76.醬油チャーシュー麺(並と大盛)
「向田さん」
「?」
一人での仕事に終始した日、報告等を纏めて退社しようとしたところで声を掛けられる。
「立花さんも上がりですか?」
「はい」
歩調を緩めれば、受付嬢モードの愛想はそのままに表情が少し砕けた感じになった人に気持ちハイペースな歩調で追い付かれる。
「何かありましたか?」
「ええと、ですね……あ、申し訳ないんですが飲みのお誘いではないですけれど」
「俺だって年がら年中そういうことばかりしている訳じゃないですよ」
苦笑いで応えてから、前回の件を思い出して付け加える。
「まあ、前回ご一緒させて頂いた時は楽しかったですよ……詳細は忘れましたが」
「あはは……」
お互いにちょっと痛いところがあるのでそんな言い方をしてみる。
「そうではなくてですね、明日ご担当される案件の方で」
「おや」
その言葉にアフターの気分になっていた背中を僅かに伸ばし直す。
明日は水音さんとワンコちゃんで「依頼」の方をこなす予定だが何かあっただろうか?
「夜船さんから伝言と預かり物なんですが」
総務所属の占星術師さんの名前が出る。
依頼などを識別して最適な振り分け先を決めたりしてくれているが……。
「直接言いたかったらしいんですが、ちょっとお子さんがお熱を出して保育園のお迎えに行かなければいけなくて」
「それは大事ですね」
頷きながら応じる、それは最優先事項だ。
「まずこの封筒は困ったときに開けてください、とのことで」
「了解です」
会社の封筒に入った厚めの紙を渡される。
「それと、どうやら今度は人の霊のようで……若い子のケアはしっかりね、と」
「なるほど」
動物や道具と違って具体的な形や言葉で未練に触れる可能性があるから……場合によっては心に痛みが走ることもあるだろう。
特に片方は繊細だものな……芯もしっかりしてはいるけど。
「気を付けておきます、とお伝えください」
「はい」
そんな会話の後、どちらも特別なことがない限りは電車通勤、何とはなしに最寄りの駅まで並んでいくことになったが。
「……えーっと」
時折、何やら考える仕草が混じる。
「立花さん?」
「いえ、お伝えしなければいけないことは確実にそれだったのですけれど、何故かもう一つ気になることがその前にあった気がして」
「ふむ?」
生憎こちらは占い師でも何でもないので思い出して頂くに任せるしかない。
片手を肩に掛けたバッグの紐に、もう片方の手を顎に添えて考え込む立花さんに並走しながら一応その行先を気に掛ける……良かった、そのまま街路樹に突っ込むようなベタな人ではなかった。
「うーん……」
そうすること三分。
丁度時間帯なのか串揚屋が暖簾を外に出しているところを通りがかった瞬間、立花さんが手を打った。
「そうでした!」
「おお」
とりあえず一緒に歩いているうちに思い出して貰えてよかった、じゃないと年頃の女性にどんな粗相をしていたか今晩ずっと気になるところだった。
「この前レオちゃんと三人で飲んだ時……」
「詳細は忘れたと申し上げましたよ?」
甘苦い初恋の愚痴なぞそれこそ飲んで流してしまったけれど。
「いえ、そうではなくて」
「?」
「あまりの醜態に忘れていましたけど、お会計、お任せしてしまっていましたよね?」
「それこそとっくに忘れましたが」
軽く肩を竦めつつ、年下の女性があれだけの量しか飲んで食べてないならこっちが全部出してしかるべきですよ、と言外に主張する。
酒豪揃いと言っていい現在の周辺環境の中、二杯で落ちる人は希少だ。
もし仮に二人で飲むのならお会計時に何と言われても八割はこっちが出さないと気が済まないし、過ぎた話なら尚更のこと。
「それに後、タクシーまで」
全然軽いので余裕でお運びすることも出来たけれどまあそういう訳にも行くまいと使用した覚えがある。
「男の面子、ということにしておいて下さい」
「む……」
立花さんはここから地下鉄ですよね? と片手を上げて去ろうとしたものの。
「普段から飲み物とか差し入れとか頂いている上でそれは流石に社会人として恥ずかしいんですが」
「いえいえ、どうかお気になさらず」
「……ちなみに向田さん、本日の夕食のご予定は?」
「商店街で刺身でも買って帰ろうかと」
あ、と思ったものの。
定刻前にシミュレートしていたプランは考える前に口から出てしまっていた。
「約束も買い置きもないということですね? 何かご馳走させてもらいます」
「いえ、申請がわからなかった時に教えて頂いたりもしましたし」
「その時もカフェオレをご馳走になりましたよ」
「近場のコンビニのですから」
水掛け論になるな、と判断しちょっと失礼ながらも強引に去ろう、と決めたのだが。
「……!?」
「いいから、今日の晩御飯は私に付き合って頂きます」
出そうとした右足が動かない……いや、足どころか両腕までもが全く。
何とか自由の利く視線を動かすと、立花さんのヒールが傾いてきた陽光で出来た俺の影を踏ん付けて……?
「影縫い、ですよ」
「マジですか」
「ただの受付嬢だと思っていました?」
「……恥ずかしながら」
魔力の探知にかける間もなくという立花さんのテクニックが素晴らしいのも勿論あるが。
普段の柔和な姿に完全に油断していたのも否定できない、そして童顔の可愛い系なのにやることが結構えげつない。
「どんな物騒な人がカチコミしてくるかもしれない所にいるんですから、このくらいは嗜んでいますよ」
「そんな愉快なイベントがあるなら立花さんファンの野郎どもが我先にとぶちのめしに飛んでくるでしょうに」
「そんなお手間は取らせませんし、皆さんの留守を預かるのが総務部の役目ですから」
フチなし眼鏡の奥で笑う表情に、ちょっとだけいつもと違うものを感じてしまう。
そういえば姉さんも言ってたっけ……女の表の顔だけに騙されるなよ、って。
「では、観念して奢られてくださいね?」
「もし断れば?」
「このまま向田さんが指一つ動かせない状況で目の前でさめざめと泣きましょうか」
「……マジで勘弁してください」
そんなことをおっしゃる立花さんの笑顔は、知り合ってから今までで一番極上だった。
「いらっしゃいませー」
いつもの笑顔でお団子ちゃんが迎えてくれる。
いや、それは非常に好いんだが、そしてこの店はとても良いところなんだが……。
「ラーメン一杯くらいがちょうどいいじゃないですか?」
そう言った十数分前の立花さんの顔が蘇る。
「お酒は私が弱いですし、お洒落なところに長居するのは色んな人に悪いですから」
とのことで……深くは突っ込むまい。
そしてラーメン一杯が適正価格なのは間違いないし、ちょっと俺の自宅に近いのは気が引けるが立花さんの部屋からのアクセスも悪くない立地だし、何よりここは何を食べても美味いので。
「あれ? お兄さん、また今日は別の女の方と?」
「……人聞きの悪いことを言わないでください」
「えへ、ごめんなさい」
小さく舌を出して笑われる。
まあつまり、立花さんと二人でも冗談のネタになる程度の感じで見えているということで、望ましいと言えば望ましい。
「職場の方に美味しいラーメンを紹介してと言われたので来ましたよ」
「いつもありがとございます」
空いているのでテーブル席どうぞー、と案内してもらい席に付き、お団子ちゃんがお冷などを取りに一旦去ったところで。
「向田さん」
「はい」
眼鏡の奥の目が光る。
どれかと分類すればさっき影を縫われたときに近い感じに。
「見たところ高校生の女の子と、随分と仲良さそうですね」
「常連ですし、あと虎のクラスメイトなのでそこから話をするようになりまして」
「ああ、そういう……」
殺気……いや、殺気に近い何かが、半減する。
「ちなみに別の女の人というのは?」
「そりゃレオさん……」
「……あの言い方は複数ですよ?」
「それと、実家から義弟が来た時にその付き添いの明松と」
「ああ、そういうことでしたか」
なら良いんです、と立花さんがいつもの立花さんに戻る。
何はともあれホッとする。
「こちらメニューですけれど、そちらのお兄さんに聞いた方が良いかもです」
そんなことをやっていると、お団子ちゃんがコップとおしぼりを二つ置いてご注文決まったらどうぞー、と去っていく。
「そんなに通っているんですか?」
「家の近くで一番美味くて定食系もあってメニュー豊富で割と遅くまでやっていてくれているので」
「なるほど」
これは私も覚えておかないと、と呟いた立花さんが再度聞いてくる。
「ちなみにお勧めは?」
「本当に全部ですけれど、やっぱりチャーシューが美味しいんですよ」
あの軽く噛むだけで旨みが溢れる絶品。
「じゃあ、私は醤油のチャーシューラーメンで」
「では、同じに」
「特盛ではないんですか?」
「それは虎の担当なんで」
大河君も食べそうですよね、と笑いながら立花さんが手を上げれば心得たものですぐさまお団子ちゃんが来てくれる。
「醤油チャーシューを二つ……なんですが」
「「?」」
「この方、いつも通常サイズですか?」
「いえ、大盛です」
「じゃあ、片方はそれで」
ここは下手に抵抗するのも見苦しいし失礼だよな、とやられましたと顔で言うのみに留める。
はいかしこまりました、とこちらも笑顔で伝票を記載していたお団子ちゃんの手が、ふと止まる。
「あれ?」
「?」
「お姉さん、ちょっと見えちゃったんですけどバッグのチャームって……蒼リフ、ですよね? しかもかなり初期のレア物」
お団子ちゃんがその為にバイトを頑張っているアイドル、だったな。
「お好き、なんですか?」
「恥ずかしながら仕事先でたまたま貰って、デザインが良いので使っていた物なんです……あ、勿論良い曲は多いな、って思っていますけど」
「ですよね!」
キラキラの目で跳び上がらんばかりに食い付いてくるお団子ちゃん。
「もしかして、そのピンクは……」
「です!」
「そういうことですね」
わかる人にはわかるのか、おじさんはよくわからないけど。
「よかったら、お譲りしましょうか?」
「いえ、そういう訳にはいきません!」
立花さんの笑顔の申し出に、あら即答。
「そういうのは、きちんと自力で手に入れないと」
「わかりました、ごめんなさい、変なことを言って」
「いえいえ、お気持ちは本っ当に嬉しいです……お兄さんも、ステキなお客さん連れてきてくれてありがとう!」
ビシッとそう敬礼を決めた後、端っこだけどチャーシューの増量しときますね、と言い残し注文を携えて奥の方に。
「元気で良い子、ですね」
看板娘ってああいう子のことですよね、と呟く受付嬢さんに異議なしと頷く。
ギリギリセーフかな、と軽くおしぼりで額の汗をトントンと取り除く。
「若さが沁みるくらい眩しいですよ」
「って、向田さんはそこまで老け込まないでくださいよ」
「いやー、おっさんですよ」
さっきのお団子ちゃんみたいな真っ直ぐな目と言動はもう出来ないな、と思いつつ肩を竦めるけれど。
「でも、皆無だとも思いませんよ?」
「何がです?」
「若さ、ですよ」
クスッと笑ってから、立花さんが尋ねてくる。
「ところで、お飲みにはならないんですか?」
「いや、流石に自重しますよ」
「今ならビール一杯まで、サービスしますよ?」
立花さんの……受付嬢の情報通のサービス。
「……それって有効期限今夜限りですか?」
「んー、特にそういう訳ではないですよ?」
「ちなみにビールにしか引き換え不可で?」
「もう少し融通利かせましょうか」
「じゃあ、キープで」
「オッケーです」




