夢のある工場
ある工場の一室、そこに恰幅のよいスーツ姿の男と、白衣をきたメガネの男がいた。
「それで、これを我が社に買って欲しいということかね?」
スーツの男は、目の前にあるインクを持って訝しげに言った。この男は、この工場を経営する社長であり、目の前の眼鏡の男の売り込みを聞いている最中であった。
「ええ、そうです。このインクは働きアリから取り出した特別性でして、これでやって欲しい仕事を書いて渡せば、決してサボること無くやってもらえるという夢の商品です」
「そんな商品をどうして我が社に?」
そんな夢の商品ならば、もっといい会社にも売ることができるだろう。決して小さい工場ではないが、大手と比べればまだまだ小さい会社だった。
「大手では、実績がなければこうして交渉もすることができないもので。それに、この商品は単純作業の方が効率が良いのです。複雑な作業では指示する方も書くのが大変ですからな」
なるほど、と社長は納得した。たしかに、工場で働く人間の中には不まじめな人間も多い。それがなくなれば、効率も上がるというものだ。
「最初は、お試しいくつか置いていきます。それで納得していただければ、契約の方よろしくお願いします」
インクの試供品を置いて、メガネの男が帰る。
翌日、社長は物は試しと事務の人間に在庫整理をこのインクで指示した。するとどうだろう、いつもの時間の3分の2の時間で終えて帰ってきた。
話を聞くと、休むことやサボることなど考えもしなかったと答えた。これは本物かもしれない、そう思った社長は何回か実験を繰り返すが、全てさぼること無く仕事をして帰ってきた。
「これはいい商品だ。至急契約したい。あと、コピー機で使えるようにしてもらえるとありがたい。一々手書きでは面倒なのでな」
社長は、興奮気味にメガネの男に話した。
「それはありがたい話です。ですが、コピー機はやめたほうがよろしいかと。いえ、できないというわけではないんですがね」
「どうしてだね。コピー機で一斉に命令したほうが効率が良いだろう。一々手書きで命令を書いていては、効率が落ちて、それこそ本末転倒じゃないか」
「確かに、その通りですね。商品は明日にでも工場に届けさせます。それでは失礼します」
夢のインクを手に入れた社長は、次々と命令を書き、印刷して配っていった。これにより、さぼる人間はいなくなり、効率もかなり向上した。
そんなある日。
「社長、緊急事態です!」
一人の社員が、社長室に飛び込んできた。その社員が言うには、その社員の同僚が過労で死亡したということらしい。さらに、働きすぎによる弊害で精神的に参っている人間も多くでていて、工場が稼働できない状態になっているらしい。
「い、一体どうしてそうなるまで放っておいたんだ」
「しかし、仕事はきちんとしていましたから、そんな状態になっているとは思わなかったんですよ。自分も、仕事をしているときは他に気を使っている余裕はなかったですし」
慌てた社長は、メガネの男に電話をかける。
「君のインクのせいで、大変なことになった。どうしてくれるんだ」
メガネの男は少しため息をついて答えた。
「たしかに、このインクはあなたにとっては夢のインクだったかもしれません。しかし、働く側にしてみれば現実の話なんですよ。その人をみないで無機質に指示を出せばこうなることはわかったことです」
ブツリ、と切れる電話。噂を聞きつけたマスコミの声が、遠くに聞こえる。
これから工場をどうするか。社長は頭を抱えた。しかし、その指示を書ける人間は、誰も居なかった。