魔法の書 パンドラ
童話作家だった祖母が亡くなった。
僕にとって祖母はまるで魔法使いみたいな人だった。
何処からともなくお話を作り、サラサラと絵を描いて、楽しそうに一冊の本を作ってしまう。
お葬式には信じられない位の人が来ており、生前の祖母の人柄が伺えた。
子供だった僕は、随分とショックを受けたが、同時に祖母の偉大さに驚きを隠せなかった。
祖母は病気で亡くなった訳だはない。過労でもない。
好きな事を仕事にして、好きな様に童話を作り、好きな人達に笑顔と心温まる作品を沢山残し、それはまるでゆっくりと眠る様にその生涯を終えた。
僕はその傍らで祖母の最後を看取った一人だ。
「私の物語はここで終わるけれど、あなたの物語はこれから始まるの。楽しい事、悲しい事、辛い事、嬉しい事。様々な出来事が起こるけど、どんなに難しい困難が起こったとしても、決して希望を捨てないで。自分から物語の主人公を降りるような事はしないで。その時は苦しいかもしれないけど、全てはいつかキラキラとした素敵な思い出に変わるから。残念な事に、あなたの力になれるのもこれが最後になりそうだから、最後に一つだけ、あなたにこれを預けるわ。」
そう言って祖母が僕に差し出した本には、” パンドラ ”と書かれた一冊の本だった。
本には帯がされており、中を見る為には帯を切らなければならない。
「人は一人では生きていけないの。いつか必ず誰かの助けや助言が必要になる時が来る事でしょう。その時には躊躇わずこの本を開きなさい。必ずあなたの助けになるでしょう。」
そう言うと僕の両手にしっかりと握らせてくれた。
僕はそれを大切に抱きかかえると、祖母にありがとうとお礼を言った。
最後のその瞬間まで、誰よりも僕の事を大切の思ってくれる祖母。
「色々な事があってとても楽しい人生でした。でも、この辺で少し休もうかしらね。」
目を閉じてそう呟いた祖母に、僕は祖母がいつも口癖にしている言葉を掛ける。
「おばあちゃん、良い旅を。」
人は誰もが旅人で、みんな口にはしないけど、明日を探して旅をしているんだと教えてくれた祖母。素敵な旅をしなさい。素敵な旅人になって、素敵な出会いをしなさい。
そう教えてくれた祖母に、今最も相応しい言葉なんだと思う。
「あなたもね。良い旅を。」
それが最後の言葉だった。
あれから少し時間が流れ、僕はこの春高校生になっていた。
幸い祖母に貰った魔法の書を開かずここまで来たが、いよいよその時を迎えたらしい。
でも少しだけ躊躇う。
僕はそれを自室の机の上に置き、ゆっくりと瞳を閉じる。
祖母の言葉を思い出す。
”躊躇わずに開きなさい。”
僕ははさみを取り出し、丁寧にその帯を切り、初めて本を開いた。
ページを捲ると、色々な事が書かれていた。
人の心を優しくさせる言葉や、感謝を伝える言葉。
その中には、当たり前に思う事なんかも書かれてたりもするんだけど、その当たり前が当たり前の様に出来ていない昨今。こうやって人は人とのコミュニケーションが取れなくなっていくんだろうなと、祖母の残した本を読んでそう感じた。
何せ僕もその一人なのだから。
そんな事を考えながら、僕は一つの言葉に目が止まる。
恋。
そう。僕が今直面している事で、この本を開く切っ掛けになった事。
相談しても周りには恋愛経験の乏しい人ばかりで、糸口すら見つけられないでいた。
それが今、漸くひと筋の光が指したのだ。
そこにはこう書かれていた。
”今一度、瞳を閉じて、心静かにその人の事を想ってみて。”
”迷ってしまうような恋なら捨ててしまいなさい。その人を想う純粋な気持ちに迷いがないのなら、その想いをありのままに伝えなさい。飾られた言葉なんかじゃなくて、裸の言葉で。結果はあなたの行い次第で変わるでしょうが、良くも悪くも、あなたをまた一つ成長させることしょう。”
想像していたものとはかけ離れていたけど、実に祖母らしい助言だと思った。
それと同時にあの時の祖母の言葉の本当の意味が分かった気がする。
僕は答えだけを求めてしまっていたんだ。
目から鱗とはこういう事なのかもしれない。
気が付くとモヤモヤした思いは消えていて、さっきまでとは嘘の様に、どこか清々しい気持ちすら広がっていた。
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「好きです!」
それが僕が彼女に伝えた言葉だった。
「それってさ、シンプルだけど魔法の言葉よね!ドラマで出てくる様なキザな言葉はさ、本当の気持ちを飾り立て、包み隠すセリフみたいで嫌いだけど、ストレートな意思表示って素敵よね。」
僕の人生で初めての告白は功を成したのだが、祖母の残した魔法の書は、もしかしたら本当に魔法の書だったのかもしれない。
それからまた少し時は流れて、現在、僕は祖母と同じ様に作家を志し、日々物語を作っている。
そうそう、最近気が付いた事なんだけど、あの本の名前。
”魔法の書 パンドラ”
その本をすべて読み終えて気が付いた事だが、あの本の中には一つもマイナスな言葉がなく、全ては希望に繋がっているんだ。
祖母が多くの人達に慕われた理由。
「敵わないな。」
でも敵わないまでも、いつかその隣に並ぶことが出来たのなら・・・。
偉大なるその背中を追いかけて。
僕は旅を続ける。