、よみがえるんだ……よみがえるんだ」

「だれが? だれが?」

「妹だよ。妹だよ」

 そこでようやく、声の主の姿を認識することができた。

 どうして、いままで見えなかったのだろう。

「あなたは、だれ? だれ?」

 仮面をつけていた。知っている。五年前と同じ仮面だ。

 民族衣装のような格好も、あのとき眼にしている。

 ……そうだ、マヤの神官が身につける重ね着だ。いまならばわかる。仮面は、ケツァルコアトルのモザイク仮面と呼ばれるものだ。矢萩の講義で、イラスト化されたものを眼にしたことがある。ケツァルコアトルはアステカの神だが、マヤではククルカン。

「あなたが、犯人なの? 犯人なの?」

「犯人は、神だ。神だ。妹の運命を操った。操った」

 なにを言っているのだ。

「だから、生贄を捧げるのさ。捧げるのさ」

 仮面の犯人の手には、黒い鋭利な刃物が握られていた。それもどういうわけか、いまの瞬間に気がついた。それが、なんの素材でできているのかも、ひよりは知っている。

 黒曜石のナイフだ。

「このナイフには、きみの髪の毛を巻き付けてある。巻き付けてある」

「髪の毛? 髪の毛?」

「きみの部屋で拝借したものだよ。拝借したものだよ」

 では、あれは気のせいではなかったのだ。

「このナイフは、いわば、きみの魂がのりうつっている。のりうつっている」

「なにをしようとしているの!? しようとしているの!?」 

「これから、心臓を捧げます。捧げます──神よ。神よ」

 刃の先端が、夏美の頭上へ振り降ろされた。

「やめて! やめて!」


「やめるんだ!」


 その声だけは、不快なエコーがかかっていなかった。

 仮面の腕が止まっていた。

「もうやめるんだ……高梨巡査!」


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