闇喰影法師
はじめまして、葉月佳音と申します。
大して怖くないホラーですので、安心してお読みください。
ざあ、梢の擦れ合う音がまといつく、
とぷん、水の跳ねる音が追いかける、
「――……」
ゆっくりと意識が浮上し、佐神忍は目を開けた。何の変わりもない、大学の小講義室。ああ寝てたのか、と口に出すともなく呟いて、テキストに目を落とした。そう長いこと寝ていたわけでもなさそうで、講義の内容は記憶にあるところからさほど進んでいなかった。
時々ノートを取りながら、起きているような眠っているような曖昧な感覚に身を委ねる。日向にいる猫の気分を味わっていると、隣から出席簿が回ってきた。名前を書いて次に回す。この講義は、わざわざ開始時に出欠など取ってはくれない。
チャイムが鳴って講義が終わると、忍は猫のように目を細めて伸びをする。荷物を持って、席を立った。
ふわふわした足どりで講義棟の出入口に辿り着いたところで、後ろからの声に呼び止められた。
「せんぱーいっ、佐神センパーイ」
ふらり、そう形容するしかない覇気のなさで振り返ると、サークルの後輩である雪代香波が手を振っているのが見えた。
「センパイ、サークルには来ないんですか?」
「行かない。なんかヤな予感するし」
「何でですかぁ~、みんな首長くして待ってますよぉ、≪怪奇を呼ぶ男≫!」
「……だから嫌なんだけど」
大体、そんなもの呼んだ覚えはこれっぽっちもない。たまに“すれ違う”ことはあるにしても。
「行きましょーよぉ、せーんぱい」
香波は小動物のようにまとわりついて離れない。忍はため息をついて、校門に向けて踏み出そうとしていた足をクラブハウスの方向に向けた。
大学の敷地の片隅に位置するクラブハウス。そのさらに隅っこの、見るからに端に追いやられていると分かる部屋――そこが、大学有数の無法地帯・オカルト研究会の根城だった。
忍はこの大学の二回生で、オカルト研究会――通称オカ研に籍を置いていた。無論自主的にではなく、友人に引きずり込まれたという方が正しい。忍自身は怪談の類にまったく興味がなく、金縛りすら経験がないというオカルト的にはあまり面白みのない人間だからだ。
しかしそんな彼を、高校時代からの友人は放っておいてくれなかった。先頭切ってオカ研に入り、それでは物足りぬとばかりに、関わりたくなかった忍まで引きずり込んでくれたのだ。
がちり、と大仰な音をたて、少々立て付けの怪しいドアが開く。室内には数人の男女。彼らはちらりとドアを一瞥し、そして忍の姿を認めると一斉にざわめいた。
「珍しく来たぞ、≪怪奇を呼ぶ男≫!」
「でかした、雪代くん!」
オカ研の会長(つまりここにたむろする変人たちの首魁)・天道太郎が狂喜する。その惜しみないねぎらいに、香波はえへー、と嬉しげに笑った。
「では、久々に佐神くんも顔を出したことだし、ここは一つ前々からの計画を実行に移してみようと思うのだが、どうだろう」
「……前々からの計画?」
何だろう、なぜか激烈に嫌な予感がする。ふふふ、と妙な含み笑いをしている天道に、忍は逃げたくなった。だが、ドアの前には故意か偶然か、香波が立ち塞がる形になっていてすぐには逃げられない。
忍が逃げあぐねている間に、天道は“前々からの計画”とやらを華々しく披露し始めた。
「佐神くん、都内某所にあるというⅠ峠トンネルの噂は知っているかい?」
「……ええまあ」
都内有数の心霊スポットだ。一応は知っている。というか知りたくなかったが知ってしまった。情報源は言うまでもなく、忍をオカ研に引きずり込んだ友人だ。
「それなら話が早い。実は近々、そのⅠ峠トンネルに挑戦してみようと思うのだが、ぜひ佐神くんも」
「遠慮します」
一言の下に却下。だから自分はこのテのことには興味も情熱もないのだと、いつになったら分かってくれるのだろうか、ここの面々は。
「どうして!」
「バイトです」
別れ話を持ち出した恋人に追いすがるようなセリフで詰め寄る天道に、忍はあっさりと答えた。嘘ではない。彼は週に二、三日ほどの割合で、クラブのボーイのバイトをしている。午後七時から午前一時まで。
不参加の理由には充分とばかりに、意気揚々と言い切った忍に、だが天道はさらに晴れやかなる笑顔でのたまった。
「それなら大丈夫だ! 決行は今度の土曜、午前三時だからな!」
……目の前のパイプ椅子で殴り殺してやろうかと、本気で思った。
そして週末、午前二時五十分。
バイトが終わったばかりの忍を拉致する勢いで掻っ攫い、オカ研は目的地であるⅠ峠トンネルにいた。
「いや~、山の上は空気が清々しいなあ!」
たわけたことを言っている天道をじとりと睨み、忍はため息をついた。真っ暗なトンネルが異界への入口のようにぽっかりと口を開け、入口付近の街灯はちりちりと音をたてながら点滅している。道にはおそらく自分たちの先達であろう人間が残したと思しきゴミが散らばり、虫の声すらしない不気味な静けさ。極めつけに、さっきから吹くのは妙に生ぬるい風。
コレが清々しいのか!? 本当に!?
心底そう思っているのなら、彼はもうアッチの世界の人間なのだろう。関わっちゃいけない。むしろ全力で逃げたい。
だがその考えを見透かしているかのようなタイミングで、天道は忍の腕を掴んだ。
「知ってるかい、佐神くん! このトンネルは、午前三時に奇数人数で手を繋いで真ん中まで行き、懐中電灯を三度点滅させて戻ってくればあら不思議! 人数が一人減っているという噂がある、恐怖のミステリースポットなんだ。ちなみにいなくなった一人は、未だに行方が分からない」
「そんな洒落にならないミステリースポット、早々に閉鎖すべきです」
「さあ、いざ噂の真偽を確かめに!」
「お先にどうぞ」
「君がいなくちゃ始まらないじゃないか、≪怪奇を呼ぶ男≫」
「僕がいようといるまいと消えるもんは消えるんでしょうが! 大体そんなもん呼んだ覚えはありません!」
「やっぱりまず最初は、野郎どもで危険の有無を確かめるべきだろうな。というわけで野郎ども、適当に三人くらい来て手を繋げ」
「寒いです。寒すぎます。ついでに何で三人限定なんですか」
「せめて五人は欲しいが、内二人は俺と君とで確定じゃないか。さあ覚悟を決めて手をこうぎゅっと」
「確かに色んな意味で覚悟が必要な状況ですね」
何が楽しくて、男五人で手を繋がなければならないのか。ていうか何でそうしっかり握るんですか。
色々言いたいことはあったが結局言えずに、忍は両手をがっちりホールドされてトンネルへ足を向けることになった。
「……何で僕が巻き込まれてるんだろう」
「まあそう言うなって。これ引けたら後でウチで飲み直そうぜ」
そう宥めにかかってきたのが、忍の高校時代からの友人にして彼をオカ研に引きずり込んだ男・井端隆治だ。結構いいとこの息子で、免許を取るより先に百万以上する新車を親が買って寄越したという腹の立つ――もとい、羨ましい話もある。今日もオカ研の足として車を走らせてきた。
「酒はいい。今日一日でどれだけ飲まされたと」
「……そういや、おまえのバイト先ってクラブだったな」
五人は隆治を真ん中に、右に忍と天道、左にもう二人という並びでトンネルに入って行った。中は暗く、どこからか水でも漏れているのかぴたんぴたんと水滴の落ちる音がする。そう長いトンネルでもないはずなのに、向こう側は明かり一つ見えなかった。両端の二人が持つ懐中電灯だけが頼りだ。
「……暗いっすね」
「そりゃあそうだろう。近くに新しい道ができて、この辺りは整備されずに放ったらかしだからな」
道理で今にも切れそうな街灯がそのままなわけだ。
「ところで、隆治大丈夫? こういうパターンだと、真ん中って結構やばそうなんだけど」
「だ、大丈夫だほら、お守りと清めの塩と、あと水晶と祖母ちゃんの嫁入り道具の懐剣借りてきたから!」
確かに準備はばっちりそうだが、水晶まではともかく懐剣って。むしろそれを嫁入り道具に嫁いできた祖母ちゃんって一体。
だが突っ込む暇はなく、五人はトンネルの中央付近に到達した。
「じゃあ……やるぞ」
さすがに押し殺した声で、天道がおもむろにそう言った。手にした懐中電灯を上に向け、ボタンを押す。
かち、かち、かち……。
……三回点滅させたが、これといって変なことは起きなかった。妙な呻き声も聞こえてこないし、ほの白い人影が浮かび上がってもこない。
「……なーんだ、何も起こんないじゃないっすか~。やっぱただの噂だったんじゃないっすか?」
数秒ほど息詰まるような沈黙が続いた後で、隆治の隣のオカ研会員がほっとしたように言った。
「むう……ここも評判倒れだったか」
天道が唸る。ここ“も”ということは、今まで確実に何ヶ所か回って……いや、考えると恐ろしいことになりそうなので割愛。
張り詰めた雰囲気が緩みきったその時、ずっと沈黙していた隆治がぽつり、呟いた。
「……先輩」
「うん? 何だい?」
「俺たち、仲間ですよね」
「決まってるじゃないか」
「忍、俺たち友達だよな」
「そうだけど、何そのどっかで聞いたようなセリフ」
「いや……足下……」
その一言に、ふと隆治の足下を見ると。
暗闇でもなぜかはっきり分かる白い手が、隆治の両足首をしっかりと掴んでいた。
「――う、うわああぁぁぁっ!!」
悲鳴をあげたのは、忍の反対側で隆治の呟きを聞いてしまったオカ研会員だった。隆治の手を振り解き、脱兎のごとく逃げ出していく。
「ひっ、で、出たぁ!」
「ああっ、せ、先輩―――っ!! 助けてくださいよぉ―――っ!!」
隆治の叫びも空しく、オカ研会員たちは脇目もふらずに全力疾走で逃げていく。唯一すぐに逃げなかった天道も、
「せ、せめて記念に」
と、隆治の足首と白い手をデジカメに収めた後、
「じゃ、健闘を祈る!」
清々しいほど無責任な一言を残し、あっという間にトンズラを決め込んでしまった。
「うわぁぁぁっ、お守りも塩も水晶も懐剣も持ってるのに、どうして俺がぁぁっ」
「そんなの、役に立たないときは立たないもんだよ」
「うぉわっ」
一人取り残されたつもりで慨嘆した隆治は、すぐ隣から聞こえた声に一瞬身を竦ませ、次いで逃がすものかとばかりに縋りついた。
「忍―――! やっぱおまえは親友だ―――!」
「っていうか右手ちょっと力緩めてよ痛いから。――それよりお守り、それじゃ効き目ないと思うよ。安産祈願のお守り持ってきてどうすんのさ。それにこれ、塩じゃなくて砂糖、」
清めの塩とやらを一舐めしてそう突っ込んだ時、ざわ、と忍の全身に鳥肌が立った。すぐさまズボンのベルトに挿していた懐中電灯を点ける。ハロゲン球のついた強力なやつだ。
白い光の中に――黒々とした影がいくつも、こちらに近付いてくるのが見えた。無論トンネル内に忍たち以外の人間はいない。
生きた人間は。
(……いる、な。結構)
ため息をついて、忍は隆治を見た。切り抜ける方法がないではないが、友人にはあまり見せたくない。
――仕方ないか。
忍はさり気なく隆治の背後に回り込み、
「てい」
とすっ。
「くはっ」
三段オチのようにいいテンポで、手際よく友人の首に手刀を打ち込んで昏倒させた。クラブでのバイトが実は用心棒兼業だというのは、友人たちには内緒の話だ。
人目を気にする必要がなくなったところで、忍は懐中電灯を地面に置いた。自分の影が長くトンネル内に伸びるのを見て、左手首につけていた数珠を外した。
――とぷん。
水の跳ねる音が聞こえた気が、した。
ざわり。
忍の左腕の影が、不自然に震えた。実際の左腕は指先一つ動かしていないというのに、影だけが身じろぎするように蠢き――唐突に膨張した。人の胴体ほどもありそうな太さに膨れ上がった影は、ついと忍の影から離れて勝手に動き始める。
それは古代魚にも似た、丸い頭と鋭い牙を持つ魚に見えた。巨大な影だけの魚が、トンネルの壁を泳ぎ回っている。
左腕を欠いた自分の影を眺めて、忍は薄く笑みを浮かべた。
「……恨むなら、僕をここに連れて来た会長を恨んでくれ。僕だって来たくて来たんじゃないんだ」
隆治の足首を掴んでいた手が、するりと暗闇に消えようとする。忍は目を細めた。
「――いいよ。喰べちゃいな」
影の魚は、凄まじい勢いで手に喰らいついた。白い手が、地面と接しているところから、ばりばりと貪り食われていく。忍たちを取り囲むように近付いていた影が、恐れをなしたように動きを止め、遠ざかろうとするのが見えた。
「もう全部喰っちゃっていいよ。こんな洒落にならない心霊スポット、残しといてもしょうがないだろ」
忍が酷薄なまでにあっさりと言い放った。影の魚は牙を剥き、逃げる黒い影を追いかける。光の輪の中で、残酷な影絵が展開された。影の魚に喰われて、黒い影たちは頭を欠き、胴を欠き、救いを求めるように手を差し伸べる。
ひい――。
イヤダイヤダ、消エタクナイ――。
声なき絶叫に、忍は少し目を細めただけだった。
「……今まで散々引きずり込んだだろ。ツケが回ってきただけだよ」
音のない惨劇が続く。
――オマエダッテ、異形ノクセニ――!
呪詛のようなその叫びに、忍は唇を歪めた。
「今さら言われるまでもないよ」
――コッチニ、来イ……! オマエモ、コッチ、ニ……!
がぶり、と音をたてそうな勢いで、影の魚が最後に残った黒い影に喰いついた。未練がましく伸ばされた手は、忍の爪先数センチのところで魚の口内に消えた。
「……はい、終わり」
右手で弄んでいた数珠を左手首につけ直す。途端に、影の魚がふっと消え失せた。同時に戻る、左腕の影。
左手を握ったり開いたりしながら、胸中でひとりごちた。
(便利は便利だけど、使ってる間は左手動かせないんだよなあ、これ)
自嘲じみた笑みを浮かべて、忍は懐中電灯を拾い上げた。
自分は霊能者でも、霊媒師でもない。さまよう魂を救うことなど、できはしない。
牙を剥くものは、ただ喰い返すだけだ。
――気を取り直して、忍は自分で伸した友人を叩き起こした。
「隆治、ほら起きなって。こんなとこで夜更かしする気?」
「……う、ああ、忍……あ、あれは!? あの手は――」
「手? ああ、ライトで照らしたら消えちゃったよ。それより、もう戻らないと、先輩たち僕ら置いて帰っちゃってるかもよ」
「あり得る……つーか思いっきり見捨てられたよな、俺ら」
「そのことについては、後できっちり問いただそう。ほら、さっさと立つ!」
首の辺りをさすりながら、隆治が歩き出す。その後に続きながら、忍はちらりとトンネルを振り返った。
「……喰われたくなければ、おとなしくしてるんだね。僕たちがまた興味を持たないように」
わずかに残るかもしれない影たちにそう告げて、トンネルを後にした。
「まったく、とんだ肩透かしだったよ」
数日後、クラブハウスに顔を出すなりの天道の第一声に、オカ研の面々はきょとんと彼を見つめた。
「どうかしたんですか、会長」
「それが、こないだのⅠ峠トンネル! あの時撮った写真を某心霊サイトに投稿したら、これがまた大評判だったんだが」
某心霊サイトとやらが妙に気になるが、突っ込んだらおそらく終わりだ。
「あの後チャレンジした連中は、何度行っても何も起こらないと文句を言い出してね」
「あんな強烈なイベントがあったじゃないすか!」
足首をがっちりホールドされた経験者の隆治が反駁する。ちなみに天道を始めとする面々が、後輩二人を見捨てて我先に逃亡した事実については、その後麓に降りるまでの運転と居酒屋での支払いの肩代わりによって秘密裏に葬られた。
「うむ、そう思って俺も密かに再チャレンジしたんだが、結局何も起こらなかった。何より、あの辺りのおどろおどろしい素晴らしい雰囲気が、なぜか欠片もなくなっていてね」
そうだろうと、隆治に半ば無理やり引きずられてきた忍は思う。もちろん、「あそこの幽霊は根こそぎ“魚”に喰わせちゃいました」などとは言えないのだが。
「俺は考えてみた。あの時と何が違ったのか。そして分かった!」
ぞくり、といきなり背筋を走った悪寒に、忍は心持ち腰を浮かした。
「あの時は君がいたんだ佐神くん! そう、≪怪奇を呼ぶ男≫――」
皆まで言い終える前に忍は椅子を蹴り、ドアに向かって走っていた。
「ぬ、逃がすか! 者ども、追えー!」
危ういところでオカ研の根城を脱出し、忍は校門に向かって走る。オカ研の追撃の気配を背後に感じつつ、ひとりごちた。
「……やっぱ、生きてる人間が、一番厄介だ……っ!」
主人公は一応人間ですよ?(笑)