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86.浴衣

「お待たせしました」

 最近通い慣れ始めた邸宅の庭の縁側で。

 他にすることもないのでコンビニで買った花火のパッケージを必要ないくらいゆっくり丁寧に開けていればそんな声を掛けられる。

 準備をしますので少しだけ待っていてください、と帰宅後奥に下がっていった水音さんの声が。

「いえ、全然です」

 想像より早いな? と思いながら顔を上げれば元々実年齢より下気味に見える顔に子供のようにイベントを待ちきれない顔をして庭に立っていた。

 手には小学校で使うのよりワンサイズ下くらいのブリキのバケツを持って。

「火の用心は大事です」

「間違いありませんね」

 一瞬だけ真面目な顔になった水音さんに、しっかりと頷く。

 間違ってない、決して間違ってはいない……間違っていたのは。

「あれ? もしかしてオジサン、ねーさまが浴衣とか着てくるんじゃないかって期待してた?」

「え?」

「……夏の風物詩なのは間違いないです。が、そんなお手間は取ることないですよ」

 ご希望でしたら今からでもそうした方が……と呟く水音さんに慌てて手を振り訂正する。

 間違いなく見目麗しいだろうし、つい多少期待をしてしまっていたが……その必然性は全く無い、おじさんの戯言以外の何物でもない。

「あまり遅くなってもいけませんから、やってしまいましょう」

 指先に点火するのにちょうどいいサイズの火を出しながらこちらも腰かけていた縁側から庭先に下りる。

 誤魔化し以外の何物でもないのは承知していた。




「じゃ、電気消すよー」

 ワンコちゃんが一声掛けた後、中庭に一番近い部屋の電気を落とせば都会の中ではそうそう味わえないレベルの暗闇に覆われる。

「ライター役の人、火をお願い」

「了解ですよ」

 流歌さんの声に苦笑いしながらもまあ確かに一々そういう道具取るよりは早いよな、と突き出された導火線に火を灯す。

 ゆらりとした赤い火が棒の先の本体まで伝って行ったと思えば煙と共に緑色の火花が散り始めて目を細めてしまうくらい一気に眩しくなる。

「あとは順次他の人の火を使って下さい」

「オッケー」

 声を掛け合いながら鮮やかな火が増えていく。

 それを見ながら、今は必要ないだろうと伊達の眼鏡を外して胸ポケットにしまう……カラー入りレンズが無くなったことでもう少し色合いが鮮やかに目に入ってくる。

「楽しいね、ねえさま」

「うん」

 色の付いた火花もそうだが、それが照らすものも実に好いと思い、思わず口元が緩む。

 そろそろ終わる頃合いだろう空の花火も良かったが、こちらも綺麗な花が咲いている。

「よーし、次行こう次」

 勢いが弱まった後、ふっと消えた花火の手持ち部分をバケツに入れられると残り火が消える音とバケツに当たる小さく鈍い金属音。

 二巡目に入り色合いと散り方が違う花が咲き始めたな、と見ていれば。

「ところで、おじさまは何をなさっているので?」

「花火見物、ですよ?」

 ちゃんと楽しませてもらっています、と顔と声にも出したけれど。

「きちんと参加してください」

 隣のワンコちゃんに両手持ちをさせてフリーになった水音さんに迎えに来られてしまう……そうまでしてもらうと抗えず、遅まきながらも輪に加えてもらう。

 紙の筒ではなく棒に直接火薬が塗ってあるタイプを手渡され、最後まで火勢を維持している栗毛ちゃんの花火から二人して着火してもらう。

 程なくしてさっきまでとは派手目に散り始めるそれを見ながら。

「んー……」

「征司さん?」

「こういうの一〇年以上ぶりですが、見物も良いけどこれもなかなか」

「ですよね」

 とはいえやはり、花は見るものだな……等と考えながら。

 もう少し長く見たいな、とか思う。

「これなら」

「?」

「あのコンビニのを全部買い占めてくればよかったかもですね」

「悪い大人がいるー!」

 少なくとも良い大人じゃないかもしれませんねぇ……なんて内心で呟けば。

「ダメですよ、征司さん」

「え?」

「他にやりたくなった人が居るかもしれませんし、小さな子とか」

 それは確かに。

 大人げがなさ過ぎたか。

「……やっぱり買占めは止めておきます」

「はい」

 丁度消えた花火をバケツに突っ込みながら。

「今度は大きめのホームセンターか専門店に行ってドカンと爆買いしてくることにします」

「まあ、おじさまってそういう人ですよね」

「……花火でドカンはまずくないかなー」

「あ、あはは……」




「では、今度こそ」

「はい、お気をつけて」

 一時間半ばかり前と同じような構図で。

 帰ろうとする組を門まで見送りに来てくれていた……やはり、ちょっと花火が買い足りなかった気はする。

 そしてさっきは花火の時間を知っていて出てきたであろう彼女も、今は似た気持ちでここまで来ているのが僅かに表情に覗いていた。

「じゃ、お先~」

 ヘルメットを被ってそこそこの排気量のバイクにまたがった流歌さんが片手を上げなかなかいい排気音と共に去っていく。

 さっきの変装衣装は兎も角、槍をどこに仕舞ったのかは謎だが……まあいいか。

 続いて俺も車に、とボタンを押しロックを解除しながら後ろを振り返る。

「明々後日に、ですかね」

「はい」

 一応確認。

 夏休みに絡めた変則日程で朝になってから今日何かあったかを迷うことが度々あった……別に歳のせいではないと思う。

 ドアを開け、シートに座りつつバックミラーの中で栗毛ちゃんと二言三言話し手を振ってから豊かな黒髪の後姿が門の奥に消えていくのを確認してからエンジンを始動させた。




「それはそうか」

 そこから五分後。

 それなりに大きな駅の前で信号待ちの時間に横断歩道を渡っていく人の流れを見ながらハンドルに顎を乗せて呟く。

 花火大会帰りの女の子グループだったり、はたまたカップルだったりするが浴衣姿の女の子が割と目立つ。

「……まあ」

 日頃からこれでもかと和装が似合うのは知っているので見てみたかった気持ちは否定できない。

 そんなことを内心で思うくらいはギリギリで許される……かな? というところだが。

「ライン越え、だよな」

 だったらまだこの夏残されているだろう花火大会に声を掛けてみろ、というある意味では真っ当なプランは別の問題に引っ掛かると首を振る。

「そういうのは一〇年前にやっとけ、俺」

 せめて五年……いや、五歳か?

 まあ、詮無き事、だ……と鼻を鳴らしてから、青信号を確認して身を起こし。

 無論安全な範囲でだが普段より少々乱暴気味にアクセルを踏み込んだ。





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