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23

         23.同日午後三時


 当時の資料をさがすのは、濃霧のなかを突き進むような作業だと覚悟していた。だが、その日のうちに、それはあっけなく手に入った。

 聡美の母、京子から「あの人なら……」と紹介されたのが、成田という男性だった。かつては子供会の副会長をしていたという。会長をしていた男性は、すでに故人となっていて、次に当時のことを知っているのが、成田だということだった。

 家も近所だったので、すぐにたずねた。

 事情を話すと、こころよく彼はなかへ招き入れてくれた。

 成田は六十代ほどで白髪頭だが、老けた印象ではなかった。まだ現役で仕事をしていても不思議ではないが、すでに定年退職していると本人が語った。

「あの事故があったときのことだね?」

 成田は、ファイルに整頓された書類を取り出しながら話しはじめた。

「そうです」

「じつはね、ここの子供会が解散したのは、あの事故の影響でね」

 暗いものを吐き出すように、成田は口にした。

 この地域の子供会は昭和四八年に結成され、長い歴史があったという。年数を重ねて活動していくうちに、他県の会とも交流ができていった。いつしか小学生を対象として、夏休みに泊まりがけのツアーをおこなうようになっていったそうだ。

「あのときまでは……」

 十二年前のバス事故が、いろいろなものを変えた──成田は、つぶやくように言った。

「ツアーに参加した名簿でいいんだね?」

「はい」

 桑島は、テーブルの上に置かれた紙を手に取った。

 ただし参加者名簿があるのは、自分のところの会だけだということだった。

 名前の連なりに眼を通す。鈴村聡美という名があった。だが、それ以外は知らない。五十嵐典子をはじめとして、その他の被害者も載っていない。

「あの……べつの会のことは、わかりませんか? どこの地域の会が参加してたか」

「一応は、ありますよ」

 べつの紙も見せてくれた。

 そこには、『~会』という名称が並んでいた。

「ここに載っているところが、参加していたんですか?」

「いや、そうとはかぎらないんだ。当時、交流があったところなんだが」

 つまり交流があったとしても、そのツアーに参加していたかどうかまではわからないということらしい。

「なんせ、けっこうあるから、どこの子がいたとかはわからないんだよ」

「旅行は、東京から長野、さらに山形へ向かっていたんですよね?」

「そうだね。東京や埼玉、神奈川の子供たちが、むこうの子供たちと仲良くなれるようにね」

「では、長野に住んでいた子供たちが、山形に行くということはなかったんですか?」

 長野に住んでいた石井美津子がこのツアーに参加していたと推理する場合、そういうことがなければ、バスに同乗することはないはずだ。

「ありましたよ。長野の子供たちの何人かが山形へ行くこともありました。その年は、長野から山形でしたけど、山形から長野というときもありましたね。その場合は、山形の子供たちが長野に行くことも」

「事故に遭ったバスに、だれが乗っていたかまではわからないですよね?」

「ええ、それは」

 少し間があいて、ただ……と続けられた。

「ただ、うちの子供たちは、だれも乗ってなかったのはたしかです」

 事故車に同乗していた人間の名簿が必要だと考えていた。そして死亡した子供が、だれだったのか……。

「事故があったのは、どのあたりだったのでしょうか?」

「長野と山梨の県境だったと思いますよ。どっちの警察官も現場に来てましたから」

 すると、長野県警と山梨県警に問い合わせれば、かなりのことがわかるだろう。

 成田に礼を述べると、桑島は家の外へ急いだ。

 携帯で、佐野に連絡をとる。

 迅速に事故のことを問い合わせるためだ。


        * * *


 土日にも、大学は開放されている。夕方五時まで図書館はやっているし、食堂だって営業している。とくに日曜日は一般人向けの講座も催されているから、キャンパス内は平日並に人の姿がある。

 アルバイトを禁じられているひよりは、行くところがないときは、休日でもここへ足を運ぶことが多い。

 いつものベンチに腰かけていた。もうすぐすれば、閉鎖時間になる。

 夕陽が赤く染まりはじめていた。

 どうしてだろう。美しいとは思えない。

 その赤が、血を連想されるから。

 五年前の悪夢が、どうしても素直な心への受容を阻害している。

「……」

 あの《赤》が、眼の奥に焼きついている。

 いくつもの《赤》……。

 一面の《赤》!

(忘れたい……)

 会いたくなった……彼に。

 彼なら、この不安を包んでくれるのではないか。

 こういう感情のことを、恋というのだろうか?

 きっと、ちがう。

 ちがってもいい。

(でも……)

 彼は、捜査のために近づいたのだ。

 彼には、自分にたいする深い感情はない。それをよく理解しなければ……。

 わたしは、それを受け入れられるだろうか──ひよりは、新たなる不安におそれおののいた。

 生贄事件の恐怖よりも、得体の知れない不安よりも、そのことのほうが……。

「!」

 足音がする。

 こちらに近づく……。

 わかった。それがだれなのか。


        * * *


 振り向いた彼女の表情に、桑島はドキリとさせられた。

 憂いをたたえながらも、どこか嬉しそうに微笑んでいた。もし仕事でなかったら、特別な感情を抱いてしまうだろう。

 そうだ。これは仕事なんだ──桑島は、強く自分に言い聞かせた。

「やあ」

 こちらの思いを悟られないように、桑島は声をかけた。ただでさえ、頭がよく、勘も鋭い。

「桑島さん……」

「ここにいると思ったんだ」

「また、話が聞きたいんですか?」

「ああ」

 頭のすみで、キミに会いたかった──、と囁いていた自分がいた。

 口に出さなくてよかった。

 彼女の瞳がそれた。どうしたのだろう?

 まさか、いまの答えにガッカリしたとでもいうのだろうか。

(バカな……)

 今日の彼女を見ていると、なぜだが冷静な思考ができない。

 桑島は、彼女のとなりに腰をおろした。

 顔を見なくてもいいように……。

「ねえ、小学生のころ、長野県に行ったことはある?」

「長野ですか?」

 捜査本部につめていた佐野に問い合わせた件は、すぐに結果が得られた。

 結論から言えば、わかったのは、事故で死亡した児童の名前と、運転手の名前だけだった。同乗者の記録は無かった。最初から記録していなかったのか、それとも長い年月のあいだに紛失してしまったのかはわからない。事件性のない事故だったから、管理が甘くなっていたとしても、県警が責められることはないだろう。

 事故当日は、その地域が集中豪雨にみまわれて、バスの走っていたすぐさきで、土砂崩れがおこった。運転手は泥の濁流を避けるために急ハンドルを切り、コントロールを失ったバスは、ガードレールを突き破って、崖下へ転落してしまった。

 状況が状況だけに、運転手の刑事責任は問われなかった。死亡した女子以外は、みなかすり傷程度しか負っておらず、ある意味、奇跡的ともいえた。

 なおのこと、亡くなった子供の両親は、やりきれなかっただろう。

 その女子の名は、雨宮小夜という。東京都三鷹市に住んでいた小学三年生だった。

「行ったことないですよ、たぶん」

 曖昧な答えだった。だが、小さいころの記憶など、そんなものかもしれない。自分に置き替えてみても、かつて旅行した土地の名前など、いちいち覚えていないことがほとんどだ。というより、そこがどこなのかを知らずに楽しんでいたほうが多いのではないか。

「雨宮小夜ちゃん」

「え? だれですか?」

 突然、名前を出されたからか、彼女はキョトンとした眼を向けた。

「知らないなら、いいんだ」

「気になるじゃないですか」

 自分の抱いた疑いを知ったら、彼女はどう感じるだろうか……。

「サバイバーズ・ギルトだったよね?」

「え? ええ、お医者さんからは、そう診断されたことがあります。どうして知ってるんですか? あ、そうでしたね……桑島さんも、もちろん聞いているんですよね、あのときの記録」

 医師とのやりとりが録音され、捜査記録として残っていることは、当然のこと、彼女も承知している。

「たった一人、生き残った……」

「どうしたんですか? 今日の桑島さん、なんだか脈絡がないですよ」

「たった一人、死んだとしたら、どういう心理状態になるだろう」

「死んじゃったなら、心理もなにも……」

「遺族だよ」

「つらいんじゃないですか?」

 彼女は、困ったようにそう言った。

 たしかに、脈絡がなく会話が進んでいる。

 直接、ぶつけてしまいたかった。

 キミは、事件に関わっていないよね──と。

「鈴村聡美。五十嵐典子」

「また、名前ですか?」

 五十嵐典子のことはニュースでも報じているから、耳にしていても不思議ではない。

「知らない人です」

「本当に?」

 いけない。

 つい、念を押してしまった。


        * * *


 疑われてる……。

 そう直感した。

 身体から鎧が剥がされていくように、力が抜けていた。

「五十嵐典子さんは、昨日の事件の被害者ですよね……でも、知らないです。いままでに会ったことはありません」

「そうか」

「生贄事件なんですか?」

 ニュースでは、詳しいことまではやっていなかった。犯行現場が、ここから比較的近い場所なので、注目はしていたのだが……。

「断定はできないけど、その可能性がある」

「でも、公園だったんですよね?」

 そんなところで、生贄事件?

 それはちがうのではないか……。

 ひよりは、素直に思った。

「犯人しか知りえない印があった」

 桑島の言葉に、ひよりは無意識のうちに、左手の甲を見てしまった。

 いまでは、消えている刻印。

 そうか。刻印のことを知っているのは、犯人と限られた警察関係者。

 そして──。

(わたしだ)

 だから、彼はそんな眼でわたしを見るのだ──ひよりは、泣き出してしまいそうな感情に支配された。


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