46.記憶
「征司さん、この前選択肢とおっしゃってたり、初めて使ったとかも……」
「ええ、はい」
「その……途中から」
言葉を探している様に、まあその必要はないと結論から言う。
「一四のとき、使えるようになりました」
「それって」
「ええ」
「突然のこと、だったんでしょうか」
「……そう、ですね」
少し目を閉じて記憶を辿る。
「当時の自分にとっては全く知らなかったことですが、今にして思えばあれもそうだったのかもしれない、という予兆はあったかも……といったところですか」
「そう、なんですね」
水音さんは頷いてから、また少しし考え込んで慎重に言葉を選ぶ。
「もし、征司さんがご不快でなければ、その時のことを教えて頂いてもいいでしょうか」
「……目的は、伺っても?」
「その、自分の中にあった知らなかったものに対してどのように向き合われたのかを、知りたいんです」
真剣なまなざしに、元々塵ほどにしかなかった否を言う気は消え失せた。
「自分は俗に言う、見えてしまう人間だったのは確かですね」
一口、コーヒーを飲んでから口を開く。
特に教会の壁に何かの染みのようなものが見えたりとか、それが最初だろうか。
「それが当たり前でいたんですが、他の人には見えなくて、そしてそれを言うと気味悪がられたりするので言わなくなっていましたけれど」
「……」
「その、使えるようになった日の半年前くらいから自分が昔住んでいた場所のそれが日に日に濃くなっていることに気付きました」
「何か、理由はあったんですか?」
「……本筋とは関係ないので詳細は省きますが」
二人の神父の顔が浮かんで、消える。
それに抱く気持ちは正反対。
「まあ、偶にある話ですよ、責任者の方が変わって方針から雰囲気からがらりと変わる……そんな話です」
少しだけ、幾つかの傷痕が痛んだ気がした。
「空気が悪くなったから影が濃くなったのか、もしくは逆なのか、多分両方だったんでしょうけれど少しずつ環境や状況が悪くなっていくにつれてそれに消えてほしいと願っていました」
「征司さん……」
「勿論、願うだけではどうともならなかったんですが、その日は偶々身近なところでボヤ騒ぎがありましてね、こう思ったんですよ」
無意識のうちに掲げた右手を開いていた。
今も、あの時も。
「燃えてしまえ、と」
今でもはっきりと思い出せる、断末魔を上げながらこちらに襲い掛かってきた染み。
混乱でどうすればいいか立ち尽くしていたところを炎の嵐が横殴りに焼き払っていった。
「それを偶々、担当する地域に異様な気配があると調伏に来ていた我が家の当主に見られていましてね……」
『面白い火種を持っているな、坊主』
「……拾われたんですよ」
一回目は鳥居の下で、二回目は十字架の下で。
「異質なもの、と言えば確かにそうかもしれませんが」
何となく腱と浮き出た血管を見ていた甲の方から手を返して今度は細かい傷の多い手の平を見る。
「あの当時はむしろ興奮していた感じですね」
「……興奮、ですか?」
「さっきは拾われた、と言いましたけれど……ちょっとアレな言い方をすれば、買い上げて貰えたんですよ」
何を言っているんだろうか? と不思議そうな顔にこの子の発想にはないことなんだろうな、と内心で苦笑いしながら続ける。
「向田の家で戦力になって働く代わりに腹一杯食べさせてもらえることと、出ていくことになる孤児院の方にそれなりの金額の寄付と……を約束してもらったんですよ、親父殿に」
それとあと、姉さんの火傷の痕を治療して貰う約束も……後にそれは空振りになったことを知ったけれど、本当にあの時は俺の手で全てが良くなるんだという妙な高揚を覚えたものだった。
結局、中学二年のガキの想像より世間は辛かったけれど、それでもあのままよりは事態は好転したと思っている。
「……」
気が付けば右手が今度は姉さんに「勝手に決めるな」と思い切り殴られた頬を抑えていたけれど……これでいいと思う。
今思い返せば脇腹に穴を開けられた時より余程効いたな、アレと女の人の涙は。
そう思ったところで、ご要望とはいえあまりオジサンの昔語りは楽しいものじゃないだろうと一秒ほど目を閉じてとっとと結論を話す。
「だからまあ、驚きはしましたが割と肯定的に……」
受け入れてしまっていたんですよ、と聞いてくれていた水音さんの顔を見る、けれど。
「えっと……どうしました?」
蒼白、と言っていい肌色で俯いて細かく手を震わせている。
「……ごめんなさい」
「え?」
全くその言葉が予想外で間抜けな声を出してしまった。
「征司さんが養子なのかな、ということは何となくわかっていたんですが」
「はい」
まあ、次期当主の義弟とはあの見た目の違いだし……ね。
「その、あの、ええと……」
「孤児院に居たっていうのは、言いませんでしたっけ」
「……はい、海が近いとかそういうことを少し聞いていただけ、です」
言われてみればそうだったか。
何せ。
「すみませんね、お姉さん方や鳴瀬さんは知っていたっぽいので……つい」
「どうして、征司さんが謝るんですか」
蚊の鳴くような声で抗議をされる。
「そんな方に、家族と上手くいっていないとか、そういう小さな悩み事を言ってしまって、私」
「ああ」
ようやく、納得がいった。
ソファーから立ち上がって向かいの席の傍で膝を付いて、このくらいは許されるかと目の前より気持ち低い位置の細い肩を軽く二度叩く。
長い長い髪が俯き加減のせいで床付近にまで流れ落ちている。
「すぐ近くのものに、今まで当たり前だったものに触れられない、という方がかえって心が痛いこともあるでしょう」
「……」
「何が痛いかは人それぞれだと思いますし、それを比べ合うものでもないですよ」
と言うか、と軽く鼻を鳴らす。
「昔は思うところが全く無かったと言えば嘘になりますけど、この歳にもなればとうに割り切ってますし……あと、ある意味命を預けるので必要があって調べたんでしょうが、しれっと知っている人たちより水音さんみたいに慮ってくれる人の方が全然好ましいですので!」
そう一気に言った後、一呼吸置いて僅かに顔が上がってくるのを待って目を合わせる。
「水音さんが少し楽になるなら力になるよ、って言ったのは俺だから」
「……征司さん」
「小さな女の子が泣いているのは放って置けない性分なんですよ」
実際のところ涙を零していたわけではないけれど、気配が落ち着くのを待ってから。
「コーヒー」
「?」
「半ライスでお代わりしますか?」
ボトルを持っておどけ気味に聞けば意図は通じたのかほぼいつも通りくらいに戻った表情で軽くグラスに手で蓋をしながら首を横に振られる。
なので自分の分にだけ二杯目を注ぎながら話を再開する。
「まあでも、目を付けるとしたらそこからですよね」
「え?」
「水音さんとしては自分の本来とは異質な何かが在るという上にそれが自分を望まない方向に持って行っている訳で、その……肯定的には取れませんよね、どうしても」
柔らかめに笑えていることを祈りながら話を振る。
すると少し置いてから小さくゆっくりと、けれどはっきりと答えが返ってきた。
「正直に言うと」
「ええ」
「よくわからなくて、こわい……です」
小さく震える両手がセーラー服のリボンの前で握られる。
「お父様もお母様も、お姉ちゃんたちもとても優れた水と氷の使い手だと聞いていますから」
せめて正反対ではなく派生する属性ならな、と俺ですら思わないでもないし……この子は何度願ったことだろうか。
「前例がないというのは、有り得ないともイコールではない、と個人的には思いますが」
「……」
「まず言えるのは、身体への悪い影響をコントロールするところから、ですかね」
少なくともそれは明確に排除すべきだと言える。
「今日は少し時間が遅くなってきたので次回以降にしますが、出来る限り協力はさせて貰いますから」
「?」
きょとん、とした顔に違和感を覚える。
「ええと、また征司さんがこの前みたいに……」
「それを水音さん本人が可能になれればそれに越したことはないので、それをレクチャーしようかという話、ですね」
昨晩本人不在だったが話し合いの結果、余り他人に教えたくはないけれど水音さんにだけなら、という話で決着していた。
みだりに人に話すようなこともないだろうし、何より自分でコントロールが一番手っ取り早い。
……人柄を信頼できるくらいには時間が過ぎていたのか、とも思う。まあ、初対面から良い子だけれどこの子。
「そ、そうだったんですね」
驚きと希望が七三といった表情に、また、おや? と内心首を捻る。
「鳴瀬さんあたりから聞いていませんでしたか?」
「その、今朝も登校直前まで回復に努めていたので慌ただしくて」
「そういう訳だったのですか……」
「あ、これでも元気になれるの杏も驚くくらいの最短記録だったので!」
苦笑いを別の意味で取ったのか彼女比で慌てて言い募るさまを今度は本当に笑いながら見て、こちらの考えたことを尋ねる。
「今朝までそうだったのに、下校途中にここに来たんですか?」
「その、ぼんやりしている中で……征司さんの言っていた選択というのが気になってしまって、もしかして私の知っている普通と少し違うのかって」
言いながら、手つきと表情が萎れていく。
「やはり……聞いてしまったのは私が無遠慮でしたでしょうか」
「いえ、だったら最初から濁しますし、その、そうではなくて」
「?」
「水音さんに教えるのは自分の意志だからいいのですが、余り他の方に知られるのも憚られるのでお一人だけにという条件にしたんですがね」
「はい」
「お年頃のお嬢さんが一人で訪ねてこられるのは良くないな、と今更気付いたんですよ」
「あ」
一旦停止した水音さんが一分後復旧して言う。
「でも、征司さんは誠実な方、ですし」
駄洒落か? と思いながらも一応大人を意識して返答する。
「水音さんにそう思っていてもらえているのは有難いですが、傍から見たらどうとか色々あるじゃないですか」
「はい……」
「というか、その前提でお一人で来たんだと思ってました」
じゃないとあの二人が傍から離れないと思うんだが。
「ちづちゃんとは学年が違いますし、杏は書類などを書いているときは近寄ってきませんから」
「成程」
それで下校時の立ち寄り許可を一人だけ書いてこうなったのか……まあ、あの二人も無論というか近くの公園にいる気配がしているんだが。
まあ、これはなんというかわざと存在を知らせて下手なことをするなと言われている気がする。
「!」
そんな時に、テーブルに置いていたスマホが振動してメッセージの到着を告げる。
「……征司さん?」
「いえ、大したことはありません……レオさんが暇なら飲みに行かないかとか」
「やっぱりお二人、仲が良いんですね」
「話が合うのは認めますが……どちらかというと玩具にされている感じですよ」
言いながら、この状況を彼女に知られるのはまずいな、と心の中で冷や汗をかく。
女子高生を一人で上げたんならあたしも来たっていいじゃん云々という展開が脳裏に浮かぶ。
まあ、自分から言うことでもないしバレたときは何とか言い逃れるか、と考えてから目の前の方へ意識を戻す。
「とりあえず今日のところは水音さんの疑問点を解消できた、ということで……」
「征司さん?」
「いや、むしろそういう視点で言われたことで生まれたときから自覚がある人とか力の把握についてもそれぞれだよな、と改めて思っただけで」
この子は……元々二つ持っていて、一つは間違いなく遺伝で、もう一つはどうなんだろうか。
ともあれ、上手く全てが治まる方向へ動いてくれればよいのだけれど。
「次回以降、とりあえず自分のやり方を見て頂いて参考になるかどうかからしてみますか」
「はい、よろしくお願いします……あの、それで」
「ええ」
「征司さんに、私のことをその、お願いした人って」
「……口止めはされていますので」
一応、約束は守って明後日の方を向いてわざとらしく口笛を吹く。
まあバレバレも筒抜けだろう……安堵と嬉しさの表情で胸を押さえている。
「協力は惜しみませんので」
「はい」
「解決させましょう」




