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24.六月五日(月)
桑島は、深い後悔に襲われていた。
彼女には、伝わってしまったはずだ。自分が疑っていることを……。
本気で彼女が犯人だと思っているわけではない。そうだ、そのはずだ……それすらも自信がなくなってくる。
当時、彼女は十四歳。幾人もを、あんな方法で惨殺することなど不可能だ。
『猟奇事件の何割かは、未成年者』
頭のすみを、いつか学んだことがよぎっていく。
そんな机上の論理がどうしたというのだ。
『子供の残虐性は、大人のそれとは異質だ』
子供は、ときに楽しみながら、虫や小動物を殺す。命の重さを知らないからだ。
彼女は、愚かではない。命の尊さを知っている。
『いまはそうでも、当時は?』
悪魔のように、もう一人の自分が囁きかけてくる。
これでは、冷静な思考が働かない。あれを試すときがきたのかもしれない……。
FBI研修のときに、教官から受けた教えだった。教官はベテランの心理捜査官であり、過去にいくつもの難事件を解決した実績があった。
とある事件で、教官のかつての恋人が事件関係者(容疑者とまではいかない)になったことがある。教官は、もちろんその彼女が犯人だとは思わなかった。だが──、もしも、を考えという。知り合いを疑いたくない気持ちと、職務に忠実であろうとする捜査官の自分。その二つの葛藤に苦しめられた。結果、事件は暗礁にのりあげてしまった。
そのとき教官は、どうしたか?
発想を転換したのだ。
わずかでも疑う気持ちがあるかぎり、それが邪魔となって真実を見失う。
ならば、とことん疑ってみよう。
元恋人を真犯人と仮定して、すべてのことを組み立てた。本当の犯人ではないのなら、つじつまが合わなくなるはずなのだ。そこから矛盾点をすくいあげ、真実をつめていった。事件は、瞬く間に解決したという。かつての恋人は、当然のこと犯人ではなかった。
そのことから、教官は一つの推理法を会得した。事件関係者のなかで、容疑も浅く、あまり疑いたくない人間を、あえて疑ってみる。あまり疑いたくない──の基準は理屈ではなく、本能に頼っていいという。好みの女性とか、境遇が同情できる人物でもいい。
心の底から、この人が犯人であってほしくない──そう思えれば。
『ラブサスペンス推理法』と、教官は呼んでいた。ラブサスペンスの結末は、結局、恋人が犯人である確率が高いからだそうだ。ネーミングは恥ずかしいと思っていたが、桑島も思い切って、それを実践することにした。試すには、うってつけの事件かもしれない。
『ラブサスペンス推理法』に従って、彼女を疑ってみる。
そうすることで、新たに見えてくることがあるはずだ。
彼女は、犯人ではないのだから──。
二十三区内。下町と呼ばれるエリアに足を運んでいた。
住宅地を表現する場合、閑静な、と形容するのが普通だが、この町は、どちらかといえば騒がしい。しかし、いやな騒がしさではない。雑然としているが、活気のある商店街。通行人の顔は明るく、話し声が、あっちでもこっちでも。自転車で警邏してる制服警官の表情にも笑顔が浮かんでいる。町のおまわりさん、といった様相だ。
彼女は──吉原ひよりは、この町で育った。
桑島は、ひよりの実家に向かっていた。
「ここだ」
木造の一戸建て。けっして上品な雰囲気ではないが、温かみのある住まいだと感じた。
ひよりには内緒だった。
(言えるわけもない)
自分が疑っていると、確実に知らせることになる。たとえそれが、『ラブサスペンス推理法』のためだとしても。
呼び鈴を鳴らした。
「はい」
なかから、母親が顔を出した。
吉原静子。事前に電話はしてあったから、警察手帳を提示する必要はなかった。
「桑島さん、ですね?」
「はい」
「どうぞ、お入りになって」
居間に通された。
「どうも、ひよりの父です」
そこには父親──吉原隆敏が待っていた。
職業は、国土交通省の関連団体に勤務している。元は国交省のキャリア官僚だったと、以前読んだ捜査資料には書いてあった。いわば、天下りでいまの職場に移ったのだろう。短い期間ではあったが、省庁交流の一貫として、外務省にも所属していた──と資料には、そうも記されていた。
今日は桑島の訪問のために、午前は休みをとってくれたのだ。
「突然、申し訳ありません。お仕事のほうは、大丈夫ですか?」
「心配は無用ですよ。私の役目は、古巣への口利きなんですから」
そこだけ聞くと、官僚っぽい。だが、こうして居間のちゃぶ台の前に座った隆敏は、どこから見ても下町のおじさんだった。キャリア官僚だった片鱗はない。この家にしても、そうだ。
「古めかしいですか?」
桑島がなかを見回していたからか、隆敏が言った。
「い、いえ……」
なんと返していいのかわからなかった。
「どうですか、ひよりは? 元気にやってますか?」
「はい。とても元気です」
「あなたのことは、警察庁の知人から聞いていますよ」
つまりそれは、ひよりの周囲を警護している(さぐっている)ことを知っているということだ。
静子が、お茶を運んできた。
「あの子、どうしてますか?」
静子の声音は、少し暗かった。
その問いの意味するところは、隆敏の質問とはちがう。新たなる生贄事件がおきてなお、ひよりが正常をたもっていられるのかを心配してのものだ。
「彼女は、大丈夫ですよ。とても頭がよくて、つねに冷静な判断ができます」
嘘はなかった。桑島は、本当のことを口にしたにすぎない。
「お父さん、やっぱりこの家に戻したほうがいいんじゃないでしょうか?」
隆敏は、わずか表情を歪めて、ため息をついた。この夫婦間では、いまの話題で何度も議論したのだろう。
「桑島さん、あの子のことをよろしくお願いします。必ず守ってやってください」
「もちろんです」
桑島は言った。その返事は、両親に頼まれたからではなかった。桑島自身が強く思っていることだからだ。
「桑島さんは、キャリアなんですよね?」
ふいに、隆敏にそう問われた。
「そういうことになりますね」
素直に、そうです、とも答えづらかったので、ヘンな言い回しになってしまった。
「警視庁では、なにかと大変でしょう」
「は、はあ」
それも、素直には答えづらかった。
「吉原さんも、官僚だったんですよね?」
「私は、エリートじゃありませんよ」
笑いまじりに、隆敏は言った。
「国交省でしたよね? 外務省にも出向していた」
「入省当時は、建設省でしたけどね」
隆敏は、遠い眼をしていた。遙かなる時空旅行は、すぐに終わったようだ。
「知り合いの息子もね、警視庁に入ったんですよ」
視線を戻すと、そう語った。
「まあ、あなたのようなキャリアではなく、高卒採用ですけど」
ならば、さきほどの『警察庁の知人』の息子ではないだろう。
「学歴や階級の差なんて、あまり関係ないですよ。ぼくは優秀じゃありませんしね」
その人物が、自分よりも階級が下であると仮定して、桑島は言葉を返した。
「ははは」
屈託なく、隆敏は笑った。
「桑島さんも、いずれは幹部になるんですよね? その知り合いの息子が、のびのびと働ける警察組織をつくっていってくださいよ」
「ぼくには、そういう役回りはやってきませんよ」
謙遜ではなく、本心で桑島は答えた。
「犯人を捕まえたら、出世するでしょう?」
「え、ええ……まあ……」
この場合の犯人は、一般の犯罪者という意味ではない。生贄犯だ。たしかにそうなるかもしれない。
犯人を捕まえたぐらいで、普通は出世することはない。そう、普通なら。せいぜい、警視総監賞をもらうぐらいだ。しかし犯人が『生贄犯』となると、話はちがう。しかも桑島は、そのために存在しているのだ。期待しているわけではないが、逮捕できれば、それなりのご褒美があるかもしれない。
「……で、今日のお話というのは?」
ようやく、本題に入れそうだ。
「ひよりさんは、小さいときに長野へ旅行に行ったことはないでしょうか? 地域の子供会のツアーで」
成田から入手した会のリストには、この区に存在する、もしくはしていた子供会が記載されていた。この町ならば、そういう地域の結びつきも強そうだから、ひよりが会に入っていたことは予想できる。
「あの事故のことですか?」
そう声をあげたのは、静子だった。やはり、ひよりは参加していたのだ。
「バス事故があったとき、ひよりさんはそのバスに乗っていたんですか?」
「はい……いえ、乗ってはません」
「?」
静子は、肯定した次の瞬間には否定していた。
「どういうことでしょう?」
「旅行には参加していたんですけど、乗っていたわけではありませんよ」
不思議そうに、静子は答えた。なぜそんなことを訊くのか、わからないといったように。
「ちがうバスに乗っていたということですか?」
「そうです」
「ひよりさんは、その旅行のことを覚えていなかったんですけど……事故のことを話すことはなかったんですか?」
「たぶん、ひよりはよくわからないと思います。当日、ひよりはバスのなかで寝ていたみたいで。それに、ショックをあたえないために、べつのバスに乗っていた子供たちには、事故のことは伝えていないそうです。ひよりは、眼を覚ましたら予定が変わっていて、東京についてたって言ってました。そもそも、長野県への旅行だったことも知らないでしょうね。あの子、あんまり土地の名前とか気にしないので」
その後、ニュースなどもみせなかったので、事故のこと自体、まったく記憶にないでしょう──静子は、そうも語った。
学校の遠足などでは、隠そうと思っても、隠しきれるものではない。だが、子供会という特殊な集まりであったために、いまだに知ることがないのかもしれない。
旅行先のことをよく把握していなかったのなら、長野というワードに引っかからなかったことも、納得はできる。すべての疑問が払拭されたわけではないが。
「お二人が、そのことを話す機会はなかったのですか?」
「わざわざ言うこともないだろうと……」
お茶を濁すように、隆敏は言った。
補足するように、静子が続ける。
「以前にも、似たようなことがあったんです。あの子にとっては、初めての海外旅行でした」
興味をひかれる内容だと感じた。
「主人の赴任先だったところへ、旅行してみようということになって」
「赴任先……ということは、外務省への出向のときですか?」
「そうです。一年ほど現地にはいたんですが、そこで知り合った日本人の御夫婦がいましてね」
引き継ぐかたちで、隆敏が答えた。
「お世話になったこともあって、家族旅行のついでに、ご挨拶に行ったんですよ」
その旅行の帰りに、ある事故がおこったそうだ。
「私たちが乗ろうとしていた便が、離陸直後に事故に遭いまして……乗客乗員全員が死亡する大事故でした」
乗ろうとしていたということは、乗らなかった、ということになる。こうして、みんな生きているわけだから、あたりまえのことだが。
「ひよりが空港で迷子になってしまって……それで乗り遅れたんですよ」
ある意味、とんでもない幸運だ。
「ひよりはまだ小さかったので、覚えているはずもないでしょうけど。まだ三歳か四歳でしたからね。そのときから、なんとなく縁起が悪いというか……この子は、そういう星のもとにあるんじゃないか……と」
「おかしいと思われるでしょう?」
静子にそう問われたが、桑島は反応に困った。
「ですが、ほかにもいろいろとあったんですよ。あの子は、奇妙な星回りをもっているんです」
たしかに、そうなのかもしれない。
その飛行機事故。十二年前のバス事故。
そして、生贄事件──。
いずれも、死をまぬがれている。
「ですから、あまりそういう話は、当時からしないようにしていたんですよ」
なんとなくは、わかった。
親だからこそ、そういう予感のようなものがあったのだ。将来、なにか大きな事件・事故に巻き込まれるのではないか。だからこそ、負担にならないために、娘の耳によけいなことを入れないようにしていた。
結果として、当たったことになる。
ひよりは、『サバイバーズ・ギルト』という心的外傷に悩まされている。もしかしたらそれは、生贄事件だけが原因ではなく、小さいときからの、そういった積み重ねが影響しているのかもしれない。
話が一段落した。
「ほかに訊きたいことはありますか?」
隆敏がうながしてくれたので、これまで被害者家族に質問した内容を繰り返した。
被害者の名前に心当たりがないか、ひよりの知り合いにいなかったか。
とくに、重要な証言はなかった。
だが桑島は、ここへ来たことに重要な意義を感じていた。それがどういうものなのかは、表現できない。
ただ、そう思えたのだ。
* * *
紙飛行機が飛んだ。
* * *
夕暮れ。寮までの帰り道──。
すぐ近くのはずなのに、今日にかぎって、なぜだか遠くに思えた。
ひよりは、鬱な気分で一日を過ごした。
ときおり頭に浮かぶ桑島の顔が、そのまま血管を伝い、胸を破裂させるのではないかと心配になる。
彼は、わたしを疑っていた……ひよりには、よくわかる。
彼と自分は、よく似ている。
惹かれあっている、と言い替えることもできる。
たぶん、彼の考えは察知できるし、自分の考えも向こうに筒抜けのはずだ。
彼が疑っていることもわかったし、自分がそう思ったことも、おそらく彼に伝わっているだろう。
これから、どんな顔をして会えばいいのだろうか。
それとも、もう会わないほうがいいのだろうか……。
(なに?)
思考は中断された。背後から気配を感じたからだ。
ひよりは振り返った。だれもいない。陽が暮れきるには、まだ時間が残されている。
オレンジ色の町並みのなかに、人の姿はなかった。
こんなに明るいのに、だれも通行人がいない。
まるで、ここだけ時が制止してしまったかのようだ。
ひよりは、寮の方角へ向き直った。だれかに呼び止められたような気配だったが、思い過ごしだったようだ。通りに、隠れる場所はない。
歩みを再開した。
「え!?」
やっぱり、だれかいる!
意思がこもっている。こちらに存在を知らせようと……。
ひよりは、今度は首だけをめぐらせた。
しかし、いない。また歩き出す。気配は消えない。
気味の悪さを感じた。急ぎ足で寮を目指す。
敷地に入った。
後ろを見たが、何者の影も確認はできなかった。
「吉原さん? どうしたの?」
寮母の藤崎が、ちょうど玄関から出てきたところだった。
「い、いえ……なんでもないです」
「だれかいたの!?」
藤崎は外へ出て、道路の左右に視線をはしらせる。
すぐに戻ってきた。
「だれかいたのね!?」
「わかりません……そういう感じがしただけで……」
「とにかく、ここにいれば安全よ。警察にはパトロールを強化してくれるよう頼んでみるわ」
ひよりの素性を承知している藤崎にも、生贄事件の復活は、大いなる緊張をもたらしているのだ。
ひよりは、自室に向かった。
外界を遮断するように、扉を閉じた。
息が荒くなっていた。
(気のせいだ……気のせいだ……)
だれもいなかった──そう自分に言い聞かせた。
座ることも忘れ、ドアを背後に立ったままだったひよりだが、しばらくすると落ち着きを取り戻していた。
『精一杯、がんばりなさい』
あの励ましの言葉を心のなかで繰り返す。
ベッドに腰掛けて、深呼吸した。
ふと、視線が壁にかかったカレンダーへ。
(どういうこと?)
まだ六月のはずなのに、カレンダーは七月になっていた。
モアイ像のはずだったのに、アンコールワットに。
破った覚えはない。
五月二六日か二七日に、破ったことならば覚えている。たしか、夏美と電話をしているときだ。サッカーの試合がある日に印をつけるためだった。
あのときまちがえて、六月分も破ってしまったのだろうか?
いやそれならば、サッカーの試合がある七日か、第一水曜日に丸がついているはずだ。
七月のカレンダーには、なにも書き込まれていなかった。
部屋を探してみたが、切り取られたはずの六月のカレンダーは、どこにもなかった。




