茶壺の恋
今日は始まりであり、昨日の終わり。
昨日が終わり全てが新しく始まる、それが今日である。
空に黄金の月が浮かぶ。いつもなら美しい満月も、今日ばかりはその光が薄くみえた。
絢爛豪華な赤のランタンが、地上の所構わず飾られているのである。
目を開けていられないほどの光の洪水。灯されるランタンの、切り絵も見事なものばかり。地上だけではない。天上には薄い紙でこしらえた、天灯と呼ばれる紙袋まで浮いている始末。
天灯の下には油の入った器を仕込んである。それに火をつけると、軽い紙袋はぷかぷか浮かぶ。簡単な子供騙しだが、天を覆うほどに飛ぶ様は見事でもあった。
このように光が宙を舞い、大地は色とりどりのランタンに埋め尽くされた今宵、通りの道も人の声で賑々しい。
通常なら喧しく取り締まられている夜間の外出禁止令も、この日ばかりは許される。
ランタンもかくやといわんばかりに着飾った若い男女が楽しげに、細い道をみっちり詰まって歩くのも、今日だけのお楽しみである。
それは、新春。満月の夜に行われる、元宵節だけの風景であった。
日頃は夕暮れとともに店じまいする商店も、今日だけは開けておかなくてはならない。かき入れ時だからである。
しかしどの店の店主も、心ここにあらず。気を抜けばふうっと祭りに流されそうな男もいる。当然だ。皆、仕事など放って遊びに出かけたいのである。
ただ例外もある。大通りの道の隅に店を構える店の店主だけは、にこりとも笑わずに店の奥に座り込んでいた。
気持ち程度の小さなランタンを店先に出しているが、それだけだ。
飾りもなければ、新年を喜ぶ詩のひとつも飾っていない。着物も古いものを何枚か重ねただけ。四角い顔はただ四角いばかりで、丸いところが一つもない。
彼は通りを半眼で見つめたあと、懐から西域由来の煙管を取り出して、小さく丸めた葉を詰める。ランタンの飾りを外して中の火をしばし拝借。吸い込んで吐き出せば、紫の煙が天井に溜まって離散する。
外のにぎやかさも奥まった店の奥から聞けば、ただのとんちき騒ぎである。
茶壺に囲まれたこの狭い店の中だけは別世界であった。
「バカだねえ」
この男の名を柳青という。にぎわう都の裏通りで、小さな茶屋を営む男である。
といっても、茶を沸かして客に提供するわけではない。そういう客商売は苦手だ。彼はただ、仕入れた茶葉を売るだけである。
昔はいざしらず、今や茶の道は庶民にまで広まった。茶はけして、高級なものではない。
砂の入ったような茶葉でよければ、子供にだって売れる。他の店より少しばかり安値で売るので、柳青の愛想のわるさにも関わらず、店はそこそこ繁盛していた。
「正月なんぞ、毎年くる。私なんざ、何回正月をみてきたことか。時には正月のない年があっていいだろうに」
一人ごちりながら、柳青は湧かした湯の中に、一掴みほどの茶落とし込む。
それは、煙草と同じく西域の商人から買い込んだ珍しい茶葉である。一掴みで銀の粒が飛ぶほどの高級茶は、客には出さない。客の切れたとき、一人で飲むことを信条にしている。
……しかし。
「もし」
ゆっくりと、茶を茶器に注ぐ。甘い乳のような香りがたつ茶を口に含もうとしたとき、突如声をかけられた。
「ご主人、その茶を飲ませては、もらえないだろうか」
声は思わぬところから聞こえた。
「一口でいいのだ。その茶を、俺の体に少しばかり注いでは、くれないだろうか」
声は柳青の頭の真上から聞こえた。そこに人なぞいるわけがない。棚に並べられた、小さな茶壺が並ぶばかりだ。
柳青は不可解な顔をしてそちらを睨む。大小さまざまな茶壺が並ぶそのうちの一つ、古びた茶壺からまた声が響いた。
「茶をくれないだろうか」
声の主はそれだ。茶壺がそう呻いたのである。
「まあ、話だけでも聞こうじゃないか」
柳青は茶壺を棚からおろし、机の上にそっと置く。しばし思案し、彼は赤い布を引き出して、その上に茶壺を置き直す。
真向かいにそれをおくと、茶壺と向かい合うような体となった。
茶壺は他のそれと同じく、何の変哲もない茶色の壷である。表面に、茶の鑑定書がべたりと張られている。古いものなのか、紙は劣化し、半分も朽ちているが。
そして蓋の部分には高級なあぶらとりの紙が巻かれ、赤と銀の紐でしっかり縛られていた。
中の茶葉は確か高級品だったはずだ。西域の男から、数年前に入手した。寝かしておくと味がよくなるときいたので、何となく棚においてそのまま忘れていた茶壺である。
「俺から逃げないでくれて、ありがたい」
確かに茶壺から声が響いた。壷の中で反響するような声ではあるが、はっきりと聞き取れる。悪くはない声だった。
壷の蓋を取ってみようかとも考えたが、柳青はそれを取りやめた。
中に入っているのは高級葉。だからこそ、量はそれほど入っていない。従って茶壺も、手のひらに収まるほどの小さなものである。
その中に人が入っているとは考えにくい。むしろ入っていたらそれはもう人間ではないだろう。
ならばまだ壷が喋っているほうが、いくらか健全であった。
壷はため息を漏らしながら、柳青を褒め称える。
「思ったよりも腹が据わっている。ご主人、あんたは昔悪いこともしたのだろうな。そんな空気を感じるよ」
「昔は義憤にかられて国を相手に戦ったこともあるよ、しょっぴかれてこのざまさ」
柳青は着物をめくって足を見せつける。右足は、太股の真ん中から消えて、代わりに木の棒が収まっている。
傷口はふさがったが、足は消えた。それはいつ見ても寒々しい光景だった。
「足だけで済んだのは幸いだった。ちょうど新しい皇帝が即位したんでね。恩赦で私も無事に市井の民草さ」
若い情熱というのは時に厄介だ。茶売りの次男坊として人生を全うすればよかったものを、妙な怒りに突き動かされて足を失った。
家族には見放され、今や都の一角で気むずかしい顔で茶を売る。それだけの毎日である。
仲良く会話をするのは西域を行き来する商人だけ。その商人にも、裏切られたわけだが。
「しかしあの商人、変なものを売りつけやがった」
「商人がわるいのではない。俺が黙っていたのがわるいのだ。しかし口を開けていれば、途中で放り捨てられていただろうね」
茶壺はいかにも人のよいことをいう。
柳青は茶壺がしゃべっていることに、何の疑問も抱かなくなっていた。
外は祭りで赤い光の中を人が行き来する。昨日が終わり今日が始まる祭りである。生きて見える人間ばかりではない。あの行列の中には、過去から紛れ込んだ死人が何人かいるかもしれない。
ならば茶壺が喋るくらい、なんてことはないのである。
「俺が昔、まだ人だった頃」
茶壺は語った。口や目があるわけではないので、何とも相づちが打ちにくい。なので、柳青はただ無言で煙草を吸い込み目を閉じた。
そうすると、彼の言葉がまるで絵のように頭に広がるのである。
茶壺のかつての名を、呂といった。
さほど出自の卑しい家でもないという。小金くらいならいつでも家にあったため、彼は若い頃から茶道楽にふけった。
趣味程度にしておけば良かったものの、それは家が傾く程の道楽であったらしい。妻を持ち、子をなしてもその道楽はおさまらず、代々続いた家をつぶして最後は壁もないような家で暮らした。
しかしそれでも茶への偏愛は止まらず、手に入れた金を使っては茶を買い求めたというのだから、偏狂である。
とある冬、流行病にかかって死の淵をさまよった時には、
「死んだら、俺の骨に土を混ぜて茶壺にしてほしいと願ったのだ」
と、彼は恥ずかしそうにそういった。
身が茶壺となれば、死んでなお茶と共に居られる。それを聞いて妻子はいよいよ呆れた。
そしてその数年後、彼は死んだ。死んで今、茶壺となっているのだから、妻か子が、彼のばからしい遺言を守ったことになる。
「ご主人。そこで頼みというのは」
「茶は飲まさんぞ」
「いや、いや、それもほしいのだが……いや、いまはそれではない」
よだれを押さえるような声を出して、彼は……茶壺は慌てていった。
「この元宵祭、妻か子がおそらく茶を求めにくるはずだ」
「……なぜ分かる?」
「都で茶を売る店。その中で、今宵開いている店はいくつある」
「さあいくつもないだろうね」
柳青は茶をすすりながらそう答えた。店を開けておかねばならぬ。というのは、あくまでも建前だ。大体みな、急病がでただの何だのいいわけをして店を閉める。
ランタンで人の形を型どり、まるで店先に人がいるように見せかけて抜け出す大胆な店主もいる。
「ならばきっと、ここにくるはずだ。こんな夜に、かまわず店を開けている所はほかにない」
「なぜ今日だ」
「私は元宵節の夜に死んだのだ。赤いランタンと爆竹の音を今でも覚えている。つい先ほど死んだ時のように覚えている」
「おまえの墓に供えるためか。できた嫁だ」
「俺は謝りたいのだよ」
しみじみと、悲しく彼はいった。それは、取り返せない過去を持つものの声であった。
通りすぎるにぎやかな歓声に反して、この店は過去に暗くとらわれている。
「……道楽で苦労ばかりをかけた。死んで後に分かったのだ、私の一番の宝は妻であると」
「茶壺の身でなんとする」
「何ともならんさ。ただ側にいてやる事はできるだろうか……ああ」
は。と茶壺の声が止まった。茶壺に顔色などあるはずもないが、確かに青く変わったようだ。
「妻だ」
ささやいた。つられて柳青は顔を上げる。店先にこぎれいな女が一人、こちらを覗き込んでいる。
店が開いているのか確認しているのか、つま先をたててちらちらと店の奥を眺めている。
足は纏足で、美しい靴に包まれた小さな足がなんとも愛らしい。
線の細い、はかなげな女性であった。
「きっと、きっと安く売ってくれ。金がないというのなら、無理にでも渡してくれ……礼をすることはできないが……しかしいつか、きっと必ず恩を返す」
茶壺は頭をすり付けんばかりの勢いでいう。もちろん、頭などどこにもないのだが。
柳青は、飲みかけて冷めた茶を横においやって、女を手招く。
女は戸惑うような顔で、おそるおそる店に入ってきた。
「あの、今日はお店を?」
「ああ、やっている。やっている。あなたはお茶をお求めかね」
四角い顔に無理矢理な笑顔を乗せて、柳青は安心させるよういった。
たかが茶壺との約束、協力する必要もない。しかし、柳青はこの茶壺を妻子の元に返してやりたいと思うようになっていた。感情に突き動かされやすい性質は、年をとっても変わらないものらしい。
しかし今回は足を切り取られることもあるまい。と、柳青はいいわけめいたことを考える。
「なあ、あんた。呂という家を知っているかい」
「知ってるもなにも、私がそうですよ」
笑顔を見せたのがよかったのだろう。女は蕩けるようにほほえんだ。艶やかな袍がよく似合う女だった。
打ち解けたのをみて、柳青はすばやく茶を淹れ差し出す。安いものだが、冷える夜にはうれしい味だ。
女は喜び、いよいよ腰を落ち着けた。
「妙なことを聞くが、あんたの夫は茶道楽だったかい」
「いいえ」
しかし、彼女の答えはあっさりとしたものだ。
「私はまだ結婚していませんもの。ただ……」
外のにぎやかさが一段と増した。誰かが爆竹をならしたのだ。今宵はこのまま光と音とで都が揺り動かされる。今はその、ほんの前哨戦である。
女は赤く輝く通りをうっとり見つめながら、いった。
「かつて数代も前に、茶道楽で家をつぶした男がいたとは聞いています。もう百年も前でしょうか」
「時は流れたのだ」
爆竹が破裂した瞬間、茶壺の呻く声が聞こえた。私もああ。と思わずため息をもらす。
茶壺が死んだのがいつ時か、私は聞いていなかった。聞くのを恐れていたのかもしれない。
考えてみれば、西域に流され茶を詰められ都に戻るまで、数年で収まるものではない。それにそんな茶道楽、もし現代にいるのであれば噂にならぬはずもない。茶の道で生計を立てる柳青の耳にも届いただろう。
しかしそれでも柳青は、茶壺の恋の完遂を見届けたいと、心の奥底でそう願っていたのかもしれない。
「はい?」
女が不思議そうに首を傾げる。柳青は、あわてて手を振った。
「……あ、いや、しかしそれでも茶を好むとは変わった一族だね」
「不思議でしょう」
女は俯き、薄く笑う。白い首が、明かりに照らされ赤色に染まった。
「何でもね、茶道楽で家をつぶした祖先の、その奥さんの遺言だということですよ」
「遺言?」
「元宵節の夜、必ず茶を飲みなさいと。それも、きちんと新しい茶を買って飲みなさいとね。彼女の言葉に皆が従ううちに、百年もたっていたと、そういうわけなのです」
茶壺は先ほどからことりとも動かない。湯が湧き店中に、茶の甘い香りが漂う。寒い夜のはずだが、不思議と温かい。
柳青は茶を飲むことも忘れて、身を乗り出していた。
「なぜそんな遺言を残したかね」
「その夫は、死んだら茶壺になりたいと言ったそうで……それで、奥さんは茶器になりたいといって死んだそうです。茶壺と茶器で引き合わせてくれと、そういうことでしょうかねえ」
「茶にはなりたくなかったのか」
「茶葉になれば、いつか飲まれて終わりだから……じゃないですか」
変わった祖先でしょう。と女はころころと笑う。
「祖先の墓はわかるかい」
「さあ、百年の間に戦争が何度もありましたから。私もおとぎ話しとして聞くばかりです」
しかし、不思議と元宵節の夜に茶を買う習慣だけは止められないのですよ。女はそういって、ほどほどに良い茶を求めて店を出た。
「茶をくれご主人」
長い間沈黙を守っていた茶壺が言葉を発したのは、まもなく朝がこようかという時刻である。
祭りはまだ続いているが、遠くに朝日が見える。ランタンの赤も、夜よりはかすんでいるようだ。
その代わり、今にも消えかけている満月の欠片が妙に美しく見えた。
柳青はしょぼしょぼとした目をこすり、ゆっくりと茶器を並べた。それに上から湯をかけると、冷たい空気に湯気が立ちのぼる。何度も茶を入れた茶器に湯をかけると、花のような香りが立つのが不思議だった。
花になりきれず茶葉となった、茶の怨念だろうか。しかし、それを柳青はいとおしいとさえ思うのだ。
「茶の道をといたのは、唐代の陸羽という男だったね。そいつは捨て子で、坊主に拾われて育ったという。もともと茶の道なんて、そんな庶民から生まれたもので、行儀だ作法なんざくそくらえだ」
柳青は、足下に隠していた茶葉を取り出す。
「だから茶を茶壷に飲ますくらい、別になんてこともない」
「ありがたい、ありがたい……」
茶を茶器に注いで茶壺の前におく。が、しばし悩み、彼は茶をすくい壷の表面をぬらしてやった。
「ああ、うまい。乾きが満たされる。思えば百年も茶を飲んでいなかったのだなあ……茶の香りばかりかいで、気でも狂いそうだった」
「面倒な男だ。茶壺になんぞなって。茶器になれば、いくらでも飲めるというのに」
「確かにそうだ。茶壺になんかなったおかげで、茶を飲むのも苦労する……が、茶器になったらなったで、淹れる度に茶が消えるといって壊されていたかもしれないなあ」
茶壺が笑い柳青も笑った。明るい声が、珍しく店内に響く。
しばし笑ったあと、柳青は煙草を飲んだ。天井でたゆむ紫の煙を眺めながら、時折茶壺に茶をかける。
「暖かくなったら、旅にでもでるかね」
「どこへいく」
「茶を仕入れにいくんだよ、年に一度ほどね。どうだ、おまえもいくか」
朝日がふと差し込んだ。寒い空気を割った光は、ランタンの光をかげらせた。光が生まれれば光は消える。当然のことだった。
老いた身を、柳青はふと考えた。
「おまえの妻は、きっとどこかで茶器になってるよ」
「連れて行ってくれるか」
「こんな足で、旅は緩やかだ。一人でつまらないと思っていたところだ。目的もあれば楽しめる。茶壺と二人、旅にでるのもおもしろそうだ。それに都はそろそろ飽いた」
西域につながる道を行く、木の足を持つ男と茶壺の二人旅。
おもしろそうだ、と老いた心を柳青はふるわせた。
元宵節を超えると昨日は遠ざかり今日が始まる。その今日は、昨日までとは違う今日である。
確かにそうだ。と柳青は思った。今年はひどく楽しい一年になるに違いない。