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31.同日午後七時
市内にあるホテルについたとき、ロビーから出てくる男たちを見て、桑島はただならぬ事態を予想した。
覆面パトカーを降りると、その一人に声をかけた。
「どうしましたか!?」
その人物は、桑島の顔を知っていた。
「桑島警視!」
桑島のほうは、だれだかわからない。わからないが、彼の所属する部署は、おおよそ見当がついた。
「どうしました!?」
桑島は繰り返した。
「マル対が、いなくなりました!」
彼らの『マル対』というのは、一般の警察官のそれとは意味合いがちがう。
監察対象者、という意味だ。
重要事件における発砲事案だったために、ホテルでの軟禁措置をとることになったそうだ。本来なら、もっと悪質性の高い監察事案において、逃走や自殺を防止するため、官舎に帰さないようにするためのものだが、結果的にそれが正しかったことになる。しかし、逃げられてしまっては意味がない。
なぜ、逃げたのか?
桑島は胸のなかで、その問いを幾度も反芻する。
答えは、一つしかないはずなのに。
どこへ行ったのか?
闇、剣、寒冷、ジャガー、炎……。
まだ、コウモリが残っている──。
ここへ向かうまえ、桑島は捜査本部で、矢萩から借りた本を読んだ。簡潔に書かれたものだったから、短い時間でも一通り読破することができた。
『ポポル・ヴフ』という神話。
六つの館の試練を、フンアフプーとシュバランケーはのりきるわけだが、しかし最後の《コウモリの館》で、カマソッツという悪魔によって、フンアフプーは頭を切り落とされてしまう。
地下世界の神々は、その頭をボールにして、球技を楽しもうとした。残ったシュバランケーは、動物たちの助けをかりて、フンアフプーの頭を取り返す。よみがえったフンアフプーとシュバランケーは、神々と球技で対決することになるが、負けてしまった。肉体を焼かれ、骨をすりつぶされて、灰を川に流されてしまう。
が、五日後、双子は人魚となって地上にあらわれ、魔術師と芸人に変装して、再び地下世界へ向かう。そして神々の前で、犬を殺し、よみがえらせてみせた。次いで人間を。さらにフンアフプーが死に、そしてよみがえる。それに狂喜した神の一人が、自分も殺して、よみがえらせてみよと双子に命じた。だが、その神は死んでもよみがえることはなかった。恐れをなしたその他の神々は、双子に降参したのだった。
以上が、簡略化したストーリーということになる。
マヤ文明への基礎知識がない桑島にしてみれば、とても支離滅裂な物語であり、共感を得ることも、そこから学ぶこともない。一言で表現すれば、死と再生のお話だ。死んでも簡単によみがえってしまうのは、どこの神話でもよくある内容といえるだろう。
この物語を真に受けて生贄殺人を犯したのだとすれば、どうかしている。
もし本当に彼が、そのどうかしている犯人だとすれば、次はなにをしようとするだろうか?
球技……そういえば、矢萩の講義で、そのようなことを聞いた。サッカーとバレーボールを合わせたような競技であったと。その試合の勝者が喜んで生贄になった、と。
サッカー?
(そうだ、球技だ……)
いまおそらく、吉原ひよりと友人の夏美がサッカー観戦に行っている。
そして彼も、行くはずだった!
どこだ!?
桑島は、玄関口で右往左往している監察の人間に問いをぶつけた。
「今日、サッカーはどこでやってますか!?」
「サ、サッカー!?」
突然の質問に、監察の人間も面食らったようだ。監察官の階級は、警視か警視正である。おそらく、こういう役回りをやっているということは警視である可能性が高いはずだ。その場合、同階級であるから、立場的には対等だ。だが普通、警察官を追求する監察は、一般警察官よりも「上」になることのほうが自然といえる。
このときの彼と桑島の関係は、そういう警察官の内部事情とはべつのところにあった。まるで切迫した状況のなか、知人同士で場違いな会話を繰り広げているような。
「なんで、こんなときに!?」
「知っているなら、教えてください!」
「サッカーって……Jリーグ? それとも海外リーグの!?」
「そうです、海外です。日本でやるっていう」
「横浜だよ、たしか」
こんなことを話している場合でない、という様子の彼から、その答えを引き出した。
「横浜……」
桑島は、覆面パトカーに乗り込んだ。携帯をかける。
時刻は、七時を過ぎている。試合時間はわからないが、すでに会場に入っていてもおかしくはない。歓声などで聞き取れないのか、ひよりは出ない。
いやな予感が駆けめぐった。
しかし大勢いるスタジアムでの犯行は、簡単ではないはずだ。
すぐにかける相手を切り替えた。
夏美へ。こういうこともあろうかと、番号の交換はしてあった。むこうも、こちらに興味がありありだったから、すんなりと知ることができた。
『はい? もしもし?』
聞き取りづらい声が耳に伝わった。周囲が騒がしいようだ。
「もしもし!? 桑島です!」
『いま、サッカー場なんです──ごめんなさい、よく聞こえなくて』
「吉原さんは、そこにいますか!?」
『え? ひよりですか!? ああ、ひよりは、さっきトイレに行くって』
「すぐ戻ってきますか!?」
『やだな、桑島さん。レディにそんなこと』
そんな冗談めかした会話をしている場合ではないのだ。
「いいですか、ひよりさんが戻ってきたら、絶対一人にならないよう言ってください!」
『え!? なんですか!? 聞こえない』
ひときわ、歓声が大きくなった。
スタジアムの光景を予想すると、選手が入場したのだろうか。
『ごめんなさい! 聞こえないので、ひよりにはあとで電話させます!』
むこうから通話を切った。
犯人が──犯人と仮定している人物が、そこへ逃げたとはかぎらない。だが桑島は、横浜をめざしてアクセルを踏み込んだ。
* * *
「あれ?」
ひよりが席へ戻ったとき、夏美の姿はどこにもなかった。
ちょうどピッチでは、コイントスがおこなわれていた。もうまもなくで、試合は開始されるはずだ。あまり詳しくはないひよりでも、それぐらいはわかる。
と──。
光が眼に届いた。
赤い光が点滅している。
こういう会場では、レーザーポインターでいたずらをする輩も多いだろうから、そのたぐいだろう。ひよりは、そう考えた。
しかし、なおも瞳に飛び込んでくる。
不快な感覚がわきおこった。眼を守るように、右手をかざした。
なぜだろう。それでも光が射してくるような……。
右手は、すぐに下りていた。
下ろした覚えはない。だが、下りていた。
この感じは、以前にも記憶がある。いつのことなのかは、わからない。
光が、リズムを刻むように、明滅を繰り返す。
(そうだ、あそこへ行こう)
ふと、そう思った。
なぜだろう?
ひよりは、歩き出した。目的の場所は、なぜだか定まっている。
あそこへ行くのだ。
視界のすみを、なにかの影がかすめた。
飛んでいた。
あれは、コウモリだ。




