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第5話 人は斯くして強くなる

 翌日。

 軽やかな音色で歌う小鳥が、ピィーチチチ、とさえずる早朝。


「――ィっくし!いってぇ」


 自分のくしゃみの反動と、全身を苛む筋肉痛で目が覚めた。

 ゆっくりと目を開け、仰向けになる。目に映るのは、見慣れたワンルームの天井ではなく、懐かしの平屋の天井でもない。


「………………。」


 どれくらいその姿勢でいただろう。

 ここはどこだろう。その疑問だけが働かない頭をぐるぐると回る時間は、3秒のようでもあり、無限のようでもあった。


「――――今、何時だ」


 ひやりと背中を伝う汗。

 スマホはどこだ。アラームは鳴っていた?ここから会社まで何分――

 錆び付いたようにうまく働かない思考を回し始めた、直後。

 昨日起こった全ての出来事が映画のダイジェスト版の如く繰り返し脳裏を駆け巡り、暴力的なまでに意識を叩き起こす。


 急激に、恐ろしいまでに冷えていく思考。

 全身から血の気が引いていく。


 会社に退職届を出した後に踏み入れた森の中で謎の少女に出会ったこと。同じ場所で、今度は別の少女と出会ったこと。祖母の家だと思い込んでいた平屋が、記憶と大きく異なる場所であること。そして、この――俺の知らない世界のこと。


「ぁ、あ。これは、ゆ……夢、夢じゃない、のか?俺はどうしてここに……。なんで、何が起こってるんだ。」


 黒瀬識という人間は、感受性が高く繊細ナイーブな部類の人間である。そして精神力メンタルも至って人並み程度の持ち主なわけで。

 つまり。

 一晩寝て頭が冷静になってしまった彼にとって、今の状況――つまり、自分が会社を辞めすべてから逃げようとした先で、超常現象に巻き込まれたであろうこと――は、正しく耐えがたい恐怖なのであり。

 到底、『こういうもんか』と受け入れられる事象ではなかった。


(痛みも感じる、記憶もある。だけどあまりにもバカバカしい。妖精?魔法?そんなものが物語の中にしか存在しないことは、子供の時に十分知ったはずだ。)


 考えれば考えるほど、底なし沼にはまっていくような感覚。

 気づかぬ間にはぁ、はっ、と息が上がっていた。

 両腕で、顔、肩から腹、脚、思いつく限りの場所を触る。

 痛みなどどうでもいい。

 かかっていた毛布や布を跳ね除け、がばりと上体を起こし、そのまま飛び起きる。

 周囲を見渡すと、左手にはカウンター、机上には数々の実験器具。右手側には、灯りの消えたランプと大きなバックパック。そして縁側を越えた先には。


「あ、起きましたかシキ~!体のほうは大丈夫ですか?」


 水晶の髪とオパールの瞳を持つ少女、ニクスがこちらに笑いかけていた。

 まだ燦々には程遠い、柔らかな陽射しを浴び、映し出される銀とも白金とも取れない神秘的な色合いの姿は、まさに絵画のよう。人離れしたその美しさに、識は一瞬目を奪われた。

 それも束の間、彼女の声かけに無言で視線を切り、平屋を出、裏の小川に走る。

 自分が自分でいるのかを確かめたかった。

 何か、証を――。


 ズザザ、と小川の近くに倒れこむようにして、四つ這いになりながら静謐な水流に顔を映し出す。


 真っ黒な髪、同色の瞳、男性にしては白い肌。今は恐怖でひきつった表情をしている。

 昔、俺の頭を撫でながら祖母が「お母さんに似たんだねぇ」と嬉しそうに語った言葉を思い出した。


「変わってない……何も。はぁっ、俺は黒瀬識、俺は」

「シキ」


 呼びかけに反射的に振り返る。

 鈴蘭のような、華やかでいて可憐な声。しかし今は、隠すことなく憂いの声色が滲んでいる。

 数歩離れたところに、朝餉と思しき椀を持ちながら少女は佇み、こちらを心配げな表情で伺っている。


「ニク、ス」

「はい。ニクスですよ、シキ。……一体どうしたんです、その顔。まるで雨の日に道端に捨てられたケット・シーみたいですよ。」


 サクサクと、秋の芽を踏みながら近づいてくるニクス。


「来るな‼」

「っ!」

「ぁ――違うんだ、ごめんニクス、来ないでくれ、頼むから……。もう何が何だか分からなくて……俺はどうしたらいいんだ、どうすれば」


 僅かに目を瞠り、その場で歩みを止める彼女。その姿を見た俺の胸が、ズキリと嫌な音を立てて軋んだ。多大なる罪悪感、ぬぐい切れない焦燥、そして、じわじわと蝕む絶望感が嗤いながら俺の心を腐食する。

 自分を見失いそうな感覚。急に足場を失った喪失感。先ほどみた水鏡に映った俺の黒々とした瞳が、まるで底なしの穴のように思い出される。


 すぐ近くで、「ふぅ」と息を吐く音が聞こえた。次いで、サクリと椀が草の上に置かれる気配。

 しゃりしゃり、と小石と草を踏み分けながら、人影は近づいてくる。


「シキ」


 己を呼ぶ声と共に、ふわりと日を透かして水晶の髪がきらめく。

 そして、


「――っ⁉」


 彼女の細い両腕が、俺の背中へと、緩く回された。

 左の肩口に、確かな人の体温を感じる。


「ニク、」

「シキ、よく聞いてください。貴方がどこから来て、どんな経緯があってあの場所に倒れていたのか、私にはわかりません。会ってまだ間もないですし。」


 でもね、と彼女はささやく。


「わかる、わかりますよ。あなたがきっと優しい心を持っている人だというのは。そしてそれと同じくらい、強い心を持っている。」


 この世界の音がすべて消えてしまったかのように、彼女の息遣いと、言葉と、そして俺のバカみたいにうるさい鼓動だけが聞こえる。

 少し体を離し。

 透明な、光を湛えた瞳で、ニクスは、俺を真っすぐに捉えた。


「――だから、こういう時は、言葉よりも行動だと思うのです。」


 天使とも違う。女神なんてものでもない。

 誰よりも等身大の彼女は、その瞬間『ただのニクス』にしかできない行動をした。


「シキ」


 左手は俺の右肩を掴んだまま、ニクスの右手が思い切り後ろに振りかぶられる。


「え?」

「――――目ぇ、醒ませぇぇぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええ!!!!!」

「まっブぉごああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 スッパ――――――――――――ンッッッッッ


 快音とはこのこと。

 森の生き物たちの2割が逃げ。

 その日俺は、人生で初めてのトリプルアクセルをした。




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