第一章1 「惨状」
ーーもうダメかもしれない
嵐とも言える最悪の天気に激しく揺れる船上、私の心中はそんな言葉で埋め尽くされていた。
しかし、そんな言葉を否定する心があるのも事実だ。まだ救命ボートが残っているかもしれないし、船が沈み切る前にヘリが助けに来てくれるかもしれない。
助けてくれそうな人がいないということを除けば、まだ諦めるには早かった。
それに、体力には自信がある。救命胴衣もある。最悪、海の上でも救助までの時間を耐えてやる、という気概も希望もある。にも関わらず絶望の色は消えない。
「ーーーっ!」
「お、おい!何すんだよ!」
遠く、救命胴衣の略奪を行う人々に巻き込まれないように目を背けた。
もう少し後ろの列にいたら絡まれていたのは私だったかもしれない。
「やめてください! ほら、救命胴衣はこちらで配ってますから!」
怒号のような声を掻き消すようにさらに大きな声で誰かが叫んだ。
何事かと振り返ると、船員の一人が男達の間に割って入っていくのが見える。
その姿は少女から見るとヒーローそのものだ。
「ーーチッ」
彼のような人がみんなの希望となっているのだろうか?熱を帯びかけていた人々は少しだけ、落ち着きを取り戻したように見える。
この船にいてくれることが、とても心強く思えた。
ーー彼が居てくれればもう大丈夫
自分でも自分が嫌になるが、こうしてただの傍観者であることが最善だ。
それにしても、彼の目は昔の私に似ている。裏表のない純粋な勇気のある目だ。
それは昔、ゲームの中で見た憧れの…。
だが、彼は知らない。
誰かを助けようとしてもそれを助けてくれる人はいないということに。
私が傍観者でありたいのと同じように、手を差し伸べる人はいないと言うことをーー
彼は知らない。
ーー、、、、、
ーー、、、、、、、、、、、、ニュースに私も映るのかな…
ーーっていうか、進むの遅くない?
足元を眺め続けてどれくらい経っただろうか?これから沈むかもしれない船に乗り続けているのは本当に辛い。一刻も早く船から出たいのだが…
ーー?
「ーーげ!」
慌てたように船員が工具箱を持って前列へ走っていった。
声は聞き取れなかったが、何か事故が起こったのだろうか?嫌な予感はするが、私にできることなんてない。彼らがなんとかしてくれるのを期待するしかない。
ーー船なんかすぐに降りればよかった。あの時、ちゃんとそう口にしていれば…
ーー、、、、、、、、おかあさん、おとうさん…
それから数十分は過ぎただろうか?
地面の亀裂の数を数えるのも飽きてきた上、一向に救援ボートの列が進まない。やっぱり何かあったのだろうか?そんな疑問を抱くようになった頃。
「おせぇぞ!早くしろよ!」
数少ない救命ボートにのる為の優先順位が上だった私は後ろから時折聞こえる怒号に耳を塞ぎ込んだ。
それは罪悪感からくるものではなく、自分の番が奪われるかもしれないという恐怖であることを知っている。
いや、いずれ現実になるかもしれないーーそう思わせるはボートの数が原因だ。
ボートはそこそこ大きい。30人は乗れそうだ。しかし、数には限度がある。ざっと数百人を超える避難民を見るに、全員が乗れる数があるようにみえない。
それでも後ろの列の人達が静かなのは、私達の影にボートが隠れているからだろう。彼らは後どれくらいの数のボートがあるのか、なんて知ることができない。
「俺を乗せろ!金ならいくらでも払うぞ!」
「順番を守って!そこ、押さないで!お、おい!待て!」
「ーーーー!」
船員の静止を強引に振り解いた男は流れるように私の頭を横から膝で突き飛ばした。
こうして叩かれるのも数年振りだ。確か、最後に叩かれたのは中学生の頃だったっけ…。何をしでかしたのか、あんまり覚えてない。覚えてるのはお父さんの怖い顔だけだ。
「………」
しかし、さっきのはどんな意味の籠った暴力だったのだろう。
私が悪いことをした? 私の為を思ってなのだろうか? それとも、自分のため?
ーーなんにしても嫌い
「俺はまだ死にたくねぇんだよ……」
あの男のせいか、後ろにいた連中が次々と流れ込んできた。
どうやら、前方ではボートの奪い合いが起こっているようだ。
ーーやっぱり、私の席は無くなるんだろうな
そして男が無理やりボートに飛び込むと、それを見た人々が雪崩のように続いた。
しかし、それは悪手だとも思う。
落下型のボートで無理に人を乗せればどうなるか、なんて想像に難くないのだから。
「ーーうぁぁぁ!」
「ーーーーっ」
押し寄せた人の波にボートは多くの人を宙に散らしながら落下していった。
船上から下を見下ろした時、海面まではゆうに10メートルはあったと思う。
濡れることによる低体温症の危険性はいうまでもなく、海面には折れた木片、金属片も散っていることを考えて、装備もなく飛び込んで生きていける可能性は極めて低い。
そして、さらに絶望を与えるかのように…
「あ、あぶなーーーー」
船員が何かを叫ぼうとした瞬間、耳を劈く金属音が夜の海へ響き渡り、人々は一斉に悲鳴をあげた。
何が起こったのかというと、ボートを支えていたアームが崩れ落ち、無慈悲にも落ちていった人々に降り注いだのだ。
私には「誰か、助けてくれ!」下からはそんな悲鳴が聞こえている。それが最悪な想像から生まれた幻聴か、本物の声だったのかも分からない。
救助活動をしようとしているのか、柵にもたれかかり、下を覗き込むようにしながら浮き輪のような物を投げ込む船員の姿が見える。
しかし
「ーーーーあっ」
私が声をあげるより早く、アームに釣られるように支柱が地面を、そして船の柵を抉り、海面に落ちていった。
当然、柵に体重を乗せていた船員、いや希望の光も暗い海の中へ落ちた。
周囲にいた人々は船員の落ちていく様子を見て、唖然としている。
人々の中では最悪の想像が渦巻いていることだろう。
果たして、「ボートにはどうやって乗るのだろうか?」と、
ボートはまだ数隻残っている。
しかし、船外に下ろす方法を失ったボートにどうやって乗るのだろうか?大きさからして手で持ち上げるのは現実的ではないのだが。
静寂を破るかのように誰かが呟いた。
「おい、どけよ…」
月明かりに反射する金属の板、どこからかナイフのような物を取り出し近くにいた人に体当たりしていた。
どうしてそんなことを…なんて言わない。私が被害者なら言うが、他人なら言わない。普通はそんなもんだろうから。
「ーー!」
それに反応し、また一人、また一人と、人の波がボートのある方へ流れていった。
ナイフを持った狂人から逃げるためか、ボートに乗る為か。
当たり前のように前方に居た女子供たちは彼らに押されるようにして押しつぶされ、海に落ちていった。
柵というセーフティーがなくなっている現状、押し出されれば流れに乗って落ちるのは必然だろう。
そしてそれは私も例外ではなかった。
「…あ…や、やめて」
ジリジリと端へ追いやられていくのを感じて思い切り押し返そうとした。
他の女性や子供達も同じように押し返そうとしている。
しかし、後ろにいたのは大部分が成人した男達だった為に流れは一方的だった。
それにしても、母子より自分の命を優先するのは生きたいという本能からか他に何か理由があるのか、混乱している今は分からない。
「…助けてください! 誰か…」
そんな声も人々の熱気と雨音にかき消されている。
私と言う人間への罰なのだろうか?
今までに行ってきた罪を償うため、逆の立場になれと言うことかもしれない。
ーー耳を覆いたくなる悲鳴が聞こえる。
ーー私と共に先頭にいた人達が海へ落ちていくのが見える。
それが少しづつ近づいていき、私はその後の展開を嫌でも理解した。
少しづつ
少しづつ
少しづつ差し迫ってきた。
そうこうする間にもほんの数メートル先で人が落下していってる。
「ーーーっ!」
声にならない声をあげ、倒れ込んで耐えようとした。
そんな私を人々は蹴り飛ばし、腹を、顔を踏み潰し、それに躓いた人が体の上に倒れ込んでいった。
幸いにも上に転んだ人の多くは船外に投げ出されたので、まだ生きている。
しかし、それでも流れは止まる気配を見せていない。
「ーーーぉぇ」
お腹を踏まれたせいか、あまりの不快感に内容物を辺りに吐き散らし、一緒に倒れ込んでいた女の顔にかけた。
意外にも、その女の表情は内容物をかけられたことに対する感情は見えない。というより、それは意識がなく狂気に満ちた表情をしている。
ーー!
よく見ると頭が凹んでいる。
ーー気持ち悪い…
それが吐き気に拍車をかけていた。胃液は喉を焼いてもなおも出ている。出しても出しても不快感が止まらない。
ーー苦しい
命を救う為の救命胴衣が少女に対して牙を剥いている。
それは体を圧迫させ、肺を潰している。
「ーーーぅヴ」
体の中では常に何かが弾けるような音が鳴り響いた。
プツプツと粒が破裂してるような感覚。
それのせいか、すぐに酸っぱかった内容物は鉄の味へ変わり、体からは今までの比にならない量の赤い内容物が出ている。
生きていく上で大事なものが壊れ、固まりが喉を通って外へ外へ流れていく…
ーー痛い、痛い痛い痛い
先程まで嫌だった海へ飛び込むのも今では、そちらの方がマシに見える。
例え金属片に体を貫かれようと
例え上から降ってくる人に頭を割られようと
例え凍死しようと
ーー海へ飛び込みたい
何かが叫んでいた。
それに従うように海に向かって手を伸ばし、地面を手繰り寄せ体を動かそうとした。
海へ向かって…
意識を失いかけていたのもあって、圧死を覚悟していたのだが、急に不思議と人々の動きが緩やかになっていくのを感じた。
先程まで感じていた圧迫感は消え、潰されていた臓物に空気が入り、ズキズキと傷んだ。
そして、どうして体が軽くなったのかわかった。
船尾が緩やかに持ち上がっていると、実感した。
不意な浮遊感に対し、必死に地面だったものに張り付いた。
しかし、それも長くは続かず、大きな振動と共に手が離れてしまった。
ーーおかあさん
そう思った時には地面がなかった。
先程まで押し寄せていた人達も滑るように落下していった。
ーー。ーーーーー。
ーーあ
何かに掴もうとする手が折れ、地面が近z




