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61.夏の霧と乙女心(後編)

「天ざるそば、お待たせしました」

 そうこうしているうちに注文していた品が届けられる……特盛と並の二品のうち並を清霞さんの方に置こうとする店員さんの視線に無言で頷く。

 まあご覧の通りではあるけれど万が一、ということはあるかもしれないしそれが正解だろう。

 その万が一で目の前のご令嬢がこの山盛りをペロリと平らげても面白いかもだけれど。

「お酒は、どうなさいます?」

「天ぷらも美味しそうなのでまだお飲みになるならお供しますよ」

「では、同じものをもう一合、冷で」

 かしこまりました、と店員さんが下がった後。

「一合でよかったんですか?」

「わたくしの方はわりと満足しましたので、お付き合いで」

 嗜み程度というやつか、とどちらともなく箸を蕎麦に出す。

 汁の器を覗けば中々味の濃そうな色合いなので三分の一ほどだけをつけて一気に啜る。

「なかなか香りの強い」

「良いお蕎麦ですね」

 そのまま天ぷらも挟みつつ食べ進める……一度に啜る量が違うので量は倍でもこちらが先に食べ終わるかも、という目算が立ち始めたところで追加の冷酒が届けられる。

「……このくらいで」

 半分ほど注いだところで言葉で制され、逆にこちらの方を並々と満たされる。

 お互いにお猪口に手を伸ばしながらいい機会だと口を開く。

「そういえば信頼度、ということでいずれご相談したいかな、とは思っていたんですが」

「あら?」

 何でしょう? と大葉の天ぷらを口にした後、箸をそっと置いてこちらに向けられた視線に提案する。

「自分が責任を持ちますので、敢えて守りを固めるのではなくてこちらから誘いをかけてみる、というのは如何ですか?」

「……」

 じいっとこちらを見ながら思案している表情が少し赤くなった後、ぽつりと呟きが来る。

「それって……」

「はい」

「征司さまが仲介してあの人も交えて飲もう……というお話で?」

「……はい?」

 思わず素で聞き返した後、かちゃんと音がして箸置きから箸が落ちる。

 少し考えて、まあそういう解釈もできるか? と自分の発言を省みている……そのうちに。

「確かに何度も話し合いという体で会食したことはありますけれどもう少し人数を絞って砕けた飲みの席ということでしょうか? でも、確かに思い切りが必要かも……でしたら新しくお着物も仕立てて、ああでも形式ばらないということでしたら洋服? それに、こちらが一人では不安ですから流歌辺りに同席して貰って」

「あ、あのー……」

 随分と、出来上がってしまっていないか?

 これはいっそのこともう少し飲んで頂いて酔いを進めた方が……? いや、下手をするともっと厄介になるかもしれない。

 ひんやりと冷たい徳利を片手に思案する。

「お店は経営しているところがいくつかありますがどこが良いのでしょうか? ああ、でも、お勧めの所にエスコートしてもらうというのも捨て難いですし……」

 本当、どうしよう……冷酒を口にしながら脳内で呟く。

 お望みだというならそういう形での飲みをするのも吝かではない……が、怖いもの見たさに近い状態であり後が非常に恐ろしい気がする。

 まあ、一旦ここは。

「勿論、それが良いとのことであれは場を設けさせていただきますよ、暁の方も二つ返事で来ると思いますし」

「まあ!」

 それはそれは嬉しそうに両手を合わせて、って繕うのを忘れてませんか?

「ただ、今ご相談させて頂きたかったのは水音さんの身辺の方、です」

「……」

 さっきまでの乙女ぶりが嘘のように頬の酔いが抜けて目つきが細くなる。

 暁が色々と協力しているときはしているという辺りは本質は出来る人で間違いない。

 ふぅっと小さな吐息を漏らした瞬間、周囲に霞が掛かったような感覚が来る……恐らく周囲からの認識が更に下がって声なども漏れないような状態になったのだろう。

「お話は、聞かせていただきましょう」

「いつまでも固め続けている中で綻びが出るよりは、と考えています」

「わたくしたちは手を出すな、と」

「しばらく様子を見てはいましたが、気配がないので」

「……」

 しばし黙考の構えに……店の喧騒が大きく聞こえる。

「水音の安全に、責任は持てまして?」

 そしてその中で聞こえてきた声は静かながらもはっきりとした芯を感じるものだった。

「もし、必要でしたら」

 その問いに指先を切る仕草で応える……もし何でしたら違えば命を奪うような呪詛にでも血判しますよ、と。

「そこまでできるのですか?」

「完全な保証は出来ないかもしれませんが、半端な気持ちで水音さんのことを任せてほしい、とは言えないってだけですよ」

「……」

「全く自信がないわけでもありませんので」

 似合っていないのは承知で小さく笑って見せながら、もう少しこちらの事情を開示する。

「自分も向田姓を与えられた養子だったせいか一度遭遇したことがあります、同じような輩に」

「!」

「その時は撃退のみが精一杯で、力の大きさが向こうの望みではなかったせいかそれきりですが……あの時の心残りをさっぱりさせたい気持ちもありますし、それに」

「それに?」

「水音さんの顔を曇らせる要素のうち、確実に排除できるものはまず片付けたいところです」

 そう言い切ると、向こうの視線の圧がふっと抜ける。

「そういえば」

「はい?」

「水音のことで気を揉んでいた際に言っていましたね、華さんの次に信頼できる者を派遣するので安心していいですよ、ってあきちゃんが」

「……」

「検討、してみることに致しますね」

 箸置きから落ちて転がっていた箸を取った音を合図に周囲が元に戻る。

 さあお蕎麦の風味が逃げる前に食べてしまいましょう……と促されるもやや固まっているこちらの反応に。

「……あ!?」

 真っ赤になり慌てて口元を押さえるが、もう遅いでしょう、と思う。

 呼び方もさることながら、そう口にした時の表情とか口調が……まあ、そういう機微に疎い自覚のある俺でももう「そうじゃないか?」が「そうだろう」になるほど、だった。

「……征司さま」

「はい」

「痛くはしませんので、少々おでこに触らせていただいても?」

 引き攣った笑顔で提案される。

「……何をするんで?」

「大丈夫、少し記憶を綺麗にするだけですので」

「口外はしませんので勘弁してください」

「……本当に?」

「本当です」

 なお疑り深い目で見られる。

「人の繊細な部分を弄る趣味はございません」

「……わかりました」

 先程と同等くらいに背筋を伸ばして応えれば、やや不承不承ながらもこちらに出そうとしていた手の方は引っ込めて貰えた。

「万一の際は記憶の中から同等の羞恥を引っ張り出させていただきますので、お覚悟くださいね?」

「心します」

 軽く戦慄が走るくらいの言葉が耳から入ってくる。

 確か、暁から与えられた情報によれば幻術や精神操作系を得意とするので逆転も不可能ではないものの「もしも」の時は絶対に先手を許すな、ということだったか。

 それはそれと基本的に善良な人なので良い関係になれるならそれで、とも。

「さあさあ、折角なのでもう少しお飲みになりますか?」

「……酔い潰れても記憶を失ったことはないのでご期待には沿えないかと」

 まあ、美人さんの勧めなので有難く受けながらも一応そう口にすれば。

「そういう可愛げに欠けるところは、そっくりな兄弟ですこと」

「……誉め言葉だと思って頂戴します」




「本当によろしかったのですか?」

「ええ、一応こちらが年上ですし圧倒的に食べていますので」

 その後、小振りの甘味も味わってから会計を済ませ蕎麦店の外に……幸い、梅雨の終わりの雨も切れ間で一部には星も見える。

「上司はわたくしの方、だったかと」

「こちらの面子を立たせてくださいよ」

 大仰に肩を竦めて見せれば、ではそのように……と受け入れてくれる。

「お帰りの足はどんな塩梅で?」

「一瞬で戻れますので、ご心配なく」

 そういえばお忍びで抜け出してきた、ということだったか。

「気を使っていただいて、ありがとうございますね」

「いえ、一応男ですので」

「ふふふ……小父様のご教育のたまもの、でしょうか?」

「まあ、そんなところです」

 上品に笑いながら指摘される。

 当然ながら古い家同士のこと、親父殿とも面識あるよな、この人……と思いながら親父殿に飲みの作法を仕込まれた時を思い出しつつ頷く。

 どちらかというと飲み歩きのお供をさせられた面も大きいが。

 まあ、あと他の女の子へのレディファーストは姉さんに口を酸っぱく言われたのもあるが……万が一口を滑らせれば報復としてその辺りを暴かれるのだろうか?

「一人で飲みたくて出てきましたが」

「ええ」

「これはこれで、良いものでした」

 それが嘘ではないとわかる表情で柔らかく言われる。

「それは光栄です」

「あと、お話しいただいた件はよく考えてみます」

「よろしくお願いします」

 ではごきげんよう、と頭を下げた後、取り出した扇をパチリと一つ鳴らすとたちまち姿が掻き消える。

 ほぼ予備準備なしでそのレベルの転移とは……と若干舌を巻きながらも、いずれ提案しに行こうと思っていた案件を思いがけず消化できて助かったな、という気分にもなる。

「さて、と」

 後は鬼が出るか蛇が出るか……多分、最初に蟲が来そうだけれど。

 今度はもっとスマートに片付けなければ、と思いながら帰宅の途に付こうと爪先を巡らせた後、もう一度行き先を変える。

「まずはコンビニだな」

 女性の前故、ミニサイズで妥協したあんみつでは満たし切れなかったデザート欲を晴らすのが先決、だった。





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