第一章1 「惨状」
ーーもうダメかもしれない
嵐とも言える最悪の天気に激しく揺れる船上、少女の心中はそんな言葉で埋め尽くされていた。
しかし、そんな言葉を否定する心があるのも事実だ。まだ救命ボートが残っているかも知れないし、船が沈み切る前にヘリが助けに来てくれるかも知れない、助けてくれそうな人がいないという点を除けばまだ諦めるには早かった。
体力には自信があるし、救命胴衣もある。最悪、海の上でも救助までの時間を耐え抜けかもしれない。そんな希望もある。にも関わらず絶望の色は消えない。
「ーーーっ!」
「お、おい!何すんだよ!」
遠く、救命胴衣の略奪を行う人々に視線を向け、少女は巻き込まれないように目を背け、身を縮めた。
もう少し後ろの列にいたら絡まれていたのは自分かもしれないという恐怖が体を覆った。
「やめてください!ほら、救命胴衣はこちらで配ってますから!」
怒号のような声を掻き消すようにさらに大きな声で誰かが叫んだ。ふと、振り返ると船員の一人が男達の間に割って入っていくのが見えた。
その姿は勇者そのもので、少女ではあの雰囲気に割って入る勇気は出せないだろう。
恐らくだが、彼のような人がみんなの希望となっているのだろう。熱を帯びかけていた人々は落ち着きを取り戻したように見える。
それから数分後、慌てたように船員が工具箱を持って前方の列に走っていった。声は聞き取れなかったが、何か事故が起こったのだろうか?
それでも少女はひたすらに待ち続けることにした。
それから数十分は過ぎた駄ろうか、一向に救援ボートの列が進まない。何かあったのだろうか?そんな疑問を抱くようになった頃。
「おせぇぞ!早くしろよ!」
数少ない救命ボートにのる為の優先順位が上だった少女は後ろから時折聞こえる怒号に耳を塞ぎ込んだ。
ボートは一つ40人離れそうな大きさだ。しかし、数には限度がある。ざっと数百人を超える人々を見るに少女の見立てでは全員が乗れる数はない。そういった意味でも人数調整に時間がかかっているのだろう。
「俺を乗せろ!金ならいくらでも払うぞ!」
「順番を守って!そこ、押さないで!お、おい!待て!」
「ーーーー!」
船員の静止を強引に振り解いた男は流れるように少女の頭を膝で突き飛ばした。
みんな生きるのに必死だったこともあり、前方ではボートの奪い合いが起こっていた。そして男が無理やりボートに飛び込むと、それを見た人々が雪崩のように続いた。
そして、落下型のボートで無理に人を乗せればどうなるか、なんて想像に難くない。
そう
「ーーうぁぁぁ!」
「ーーーーっ」
押し寄せた人の波にボートは多くの人を宙に散らしながら落下していった。
船上から下を見下ろした時、海面まではゆうに10メートルはあったと思う。
濡れることによる低体温症の危険性はいうまでもなく、海面には折れた木片、金属片も散っていることを考えて、装備もなく飛び込んで生きていける可能性は極めて低い。
そして、さらに絶望を与えるかのように…
「あ、あぶなーーーー」
船員が何かを叫ぼうとした瞬間、耳を劈く金属音が夜の海へ響き渡り人々は一斉に悲鳴をあげた。
何が起こったのかというと、ボートを支えていたアームが崩れ落ち、無慈悲にも落ちていった人々に降り注いだのだ。
少女には「誰か、助けてくれ!」下からはそんな悲鳴が聞こえている。それが最悪な想像から生まれた幻聴か、本物の声だったのか分からない。
救助活動をしようとしているのか、柵にもたれかかり、下を覗き込むようにしながら浮き輪のような物を投げ込む船員の姿が見える。
しかし
「ーーーーあっ」
少女が声をあげるより早く、アームに釣られるように支柱が地面を、船の柵を抉り海面に落ちていった。
当然、柵に体重を乗せていた船員も…希望の光も暗い海の中へ…
支柱の残骸が海へ流れ込み、しばらくして海面から聞こえる悲鳴や怒号は聞こえなくなった。
唖然としたように周囲にいた人々は船員の落ちていく様子を見て、静かになった。
同時に、人々の中では最悪の想像が渦巻いている。
果たして、「ボートにはどうやって乗るのだろうか?」
ボートはまだ数隻残っている。しかし、それに船外に下ろす方法を失ったボートにどうやって乗るのだろうか?大きさからして手で持ち上げるのは現実的ではない。
静寂を破るかのように誰かが呟いた。
「おい、どけよ…」
月明かりに反射する金属の板、どこからかナイフのような物を取り出し近くにいた人に体当たりしていた。
「どけっつってんだよ!」
それに反応し、また一人、また一人と、人の波がボートのある方へ流れた。
当たり前のように前方に居た女子供達は彼らに押されるようにして押しつぶされ、海に落ちていった。
柵というセーフティーがなくなっている現状、押し出されれば流れに乗って落ちるのは必然だった。
そしてそれは少女も例外ではなかった。
「え…あ…や、やめて」
横に働く重力にジリジリと端へ追いやられていくのを感じて思い切り押し返そうとした。他の女性や子供達も同じように押し返そうとしていた。しかし、後ろにいたのは大部分が成人した男達だった為に流れは一方的だった。
母子より自分の命を優先するのは生きたいという本能からか何か理由があるのか、混乱している今は分からない。
「い、いやだ! やめてよ!」
そんな声も人々の熱気と雨音に少女の声はかき消されている。そして、耳を覆いたくなる悲鳴と共に先頭にいた人達が海へ落ちていくのが見える。
それが少しづつ近づいていき、少女はその後の展開を嫌でも理解した。
少しづつ
少しづつ
少しづつ差し迫っていった。
そうこうする間にもほんの数メートル先で人が落下していった。
「ーーーっ!」
声にならない声をあげ、倒れ込んで耐えようとする、が
人々は少女を蹴り飛ばし、腹を、顔を踏み潰し、それに躓いた人が体の上に倒れ込んでいった。上に転んだ人の多くは船外に投げ出されていった。それでも流れは止まらない。
「ーーーぉぇ」
お腹を踏まれたせいか、あまりの不快感に内容物を辺りに吐き散らし、一緒に倒れ込んでいた女の顔にかけた。その人の表情は内容物をかけられたことに対する感情は見えず、というよりも意識がなく狂気に満ちた表情をしていた。
よく見ると頭が凹んでいるのが分かった。
それが吐き気に拍車をかけていた。胃液は喉を焼いてもなおも出ている。出しても出しても不快感が止まらない。
ーー苦しい
命を救う為の救命胴衣が少女に対して牙を巻いている。体を圧迫させ、肺を潰している。
「ーーーぅヴ」
体の中では常に何かが弾けるような音が鳴り響き、すぐに酸っぱかった内容物は鉄の味へ変わった。そして、今までの比にならない量の赤い内容物が出ていった。
生きていく上で大事なものが壊れ、固まりが喉を通って外へ外へ流れていく…
ーー痛い、痛い痛い痛い
先程まで嫌だった海へ飛び込むのも今ではそちらの方がマシに見える。
例え金属片に体を貫かれようと
例え上から降ってくる人に頭を割られようと
例え凍死しようと
ーー海へ飛び込みたい
本能が叫んでいた。
それに従うように海に向かって手を伸ばし、地面を手繰り寄せ体を動かそうとした。
海へ向かって…
と、そこで突然体が軽くなったことに気づいた。
意識を失いかけていたのもあって、圧死を覚悟していたのだが、急に不思議と人々の動きが緩やかになっていくのを感じた。
先程まで感じていた圧迫感は消え、潰されていた肺に空気が入り、ズキズキと傷んだ。
そして、どうして体が軽くなったのかわかった。
船尾が緩やかに持ち上がっていると、実感した。不意な浮遊感に対し、必死に地面だったものに張り付いたが、長くは続かず、大きな振動と共に手が離れた。
ーーおかあさん
そう思った時には地面がなかった。
先程まで押しかけていた人達も滑るように落下していった。
落下を続けて
体をぶつけ
落下を続けて
体をぶつけ
落下を続けて
体を回転させながら………
「ーーーーー!」
鈍い音が一瞬だけ鳴り響いたーーーー
海に落ちることなく、身体は……
……………………塩が包み込む
……………………波に乗せられ
……………………発見されず
踏み潰されて柔らかくなっていた体は分解を始め、それからしばらくして少女は海の藻屑となった。




