第4話 必殺技あーん、すなわちサイキョー
シキ――シキ――。
どこかから俺を呼ぶ声がする。
そして、ゴホゴホと誰かの咳込む声も。
段々と音が明瞭になっていくにつれ、咳込んでいるのは自分だということが分かった。
あぁ、こんなこと前にもあったなぁ。子供のころの記憶だっけ。
「さっきのことじゃないですかシキ!」
「なんで聞こえてんだよ……。」
「あ!生きてるぅぅぅうううううええええええぇぇぇぇぇ」
ゆっくり開けた瞼の先には、涙と鼻水で美しい容貌をぐちゃぐちゃにさせながら、「口から言葉漏れてましたああああ今度こそダメかと思ったああああ」と叫ぶニクスの姿があった。
酷く乾いた上体を億劫に持ち上げれば、視界に入るのは己の体。そして、先ほどまで見て回っていた平屋の屋内だった。
(頭が痛い……なんだったんだ、さっきの光景は。)
酷く恐ろしい光景だったような。そんな心地だけが俺の認識を支配していた。
誰かと話したような気がするが、正直覚えていない。
ズキズキと疼痛を訴える頭を、こめかみを抑えることで誤魔化す。
それを見たニクスが、はわわわと目に見えて狼狽えた。
「シ、シキもう寝ていたほうがいいんじゃないですか!?寝袋持ってきますから、待っててください!あと、ご飯持ってきます!」
「いや、大丈――って足速すぎるだろ!?」
言うが早いか、彼女は持ち前のスピードで部屋から飛び出し、外の設営から寝袋と食料を持って帰ってきた。その時間約3秒。床に穴は開かなかった。
それらを脇に置いて、俺の体を強制的にカウンターに寄りかからせる。……薄々気づいてたけどこの子、相当な怪力だ。
「ありがとう……って、その手、何?」
「シキ、さぁ口を開けてください。」
俺の左隣に、正座のように足を揃えて座ったニクスが、椀と匙を持ちながらさも当然というようにのたまう。匙の上には、ほかほかと湯気の立つ温かそうなスープが掬われていた。
「え、え、いいよ、俺自分で食べますから」
「シキは今日何回も気絶しているんです、ここは私に任せてください!」
これ、いわゆる『あーん』ってやつでは?そういう必殺技があるのは知っている。人伝だけど。
状況の居たたまれなさに思わず丁寧語に戻ってしまう。
一方ニクスはと言えば、使命感に燃える戦士のようにふんすっ!とやる気満々だ。口がオメガのようになっていて、少々、いやかなり小動物っぽい。
もしかして楽しんでる?
あれよあれよという間に匙が唇に付くかという距離まで運ばれてきた。仄かな酸味――レモンに近い――と、豚肉のような甘い脂の香りが、鼻をくすぐる。
途端に、俺の腹の虫が情けない声を上げた。抗いがたい本能的な欲求。僅かに見える柑橘の皮は艶々と彩を添え、形の残っている肉からは芳醇な肉汁が今この瞬間も染み出している。出所不明の光源を受け、目の前にある質素なスープが、キラキラと輝くこの世で最も美味な料理に見えてきた。
しかも、その奥にいるのは、にやにやと笑みを浮かべる美少女。こちらも例の出所不明の光源に照らされ、腹部、大腿部などが特に際立って見えている。
観念しよう。
俺の負けだ。
「いただきます……。」
「さぁ、たんとお食べくださいねっ!」
せめてもの意趣返しにと、ニクスの手ごと匙を掴んで食べてやった。
慌てている彼女を見たら、ちょっと笑えた。
*
辺りが冥色の闇に包まれる頃。
すべての荷物を平屋の中に引き上げ、今夜はここを宿として一晩過ごす流れとなって。
ニクスのほうは寝袋に潜り込み、俺は毛布一枚を借りている。
最初、彼女は頑なに「寝袋と毛布使ってください!私が見張りをします!」と主張していたが、流石にそれは俺も譲らなかった。そこまでされたらかっこ悪すぎるし。
妥協案として、今の形に落ち着いたのだ。
「美味かったです。ご馳走様でした。」
「よかったです!旅で得たお料理スキル、三ツ星レベルですね!」
Vッと喜ぶ彼女の笑顔を見ると、何故か自然と口角が釣られて上がる。
一人分には多く二人分には少ない鍋。そこに用意されたスープの、実に半分以上をペロリと平らげてしまった。味付けもシンプルで美味かったな。
「ニクスさん」
食事後、家の裏に流れていた小さいながらも清涼な川で口やら顔やらを洗い。
だいぶ普段の調子が戻ってきた俺は、毛布を下半身にかけ、上体のみ肘を立てて起こす。同様の姿勢で寝袋に半身を潜り込ませる彼女と、改めて明日以降の行動について話し合おうと声を掛け、
「ニクスです」
「え?」
彼女に話を遮られた。
「シキ、なんでちゃんと名前で呼んでくれないんですか?ニクスサンって誰ですか?」
「いやこれは敬称というか」
「ニクスと呼んでください。」
オパールの瞳が、強い意志を宿した目線で俺を貫く。束の間、彼女の目に映る間抜けな顔と見つめあってしまった。
ややあって。
「こほん……。……ニクス。」
「はい!なんでしょうかシキ!」
照れ隠しにわざとらしい咳ばらいを一つ。遠慮がちに名前をそのまま呼ぶと、彼女の清麗な美貌がパッと花開いた。
無邪気な笑顔だ。見てると力が抜けそうになる。
何故か俺は懐かしいような、妙にノスタルジックな心地になった。
心の中で頭を振り、語ろうと思った内容に意識を戻す。
「明日以降、君はどうするんだ?」
「そうですね、私は……“果ての観測所”に向かって、旅を続けようかなと思っていたんですが……。あ、シキは“果ての観測所”を知っていますか?」
「言葉の意味だけなら分かるけど……。」
「ふぅむ。“果ての観測所”とは、私たちが今いる大陸、『アルブ』から遠く遠く離れた場所にある、孤島の通称です。そうだ!折角なので、簡単に大陸の名前をお伝えしましょう。」
(――っ?)
ズキ、と頭の片隅が疼いた。
『アルブ』。その言葉はただ地名を指す名前のはずなのに、酷く胸をざわつかせた。
彼女はいつの間にか近くに置いていた、不思議な輝きを灯すランプ――『霊灯』というらしい――を俺たちの間に寄せ、そのにバックパックから出した地図を広げ俺に語りかける。
「ここ、地図の中央にあるのが私たちの今いる『アルブ』です。そしてその少し左上にあるのが、武の大地『カストラ』。『カストラ』と『アルブ』の間には、『カストラ諸島』があります。アルブ大陸の、端っこですね、ここは。大体このあたりです。」
ニクスは俺に説明しつつ、羽ペンで地図に〇《まる》と名前を書き込んでいく。ごめん、悲しいかな俺はこの世界の文字は読めないんだ……。そのことを告げるのは後にしようと思った。
「次に、『カストラ』の下、『アルブ』の左。小さな島々を隔てて浮かんでいるのが、『アト・カタラータ』。エルフの大魔術師にして聖女、カタリナが漂着後、単独で国を造り上げたといわれていますが、詳しいことは私にもわかりません。なにせ、閉鎖的な島――というか、国ですので。魔法や神秘についての造詣が深い者の間では、知らない人はいないそうですが……。」
ニクスの白い指が、羽ペンを魔法の杖のように扱い地図の上にさらさらと書き込んでいく。
それを見てうなずくものの、段々と情報の波にのまれてしまいそうになる。俺の理解という名の小舟、頑張ってくれ。
「そして、『アルブ』の下。この沢山の島々が浮かんでいるのは、『ウェルテクス群島』です。『アルブ』ほどの陸地はありませんが、その分大陸とは比べ者にならないくらい、様々な種族の交流が盛んに行われているそうです。船と、調教されたドラゴンでの交易が主ですね。」
地図がぼやけて見えない。
「それから、『アト・カタラータ』と『ウェルテクス群島』の間、『アルブ』の左下のこの空間に位置するのが、『スカーライ』。海の狂信者と呼ばれる人たちが住んでいるそうです。まことしやかに噂されているのは、どうやら失われた幻の大地の復活を……シキ?」
俺を乗せた小舟は、睡魔というセイレーンに誘われ見事に転覆していた。
尤も、そのセイレーンの声帯はニクスなわけだが。