28
28.同日午後十時
救急車のサイレン。いくつもの赤色灯──。
警察署の周囲は封鎖され、厳戒体制がとられていた。
桑島が駆けつけたとき、本部のある三階の惨状は凄まじいものだった。
胸を刺された遺体が一つ。首筋を切られた遺体が二つ。
本部として使用されている会議室へ通じる廊下は、血の海と化していた。
会議室に入ると、桑島の眼に、胸部から出血して倒れる佐野の姿が映った。
背筋が凍った。暗黒が頭上から降りてきた。
だが、佐野の意識は残っていた。
「佐野!?」
「う……う、だ、だいじょう、ぶ、だ……」
「わかった、しゃべるな!」
「聞いてた、か……あんなこといっといて、た、たすかる、のは……みっとも……ねぇ、な……」
こういう状況になっても、軽口はなおらなかった。
すぐに到着した救急車に運び込まれた。そしていま、警察署を発ったところだった。
救急車まで付き添った桑島だったが、救急隊員から、命に別状はないだろう、と伝えられていたので、同乗することはなく、安心して署内に戻った。
警察署内は、騒然としていた。あってはならないことが起こったのだ。
犯人は、捕まっていない。
逃げたのだ。いや……逃げたというのだろうか?
桑島が会議室に到着したとき、すでにそこには署員が数名かけつけていた。そのなかには、桑島の知っている顔も。
高梨だった。佐野を救急隊員に託していたために細かく観察できたわけではないのだが、それでも彼が震えていることはわかった。拳銃を手に、身体が硬直していた。べつの警官が、拳銃を彼の手から放そうとするのだが、あまりにも固く握られているので、うまく取れないようだった。
制服も、血で汚れていた。
犯人が侵入してから最初に会議室を訪れたのが、彼だったのだ。
廊下で死んでいる捜査員の姿に、われを忘れたのかもしれない。制服の血は、遺体を発見したとき、思わず抱き寄せたものだろう。
なかに入った高梨は、そこで犯人を見た。
無線機から聞こえた発砲音。
「ま、まて!」という声も、彼のものだった。
高梨はいま、刑事課のフロアにあるソファセットに腰をおろしていた。事件関係者に話を聞く際、取調室に連れ込むのが不適当な場合に使われるところだ。当然、普通に来客があったときにも使用されている。
桑島も、その聴取に加わった。
高梨は、まだ震えていた。
汚れた制服は、すでに着替えていた。私服姿だ。どうやら、高梨が所属する警察署から同僚にもってきてもらったようだ。それほど距離はないから、車を使えば十分程度でやって来れる。自転車でも二十分から三十分ほどしかかからない。
「犯人は、どこへ行ったんだ!?」
責めるように、捜査一課の人間が問い詰める。所轄の刑事課長と一課の捜査員が数名。本庁へ戻っていた管理官の津本も、こちらへ向かっているということだった。
「わ、わかりません……」
高梨は、茫然自失といった感じだ。
いま、自分が置かれている現状も理解できているのかあやしい。
「おまえが、犯人に向けて発砲したんだろう!? 弾は当たったのか!?」
「わかりません……」
高梨の口からは同じ回答しか出てこない。
犯人と鉢合わせになった高梨は、犯人へ発砲。それで犯人は逃げた。部屋を出たはずだが、エレベーターや階段を使って一階には下りていない。だれも目撃してないから、それは確かだろう。
では、犯人はどこへ行ったのか?
まだこの警察署に留まっている可能性もあったが、すでに隅々まで調べ尽くしている。それらしい人物はみつかっていない。
ほかに考えられることは、内部階段で一階に下りたのではなく、非常外階段や窓から脱出した。非常階段という考えは、すぐに否定された。各階、非常扉の内と外には監視カメラが完備されている。録画されていた映像には、だれの姿も映っていなかった。
残るのは窓からの逃走になるのだが、そういった痕跡は署内のどこからも確認はできなかった。返り血を相当量あびているのだから、どこかに血痕が落ちていなければならない。廊下にも窓にも、付着していなかった。
三階から、忽然と犯人が消えたとしか思えなかった。
「だいたい、おまえはどうして本部にやって来たんだ? おまえは地域課だろう? それに、署もちがうはずだな!? なんの用事があった!?」
「そ、それは……」
「なんだ!? はっきり言ってみろ!」
「は、はい……桑島警視に」
「警視になんの用があった!?」
「よ、用というわけでは……ただ明日は非番ですし、なにか手伝えないかと……」
尋問していた捜査員が、桑島を見た。
「高梨巡査には、いろいろと捜査に協力してもらっていました」
桑島は、責任を感じた。
自分のせいで、高梨があんな場面に出くわしてしまったのだ。
下手をすれば、彼も殺されていたかもしれない。それに発砲という行為は、一般人が考える以上に重い結果をもたらす。今回のケースでは適正な使用だと認められるはずだが、はたして彼の長い警官人生のなかでプラスになったのかと問われれば……。
桑島がかばったことで、場の雰囲気が変わった。高梨が悪いのではない。というより、彼はなにも悪くない。尋問する捜査員も、落ち着きを取り戻したようだ。
「犯人は、どんな顔をしていた?」
「仮面をしていたので……」
「どんな格好だった?」
「なにか、民族衣装みたいな……」
とりとめのない夢の話をするように、高梨は答えていく。
「身長は?」
「自分と同じぐらいです」
ひと通り聴取を終えた。そのときには、奥多摩へ向かっていた捜査員たちが、ほとんど帰還していた。桑島と同じように数台の車が引き返してはいたのだが、念のため大半の捜査員たちは目的地を探索していた。
かかってきた電話は、佐野の読みどおり、犯人からの罠だった。ただし、罠を仕掛けていた方向がまちがっていた。
してやられた。
だが、そのことで、はじめて犯人の姿が浮かび上がった。これまでは、ただの幻。形あるものだったと、ようやく実感できた。
そのための代償は大きかったが……。
署内には、昼間よりも人が集まっているような賑やかさがあった。犯人が侵入し、三人の命を奪っていったのが同じ夜だということが信じられなかった。
署の周囲には、野次馬とマスコミ陣も多く詰めかけている。
警察署が襲われたのだから、明日からの報道も加熱するだろう。
桑島は、さらなる矢面に立たされることを覚悟した。犯人は、自分を狙おうとした。会見で犯人を挑発したからかもしれない。
殺された三人と、怪我をした佐野……。
罪悪感を、いやでも植えつけられる。
気がつけば、桑島は現場となった会議室へ足を運んでいた。
廊下と室内は鑑識の作業中だったが、できるだけ邪魔にならないように入り込んでいた。
犯人は、本当に消えたのか……。
そんなわけはない。
必ず、どこかを通って、外へ出た。
もしくは……まだ、このなかにいる。
(……)
桑島は首を横に振り、思考を中断させた。
さすがに、それはないだろう。
「どうやって……」
それと切り替わるように、ある疑問が突如として脳裏にわいた。
ここからいなくなったことも謎だが、どうやってこのなかに入ったのだ?
夜とはいえ、警察署には人がいる。正面玄関をはじめ、侵入が可能な場所にはカメラも設置されている。だれの眼にも留まらないのはおかしい。
仮面をつけ、民族衣装のような格好になったのは署内に入ってからだとしても、不審人物がいれば、必ず目撃される。
地域周辺の防犯カメラの分析が急ピッチでおこなわれているはずだから、それを待てば、おおよそのことはわかるかもしれない。
「桑島君、ここにいたのか」
声をかけられた。津本管理官だった。階級は同じだが、年齢が一回り半ちがう。君付けで呼ばれるのも、不自然とは思わなかった。
「大変なことになったな」
「はい」
「これまで君は一人で行動していたが、できるかぎり複数で動いてくれ。言ってくれれば、いつでも人をつける」
「は、はあ」
「これは、刑事局長からの命令だ」
桑島は、わかりました、と伝えた。だが、そうするつもりはなかった。自分といれば、その人間を危険にさらすことになる……。
ふと、考えた。
ひよりのことだ。
彼女にも、もう会わないほうがいいのだろうか……。
そうだ、会ってはいけない。
どうしてだろう……そう思いたくはなかった。
心にポッカリと、穴が空いたようだった。




