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第1話 追憶のラベンダー、すなわち誘い

 或る、蝉の声が賑やかな午後のこと。

 日本のどこかの平屋の縁側に、純粋無垢な瞳をした少年と、朗らかな表情をした老婦がいた。


「おばあちゃん、それなんの匂い?」

「ああ、これかい?これはラベンダーという花の香りよ。」


 梅雨のじとっとした空気が、少しずつからりとした空気へ移り始める頃。

 ふと隣から流れてくる、爽やかでありながら甘く柔らかい香りに、少年――幼き頃の俺は思わず尋ねた。


「この花には力があってね。かぐと、心が安らいで……。そして、時を、世界を超えることもできるようになるんだって──有名な作品に書いてあったんだよ。」

「え!?すげー、タイムマシーンじゃん!」

「ふふ、そうだねぇ……」


 平和で穏やかな空間で。

 子供らしく覚えたての言葉ではしゃぐ俺に、祖母は優しく微笑んだのだ。



「──香りの力を信じて。そしたら、しきちゃんをきっと助けてくれるからね。」



 ……


 …………


 ………………



 ────────────────────────


 時は流れる。


「おい、聞いてるのか黒瀬くろせ!!」

「っ……」


 束の間の逃避から戻った俺を待ち受けているのは、『現実』という名の残酷な世界。

 一瞬しん、と静まりかえるオフィスの隅で、今日も上司に怒鳴られている。

 理由?それは単純明快に、


「さっき刷った資料どこにやったんだって聞いてるんだ!!」

「……あの、ですから部長のデスクに」

「どこにもねぇって言ってんだよ!ったく適当な事……あ、あったあった。ハッハッハ」

「……。」


 俺が『そういう役回り』だから。

 いるよねなんか、アイツ毎回こんなことさせられてるなぁとか、そういう奴。俺が正にそれです。

 生贄、身代わり、スケープゴート。

 そういえば、俺が18歳で入社してから部のまとまりが良くなったとかなんとか、風の噂で聞いた。


 死ぬほどどうでもいい。


「もっとはっきり言ってくれないとわかんないよ?黒瀬くん。意見はハッキリとね!報連相大事だよ?前から言っとるだろうがッ!」


 威圧するようにガァンッと大きな音を立て、デスクの脚が蹴られる。


 しかし、今日で。

 それも終わり。

 ──――何もかも。



「部長……ずっとそんな事やってますよね。」

「ハッハ、ん?」


 感情の失せた目で、目の前のふんぞり返って笑ってる人間を見据える。

 ゲラゲラと下品に笑う顔が、一変して睨め上げてくるが、構いやしない。

 一言口から滑り降ちるだけで、後に続く言葉は止めどなく零れていく。


「昔っから怒鳴って萎縮させて言うこと聞かせて。あんた言うことがでかいだけで筋が通っちゃいないですよ。こんな会社じゃ、潰れるのも時間の問題じゃないですか。」

「……は?何様だお前。お前何舐めた口利いてるんだ」


 やや面食らったであろう反応だが、先程とは異なる怒りの表情で、おもむろに立ち上がろうとしている。

 だが――構わない。


「今日で……辞めます。お疲れ様でした。今までありがとうございました。」

「あ?待て、おい待てコラ!何勝手なこと言ってんだ!!規約違反だぞ!!」

「……退職届は前に2通も出してますから違反はしてません。前回は内容証明もあります。では。」


 事前に決めた台詞を、早口に言い捨て去る。

 後ろから迫る怒声に、反射的に身体が跳ねそうになりながら──血が滲む唇を噛み締めることでそれを堪え、一目散に階段を駆け下りた。

 あぁ、他の奴らの目線が突き刺さる。

 好奇、憐憫、異端者に向ける嫌悪の目。かつていやというほど晒されてきた。

 もうここには居られない。これ以上己を削って血を流したくはない。

 そしてこれは、せめてもの『恩返し』であった。


 自転車に跨りながら、真後ろにかつての恩人の怒り狂った声を幻聴を聞き、ただ只管に走る。


 走って、

 走って、

 走って。


「はぁ、はぁっ、……はぁ……っ。」


 大粒の滴が顎から滴り落ちる頃、雑多な繁華街から、徐々に静謐な風景へと景色が移ろっていく。

 田んぼ、林、その先に……森。

 あの昏い森の奥に踏み込めば────


 きっともう。誰の目も届かないのだろう。


 黒瀬識くろせしきに家族はいない。

 いや、正確には、『居なくなった』のだ。

 父と母は幼い頃に行方が分からなくなり、ずっと祖母の家で育ってきた。その祖母も、識が高校2年生の時に忽然と姿を消し、行方不明となってしまった。

 地方新聞の小さな欄に、

〔現代の神隠し!?遺された子供は今〕

 などと、傍迷惑はためいわくな記事まで書かれる始末。

 多感な時期にマスコミや外部の人間にしつこく家や学校まで付き纏われ、人間不信になりかけた結果、引きこもり生活を余儀なくされた。

 誰もが予測しなかった祖母の失踪。

 遺言書などはなく、遺された遺産らしいものは共に過ごしたあの家だけで。祖母の預金口座にあった貯金でなんとか高校を卒業したが、人との関わりを極端に避け続けた。

 大学、『普通』の生活。そういったものとは無縁で、ただその日を生きるのに精一杯だった識を拾ってくれたのが、先の部長であった。

 正直、会社には恩義を感じている。たとえ伸ばした手を刃物で切り刻まれるような痛みを孕んでいたとしても。


 しかし、いやだからこそ。


 頭のどこかで理解してしまっていた。そしてどうしようもなくめていた。

 数多のきずはやがて硬い殻となり、心を覆ってゆく。

 誰にも見せず。誰も見えず。



 あぁ、この世界は敵だらけなんだ。

 識は自分を取り巻く世界に、そう烙印を押したのだった。



 時を戻して今。

 俺は、森の中を彷徨っている。

 知らぬ間に日は落陽らくようとなり、木々の隙間から射し込む光が頬をいていた。

 晩夏から初秋へと木々が装いを変える中、ざく、ざくと秋の芽を踏みながら深い森の奥へ奥へと進み続けた。

 何かに取り憑かれたかのように。何かを探し求めるかのように。


 ──ふと。


「……!」


 爽やかでありながら、甘く柔らかい香り。

 幻かと思うほど微弱なそれ鼻腔を掠めた瞬間、過去の記憶が脳裏に鮮明に蘇る。


『この花の香りには力があってね。かぐと、心が安らいで……。そして、時を、世界を超えることもできるようになるんだって──』


「これは…………ラベンダー?」

「なぁにそれ」

「っ!?」


 耳を疑った。

 人など当然居るはずがないと思っていただけに、急激に意識が覚醒する。

 一面緑ばかりの深い深い森の中、気づけば正面には懐かしいあの平屋が佇んでいて。

 その縁側には──


「初めまして。こんにちは、こんばんは。いい夕日だね?」



 見知らぬ少女が居た。



「だ……れですか、君は。」


 白いワンピースから伸びる脚をプラプラと振りながら、少女はツンと唇をとがらせている。

 彼女の髪は、つややかに育った青葉のような色から、毛先にかけては美しい淡青色たんせいしょくで、夕映えを受け幻想的に煌めいていた。

 こちらを見つめる双眸は、猫のようにいたずらに笑みを描いていて。ぱちぱちと瞬く度に、神秘的な濃淡を湛えた紫紺しこんの瞳が見え隠れする。


「名前を聞く時は、自分から名乗るべきじゃない?」

「え?は、はい、確かに……すみません。黒瀬、識です。」

「私はラヴァーナ。そう、貴方が────『シキ』。ようこそ、()()おばあちゃんの家へ」


「…… ()()()()()()()()()()?」



 どういうことだ。

 素早く周りを見回すが、ここは記憶にあるままの祖母の家だ。何がどうしてたどり着いたのかは覚えていないけれど。

 そして目の前のいるのは、明らかに会ったことの無い少女。名前だって、聞き間違えでなければ日本語ではないだろう。

 今まで、俺に従姉妹がいたなんて話は、一切聞いたことがない。兄妹などもってのほかだ。


 もしかしたら、俺が間違えているのだろうか?

 実はここは祖母の家でもなんでもなくて。

 遠い記憶と自身の目に映る風景を重ね合わせてしまい、幻影を見ているだけなのだろうか。

 だとしたらここはどこなんだ……。


 そんなことを。


 ───取り留めもなく、そんなことを考えていたから。




「ずっと、貴方を待っていたんだよ。」




 濃厚でせ返る程の甘い香りが、眼前まで迫っていたことに気づくことができなかった。




 音を置き去りにした刹那。

 文字通り時空ごと切り取られ、停止する。




 目の端で、千々に草花が、砂塵が不自然に舞っていて。


 此方へと伸ばされた細い両腕に、視界を奪う天蓋のような蒼碧に、薫衣くのえ草と見まごうほどの美しい双眸に。

 俺という()()は、囚われた。






In(イナ) Aitérnum(イテェルヌム)




 ──この世界へ、ようこそ」






 蝉の声が五月蝿い。

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